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二人の男
[視点:筆者]
土砂降りの中、一人のスーツ姿の男が傘も持たずに走っている。
やがて、見慣れない路地の中にひとつだけ屋根のある店を見つけ、その中に一旦体を滑り込ませた。ハンカチで体をふきながら男……松澤聡一は「最悪の日だ」と溜息をつく。
そして彼が雨宿りで入った店は、
――キャンキャン! ワンワン! ニャー
耳栓をしても聞こえるだろう動物の鳴き声に溢れたペットショップだった。松澤は顔を歪ませ、ソッと店の中から外に出て屋根の下に立つ。苦手なのだ、動物は。
すると。
「わぁっ」
店の入り口から男の声が聞こえて、ひっくり返ったらしく「ドンッ」と鈍い音が続けて聞こえた。転んだ脚だけが見える。
「おい、大丈夫か?」
突発的に敬語が消えた。すぐに咳払いをする。松澤がすぐに向かうと線の細い華奢な体躯の男が尻もちをついて、痛そうな表情をした後に松澤の方を見て困ったような微笑みを見せた。明らかに気を遣ってくれている。
「すみません、人が居るのに気づかなくてビックリしちゃいました……」
その笑顔に松澤は少し見惚れてしまった。優しそうな人柄と子どものような純粋さがにじみ出ている。そのエプロンについたネームプレートには「仙崎」と書かれていた。
「えっと……仙崎、さん。怪我がなければ幸いですが、何か謝罪の品物を用意します」
すると仙崎という名の男は、松澤の言葉の意味がわからないとでも言うように目をパチクリと瞬かせる。そしてどこか上ずった声で返した。
「しゃ、謝罪……?」
「えぇ、謝罪の品物を」
松澤の言葉をようやく噛み砕いて理解したのか、仙崎はぶんぶんと顔を横に振って「いただけません!」とキッパリ断る。
なぜ?と聞けば「僕が悪いので」と言ってようやく立ち上がった。
そして外を眺めては薄くため息をつく。
「外……土砂降りですね」
「はい」
「これだと傘がない人は風邪ひいちゃいますよね」
……それは私のことか? とついつい言いたくなったが、悪気があるようにも到底思えず口の中に言葉を押し込めた。
すると無言でいる松澤の方を見た仙崎が「あっ!」とようやく気付き、ぺこぺこと何度もお辞儀をする。
「ごめんなさい、気づきもしないで……! 今タオルを持ってきますね!」
「あ、いや……気になさらず」
「ダメです! 風邪ひきますから!」
そう言ってパタパタと店内に戻っていく姿がなぜか息子に似ていると思った。どちらかと言えば、零二の方か。
ものの数分もしないうちに仙崎が戻ってきて、タオルを手渡した。するともう一枚持ってきたらしく、……なんと松澤の頭をくしゃくしゃとタオルでふき始める。
「!?」
「大丈夫ですよ、犬や猫の匂いはついてませんから」
「いや、そうではなく……」
こんなこと、若い時に妻に数回ほどされた以外にない。というか、髪型が……。
後に髪が乱れた松澤がタオルを下ろして仙崎を見つめる。すると仙崎は顔を赤らめた。
「あっ! も、もしかして髪型のことでしたか!? 本当にごめんなさい」
「あぁ……得意先はもう訪ねたので大丈夫です……」
「でも」
「?」
仙崎はこちらを見れずにいるのか、ぼそっと言った。
「男の僕から見ても……格好いい、です」
「……、えっと……」
言葉に困るが、それでもなぜか嬉しさはこみ上げる。なんだろうか、妙な気持ちだ。
「あ、いや……申し訳ないことをしたのをごまかそうとしたわけではなく!」
「いえ、本当に大丈夫ですから。それに息子や妻になんだか似ていて面白かったです」
必死に弁解している仙崎を優しく諭した松澤の言葉に、仙崎はパッと顔が明るくなる。
「お子さん、いらっしゃるんですか?」
「はい、二人。下の子は十歳になります」
「あ、じゃあ僕の子と同じだ! 千尋って言うんです、学校は……」
「私はこの辺には住んでいないので、学区は違いますね」
「そうでしたか……。ちょっと残念です」
なんだかしょげた犬のようにうなだれる仙崎は大人なはずなのに本当に子どものようだ。『人の親』には見えなかった。
「あなたは、息子さんと仲がよさそうですね」
きっと子どものような人だから、息子ともちゃんと遊んであげられるんだろうと松澤は思う。きっと微笑ましい光景だろう。
「そうですね、ケンカは特にないです。妻と息子はよくケンカするんですが、仲裁に入ろうとすると妻が怖くて怖くて……」
その光景を頭の中で描き、松澤は羨ましく思った。やがて仙崎が覗き込むようにして松澤を見る。
「そちらは、どんなお子さんなんですか?」
そんなに笑って話せるような面白みのない家庭のことを、この純粋な人に話していいものか迷ったが、キラキラとした瞳で見つめられていると言うほかなかった。
「あなたの家のように温かみのある家ではないですが……。上の子は、よくやっています。私の会社の跡継ぎにふさわしいとも思いますし。ただ、下の子が。まだたくさん遊ばせるべきなんでしょうが、うまくコミュニケーションがとれなくて。私には時間もないものですから」
仙崎は雨を見つめながらそっと聞く。
「お名前は、なんて?」
「零二です。優しい子なんです。それは私にもわかるのですが、お互いうまく会話ができなくて。妻も病気がちですから外に連れていくのもできない。私はあなたのような父親になりたかった」
「僕も体、弱いですよ。だから外ではあまり遊べていないと思います。でも……、そうだな、零二くんがもう少し大きくなったら話せるようになるかもしれません。その時はしっかり零二くんの意思を尊重してあげるべきかなと。……あ、すみません! 偉そうに……」
「いえ、参考にさせてもらいます」
それから松澤と仙崎は土砂降りからしとしとと降るように変わった雨を見つめる。
しばらく色々な話をしていたが、仙崎はふと、ポツリと言った。
「ごめんなさい。実はもうひとつ謝りたいことがあって」
「というと?」
俯いていた顔を上げた仙崎は少し泣きそうな顔をしていた。
「……本当は、あなたに渡せる傘があったんです。でも僕はもっとあなたと話したくて、そのことを隠していました。今、持ってきますね」
「……!」
店内に消える人影。自分も、本当はもう少し話したい気分であった。せっかく出会えた縁が切れてしまう気がして切なく思う。
やがてビニール傘を持って現れた仙崎が静かに傘を渡した。
「お仕事、お疲れさまでした。道が濡れてますから、お気をつけて」
「ありがとうございます。……あの、仙崎さん」
「? はい」
「……いつか、お茶でもいかがですか? 私もあなたともう少し話したいので」
その言葉に、悲しみに暮れていた仙崎が目を丸くして、すぐにうなずく。
「喜んで!」
そうして見せてくれた笑顔に、松澤は何度も思い返しては幾度となく助けられていた。
***
数年後。
「……父さん、急な話ですみませんが、留学の件を断らせてもらいます」
はじめて自分の意思を伝えた零二に、驚きと喜びを隠せなかった。しかしそれと共に。
「現在、教師を殺した人を匿っています。でも、これは彼が悪いわけではない。……信じてもらえますか? 今から簡単に説明します」
「……ご迷惑をおかけしてすみません、父さん。配慮の方、ありがとうございます。お元気で」
とんでもない報告と、家族の縁を切ってもらって構わないと告げられた。
もうすでに、携帯電話はつながらなくなっている。
「零二……いったい何を……」
道を違えたのは零二だろうか、それとも私……?
すると自室のドアを素早く三回ノックする音が。
「東條です」
「入れ」
思わず立ち上がって、秘書からの情報を待つ。
「何かわかったか!」
「はい、零二様の証言は正しいと思われます。内容が内容ですのですぐに情報規制をかけました。零二様に連絡は……」
松澤は首を横に振った。
「もう連絡は取れないだろう。……そして、その一緒に連れだっている子どもの名は?」
「はい、『仙崎千尋』というそうです」
「仙崎……!?」
「……どういたしましたか」
「いや……その子の父親は今何を?」
「実の父親とは死別してるそうで、現在無職の内縁の男が……」
「待て、死別……? 父親は、亡くなったと?」
「はい」
目の前が真っ暗になりそうだった。でも今はそんな余裕はない。
「東條、少し頼みがある」
「なんでしょうか」
「二人に何か身分証明書を作ってくれ。偽造で構わない。そしてできることならこの通帳と共に渡してほしい」
すると東條は微笑んだ。
「そう仰ると思っていました。すでに作成中で、現在二人が行きそうな場所も特定している最中です」
「さすがだな」
「何年私が傍であなたを見てきたとお思いですか? 零二様の件は、お任せを」
「頼んだ」
そうして早急に東條は部屋を立ち去る。
残された松澤は座り心地のよい椅子に体を任せ、真っ暗な雨の降る空を見つめた。
「仙崎敬介、さん……」
あなたの一度きりの笑顔に何度救われたか。
自分の仕事のことは置いておいて、早くにあなたと話す機会を持てばよかった。
そんなことを嘆いても、もう遅い。失った命は還らない。
東條が去るときに渡された資料に軽く目を通せば、人懐っこい笑顔で微笑む『仙崎千尋』の写真があった。
あの人となんとなく面影が似ている。優しい子なのだろう。
この子が人を殺したというのが信じられないが、よほど怖い思いをしたのだと思う。零二の説明では、少し言葉を濁す場面があったから。
「千尋くん……どうか父さんの分まで幸せになってくれ」
ふたたび濃紺の空を見つめる。窓ガラスには自室を照らすオレンジ色の照明が写っていた。
松澤は目を閉じる。
……なぜかあの笑みを思い出せば、ひどく消えてしまいたくなった。
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