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あなたの記憶に 前編
[視点:筆者]
ときおり木枯らしが木々を揺らす中、電車は不規則な音と振動を乗客に与えながら走っていく。
これは、そう。冬になる手前の話。
「次の駅で降りよう」
零二はいつも通り冷静にそれだけ伝え、千尋も「わかった」とそれだけ返す。彼らの顔に笑顔は見られない。
しかし、手だけはお互いの存在をきつく自身に縛りつけるように指を絡めて繋いでいた。
他の乗客は四名ほどいたが、誰もが新聞を読んだりケータイを見ていたりするだけで、この二人の繋がりに気づくことはない。その無関心さは二人にとってむしろありがたいものだった。
……誰の記憶にも、残ってはいけない。
だんだんと言葉で話さずともその自覚が現れた二人は人前で話すのを極力避けるようになった。襲い掛かる不安は、繋いだ手で伝えるのみだ。
そうして次の駅で降りたとき、千尋は驚きでグッと心臓を握られたような感覚が全身に走る。
その駅の名は……
「ろく、ざん……。碌山町……?」
信じられないと思った。もしかしたら、という期待もあった。……不安も、募った。
「千尋?」
千尋の様子がおかしいのを見た零二は歩き始めていた足を止めて呼びかける。しかし千尋は零二の方を見ないまま俯き、茫然としていた。
零二はスーツケースを引っ張りながら千尋の元へ戻り、顔を覗き込む。泣いてはいなかったが、どういうわけか苦渋の表情を浮かべていた。
千尋はようやく口を開く。
「零二……ちょっと寄ってみたいところがあるんだ」
過去がひとつ、めくられようとしていた。
*
千尋は持ち物の中から古くなって黒ずんだメモを取り出し、周辺の番地をキョロキョロと見ながらどこかへと向かう。
零二は何かよからぬことが起こらないかと不安がよぎったが、不意に千尋が足を止めたことで意識が現実に戻った。
千尋の視線の先には三階建ての小さな古い病院がある。
「あ……」
か細い声が千尋の口から洩れた。零二が視線の先を追うと、その二階の一室にあるベランダにサラリとしたダークブラウンの長い髪を後ろで一つにまとめた女性が柔らかい人形をふたつ抱えながら何かを話しかけていた。
千尋はその声に引き寄せられるように一歩一歩と病院に近づいていく。
零二もその後を追うと、その女性が何を喋っているか聞き取れた。
「千尋、千鶴、今日もいい天気だね。そうだ、ピクニックにでも行こうか!」
その言葉に千尋と零二は目を見開く。
『千尋』と確かに言った。
零二は彼女から視線をそらさない千尋を見つめて言う。
「まさか……」
千尋はその言葉を聞いているのか聞いていないのか、微かにかすれた声でつぶやいた。
「母さん……」
その時だった。
「あぁ!」
彼女は悲鳴と共に手をすべらせて女の子の人形を落としてしまう。彼女はまるで本物の子どもを落としたかのように悲痛な顔で「千鶴!」と叫び、ベランダから身を乗り出そうとした。千尋がすぐに駆け寄る。
「母さん、危ない! 今、千鶴を連れていくから! 大丈夫、無事だから!」
「あぁ……あぁ、私はなんてことを……本当に無事なの!?」
「無事だよ。今連れてくね、母さん」
「『母さん』? あなた、だれ?」
「え……」
千尋の顔から表情が消えた。
「とにかくお願い、千鶴を返して!」
「……、うん……今、行くね」
千尋が人形を持って病院の中に入るときに聞こえたのは、
「よかった……。千尋、千鶴大丈夫だったって。安心したね」
……そんな母の一言だった。
*
「すみません、201号室の……仙崎 香苗さんにこの人形届けてもらえますか?」
「あら、あの方人形を落としてしまったの? それは急いで届けないと……!」
そんなやりとりをしている千尋と看護師を斜め後ろから見ていた零二だが、奥の階段の方が騒がしいことに気づく。
「千鶴! お願い千鶴を返して! お願いだから……」
「仙崎さん、大丈夫ですから落ち着いて!」
複数の看護師に抑えられながらも必死で我が子を探す千尋の母の姿があった。
「あら、やっぱり……。ところであなたはもしかして、仙崎さんの息子さん……?」
「あぁ、えっと……また明日、来ますね」
言葉を濁すしかない。堂々と本名を名乗れないことがこんなにも辛いなんて、思いもしなかった。
千尋は逃げるように病院を出て、零二は未だ暴れている女性をもう一度眺めてからその場を去る。
*
「まだこの話、してなかったな」
昼過ぎの公園には風に吹かれて落ちたイチョウの葉が敷き詰められていた。公園の木々にある葉は残り少ない。
千尋は悲しそうな表情をしながらベンチに腰掛けた。
「わかったと思うけど……あの人は俺の母さん」
零二は腰掛けることはなく千尋の前に立ったまま質問をする。
「じゃあ『千鶴』は?」
「俺の妹に……なるはずだったやつ」
「……っ」
その一言だけで零二はこれから千尋が何を言わんとするのかがだいたい予想がついた。
「昔はさ、それこそ出会って間もないころの義父はあんな性格じゃなかったんだ。爽やかで、後々息子になる俺のことも気にかけてくれてて。俺はイヤだったよ? だって俺にとって父さんはあの優しい人だったから。だから『二人で頑張って生きてこうね』って言ったクセに他の男に乗り換えた母さんのことも嫌いになった」
「……うん」
「でもある日、母さんが妊娠した。もちろんあの男の子どもで、性別が女だってわかったその日に『千鶴』って名づけられた。あいつはそれはもう喜んで、その日はケーキを買ったりして盛大に祝った」
千尋は話しながら苦い笑みを浮かべる。
「その時は、母さんが子どもを作ったことはイヤだったけど、妹ができるんだって。俺が兄ちゃんになるんだって思ったら、家族のことが少し好きになれた。千鶴が生まれたら、ちゃんと俺が守ってやらなくちゃって思ったりもして。でもある日……母さんが足をすべらせて階段から落ちた」
やっぱりだ、と零二は思った。千尋の話そうとするその後の展開も、本の続きを見透かすようになんとなく予想はついた。
「……破水、したんだ。俺こういうの詳しくないからわかんないけど、ちょうど俺やあいつがいない昼間で、母さんは脚折ってて動けなくて。それで千鶴は流産。それから家族はおかしくなった」
「さっきのあの人は精神を病んだってことか」
「うん。ひどく後悔してた。どうして足をすべらせてしまったんだ、ってずっと泣いてて。心の穴を埋めるように、あいつと酒を大量に飲んで……それで母さんはアル中。母さんの実家があるこの碌山町の病院に入院することになったんだ。そのあと、母さんが居なくなってから俺はあいつにレイプされるし……本当に家族は崩壊した」
「……お前は、あの人を恨んでるか?」
「母さんのこと? ……いや、もう恨んでないよ。一度、あの男がいないときに酒を飲みながらつぶやいたんだ。『敬介、千鶴……どうして私と千尋を置いていくの?』って。敬介は父さんの名前でさ。俺、この時はじめて母さんはちゃんと今でも父さんのこと想ってるんだって思って。酒飲む姿は辛くて見たくなかったけど、その一言が聞けて良かったと思う」
「そうか」
零二は言葉に詰まる。こういう時、なんて返せば正解なのだろう。いや、そもそも正解なんてあるんだろうか。
木枯らしが一層強くなり、木々を揺らす。
しかしこの耐えがたい沈黙を吹きとばしてはくれなかった。
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