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あなたの記憶に 後編

  [視点:筆者]  一気に自分の家族の過去を吐露した千尋は一息おいてから苦そうな表情で最後につぶやいた。 「でもなー……まさか人形に自分の『立ち位置』が奪われてたってのは、結構こたえる」  今の母は夫はいないけれども、千尋と生まれることのないはずだった千鶴と幸せな日々を送っている。少なくとも、彼女が見ている世界では。  千尋は涙をこらえるようなぐずついた声で言った。 「……俺、母さんが分からないほどに変わったかな。俺の顔見ても、『誰?』って……。ホントは『その人形じゃなくて俺が千尋だよ』って言いたかったのに、あんなに大事そうに人形持ってんだもん、んなこと言えねぇよ……」  零二の目の前で千尋は両手で顔を覆ってうつむく。  その様子を見ながら零二が隣に腰かけた。 「……確かに悲しいかもしれないけど、姿を見るために会いに行くことはできるだろ」  その言葉に何かひっかかる節があり、千尋は数秒遅れて聞き返す。 「え、零二は……」 「俺の母親は亡くなってる。体の弱い人で、ずっと病気を背負って生きてきた。俺が本当に幼かった頃はあたたかい家庭だったはずだが、父さんの起業した会社が軌道に乗るにつれて父さんはなかなか家に帰ってこれなくなって、その跡継ぎを担うために兄さんは寮制のいい学校に入って。家では俺と母さんだけが残された。母さんは俺に寂しい思いをさせたくないと思ったのか、できる限りの力で俺にたくさんの思い出をくれた」 「え、父さんと兄さんはずっと帰ってこなかったのか?」 「いや、たまには帰ってきていた。家族全員そろうのは少なかったけれど。……でも、家に帰っても忙しい父さんは会社の話を兄さんとすることが多くて、その頃からあの温かった家庭が急激に冷めたものになった。ちょうど、俺が人嫌いになり始めたあたりだ。俺も自分の置かれている立場を分かってくる歳になると、寂しい思いをさせないようにと病気を持ちつつ色々してくれる母さんに申し訳ない気持ちが起こって、母さんの好意も受けないようになった。……これが、悪かったんだな」  零二は苦しそうな顔をして、うつむいた顔の先で指を組んで握りしめていた両手に力を込めた。 「……なにがあったの」 「それから数週間後、突然母さんの得意料理の味が酷くまずくなった。俺はすぐにわかって箸をおいてみたけど、母さんは何かを隠すように上手くはない偽物の笑顔を見せながら平然と食事を摂っていてすぐにわかった。味覚障害だ。そして俺がそのことをなるべく傷つけないように指摘すると、母さんの笑顔が壊れた。『ごめんね、調味料間違っちゃったかな』と慌てた様子で、ショックを受けているのは目に見えてわかった」 「その味覚障害は何が原因だったの?」 「……癌だった。病院に行ったときには既にステージもかなり上で、医者曰くリンパにも転移していると告げられて。俺はそのことを母さんに隠そうとしたが、突然入院させられたその病室で俺の手を握って言った。『零二、お願い。本当のことを教えて?』そう言われたら、答えるしかなかった」 「……」 「それから母さんは自分の意思で、家で療養することに決めた。延命治療が難しいことを知っていたからかもしれない。それから俺は母さんの代わりに料理を作るようになって、味のわからない母さんにふるまった。母さんは過去に俺が作った料理でも一度もやめることなくその料理を写真におさめては何度も眺めて、父さんや兄さんに『おいしかったのよ』と自慢していた」  話を静かに聞いていた千尋の目から涙が落ちる。そのことに気が付いた零二は泣きそうな笑みをしてそっと千尋を抱き寄せた。 「そうして出来る限り母さんと過ごすようになって数か月だったか。母さんは自室のベッドで傍らに座る俺の手を握りながら静かに息を引き取った。色々不満や言いたいこともあったろうに、文句のひとつも言わずにいつも優しく笑ってる人だった」 「たった、数か月……」 「そうだな。俺は良かれと思って母さんから離れたけど、それは母さんを一人にして寂しい思いをさせてただけだったんだと気づいて、今でも後悔してる。だからさ」  零二は少し千尋から体を離してまっすぐ見つめる。 「たとえ自分のことを『千尋だ』って気づかれなかったとしても、あの人に笑顔で接することが一番だと思う。明日、また病院に行ってみないか」  そう促す零二の言葉に千尋は涙をぬぐいながらはっきりとうなずいた。  *  翌日、病室の前で。  自分の心臓のあたりに手を置いて深呼吸する千尋の背中に、零二が手を当てて支えていた。 「いけそうか?」 「……うん、行ってくる」  気づかれないというのなら、せめて『息子』としてではなく『人形を拾っただけの友好的な人』になりきって行こう。  そう心に強く刻んだ千尋は病室のドアを開けて入っていく。  それを見届けた零二はしばらく閉まったドアを見つめ、壁によりかかって手で目を覆った。良い人を演じるのは思っていた以上につらい。  ……千尋がうらやましかった。  はじめて、千尋に『妬み』という感情を覚えてしまった。  こうして正常な状態ではなくとも母親に会って話すことができる。でも自分は会うことすら、話すことももう出来ない。あの時母に自分ができることがまだあったんじゃないかと、答えをみつけてもどうしようもない問いが脳内を埋め尽くしては胸が締め付けられる。  俺と千尋に空いた空虚な心の隙間が完璧に同じものではなかったことに失望する。いや、それくらいは分かっていたはずだ。境遇が何もかも同じ人間は居ないに等しい。  なのに、なぜこんなにも千尋が遠く見えるのか。  はやく俺のもとに帰ってきてほしい。できることなら「やっぱり気づいてもらえなかったよ」と泣きながら、心に隙間を空けたまま帰ってきてほしい。俺を、置いていかないで。 「……最低だな、俺は」  千尋の傍にいるだけでこんなにも人間らしい醜い感情を覚えてしまった。そんなすごい力を持つ千尋が好きで、自分の片割れのように大事で、愛していて、なのに今だけは忌まわしい。  他人でもなく、親でもなく、友人でもなく、俺だけに依存してしまえばいい。そうしたらこんな醜い感情ごと千尋を愛せる。……そうだ、愛していたい。  人間らしい感情を自分が持つのは嫌いだった。だけど千尋が与えてくれたのなら、きっと愛せる。  ふと、手に雫が落ちて、初めて自分が涙を流していることに気が付いた。この涙も、今だけは許せるだろうか。  *  千尋がドアを開けた先には、ひとつだけ置かれたベッドに座っている母の姿があった。 「あー、えっと、こんにちは」  すると彼女は千尋の顔を見ると明るく笑って千尋と千鶴の人形を脚に乗せて抱える。 「あなたは昨日千鶴を助けてくれた方ね! ありがとうね、本当に今思い出すだけでもゾッとするわ……千鶴、お礼を言いなさい」  そう言いながら女の子の人形をさぞ人間のように扱う。 「あ、あぁいいですよ、お礼なんて。元気な姿を見れて安心しました」 「そう、わざわざありがとうね。ホントは旦那にもお礼を言わせるべきなんだけど、仕事がまだ終わってないみたいで。ホントに何やってるのかしら、敬介は」 「……敬介」  理想の家庭がそこにあった。千鶴が義父の子どもということさえなければ、父さんと元気な母さんと千鶴という妹がいて、その中にいるであろう千尋は幸せに笑っていると思う。 「ちょっと変なこと聞いてみてもいいですか」 「変なこと? 何かしら」 「そのお子さん……千尋くんは、どんな子ですか?」 「千尋? そりゃあ旦那に似て優しい子よ。面倒見もいいし、明るくて、こっちまで元気もらえるの」 「へぇ……」  相槌を打ちながら、泣きそうになる。体の奥から涙腺へと一気に湧くものがあった。  だが母親は気づかず話を続ける。 「でもねー……、優しい反面、この子無理しちゃう時があるの。私たちや友達を心配させないように、辛いことや悲しいことも全部隠して笑ってて。まぁ、嘘の下手な子だからすぐわかっちゃうんだけどね」  そう言って母親が愛しそうに千尋の人形を見たとき、もう我慢ができなかった。  今まで母が居ない間に味わった寂しかったこと、悲しかったこと、ずっとずっと辛かったこと。そのことがいっぺんに体からあふれ出した気がした。  千尋のその様子を見て母親は目を丸くして驚く。 「えっ、ちょっと……どうしたのよ、大丈夫?」  そう言いながら人形でなく千尋を抱きしめてくれた。それが本当に嬉しくて、幼いころに戻ったように声を上げて泣いた。  そのとき、何かあったのかとドアのノックの後に間髪を入れず零二が入ってくる。 「すみません、何があったんですか?」 「あ、昨日この子と一緒にいた……。 いや、何もないの。ただ息子の話をしてただけでこの子突然泣いちゃってね」 「あ……ごめんなさい。そろそろ、帰ります。お話聞かせてくれてありがとうございました」 「ううん、気にしないで。あなた、無理しちゃだめよ? なんだか千尋に似てるから、心配で……」  いくらさっきまで妬んでいたとしても、病室に入ってから零二は千尋の姿が痛ましく見えていつの間にか嫉妬心は消えていた。  零二は泣きじゃくる千尋の背中に手をおいて小声で「行こう、千尋」と声をかける。千尋は小さく何度もうなずいた。  それを彼女は聞き逃さなかったが、意味がよくわからない。  やがて零二と千尋が部屋を出ていくその瞬間、千尋が閉まっていくドアの先ではっきりこう言った。 「いつまでも元気でいてね、……母さん」  彼女が昨日から聞いてよくわからなかった『母さん』という言葉。  しばらく彼女は思考が停止していた。  そしてヒクっと顔の表情が突然歪む。そして千尋の人形を見た。 「え、だって、千尋はここにいるじゃない……え?」 「でも……あの顔……敬介に似てる……? そんな、まさかね」 「いや…でもあの黒髪の子は『千尋』って呼んでた……」 「チヒロ……千尋、千尋……」  そのとき頭に浮かんだのはあの言葉。 『母さん』  その瞬間、彼女は衝撃が走ったかのように急いで窓を開けた。  そうだ、あの子は……  私の子だ。 「……千尋! 千尋! 行かないで、私を置いていかないで!」  後ろから大声を聞きつけた看護師数人が部屋に入って彼女を抑えつける。しかし彼女は必死に息子の名前を呼び続けた。たとえ、もう届かなかったとしても。  ***  ふと、千尋はたくさん泣いて腫らした瞳を背後に向けた。 「どうした?」  と、涙はとうに消えた零二は問うが、千尋は小さく首を横に振りながら何かを諦めたように笑う。 「いや……母さんが俺を呼んでくれた気がして」 「そうか」  そうして束の間の沈黙から最初に零二が口を開いた。 「……綺麗な人だったな」 「ありがと。……でも俺から母さんに気が移ったら、許さねーから」 「それはないから安心して」  癒えない傷を持つ二人は歩みを進める。 『誰の記憶にも残ってはいけない』  それは知ってる。もう十分理解した。  だけど、どうかあなたの心の中に俺の記憶が少しでも残りますように。  そう願って千尋は零二と共に町を後にした。

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