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第4章 1-ぬくもり

  [視点:松澤零二]  ……河川敷の廃屋で、千尋の首を絞めた。  もちろん殺す気はない。行き場のない怒りにも似た感情が噴き出した衝動だった。  忘れたくてもこの手が覚えている。千尋の頸動脈を押さえたときの命の脈動を。 「生きたい」と叫ばれている気がした。その瞬間に自分自身を獣のように感じた。  ……自分が恐ろしい。  たった数分前までは、千尋を嬲ることが間違った愛し方だと気づいていたはずなのに。  *  千尋と二人、路地を歩いていた。あれから俺たちは一言も交わさずにいたが、一歩一歩と踏み出すたびに自分の胸を鉛のような重たいものがゆっくりと埋めていく。  目の前を無言で歩くその金髪さえ見たくなかった。心に苦い味が広がる。衝動に押し流された弱い自分が脳内でまた再生された。  すると突然千尋が交差点を曲がろうとしたところでビクッと半歩退く。俺にもピリッとした動揺が沸き、瞬時に本田が居たのかと疑って千尋の前に飛び出した。  しかしそこには人がおらず、交差点から見えるのは個人経営のコンビニがひとつあるだけだった。……いや、違う。その店の中に千尋は恐れたのか。  よく見れば窓ガラスの向こうで警官が店主と話しており、何か一枚の紙のようなものを見せている。その内容まではよく見えなかったが、考えられるのは指名手配犯の顔写真や消息不明の探し人の写真もしくは、いつの日か本田が道端の男に見せていた自分たちの顔写真ではないだろうか。仮にここ一帯の地域の警官と本田が繋がっていれば、の話だが。  その考えにたどり着いたとき、わずかに後ろに引かれる感触があった。  振り返るとうつむいたままの千尋が不安そうな顔をして俺のコートをキュッと指先で掴んでいる。言葉はない。しかしなんとなく言いたいことは伝わった。 「……大丈夫だ。別の道を行こう」  俺の言葉に、千尋がコクリと小さくうなずく。  道を引き返すとき、不思議な安堵感が俺を満たしていた。大丈夫だ、嫌われていないと。  そして自分はまだ頼られている。俺だけを、頼っていてくれる。それだけでしばらくは自分を保てそうな気がした。  胸につっかえていた重さがやわらいで、息がしやすくなる。  ……自分の背後で千尋の足取りが不安定になったことに気づかずに。  ***  しばらく歩いた頃、風が一際強く吹いた拍子に自分の足がよろけた。  一瞬何が起きたか分からず目を見開き、足元がふらついたのだと気づいたときには眩暈と頭痛が一斉に襲ってきた。 「……っ」  思わず息をつめると千尋が近寄る。 「零二、大丈夫か? 少し休む……?」  見れば千尋の顔色も悪く見えた気がした。自分の気のせいだろうか。  とにかく、これしきのことで立ち止まってはいられない。  俺が千尋を守らなくては。  そう気張って千尋に首を横に振って見せ、再び足を踏み出す。  そうだ、俺が守らずに誰が千尋を守る? いや、例え誰かが千尋を守れても渡したくはない。  心にあるらしい胸のぽっかり空いた穴の形は違えど、共に空虚な心を分かち合えた唯一の人間。正反対の性格なはずなのに心の奥底で繋がっているような充足感。……手放すものか。  そしてさらに歩き、古い軒並みに入って数分後のことだった。  ――ボスッ  降り積もる雪に重いものが落ちる音。  見ればオレンジ色のスーツケースが倒れており、……自分の目の前で千尋が膝から崩れ落ちるように倒れた。 「千尋!?」  千尋の名を叫び、駆け寄って屈んだ瞬間。 「……っ」  まるで雪道から見えない腕がのびて俺を抱き込むように、ぐらりと視界がぶれた。  右頬に雪の冷たい感触がしたことで自分も倒れたのだ、と気づくまでに数秒かかったが、気づいたところで地面が自分を引き込むようにしていて体が言うことを聞かない。冷静に、地球の重力とやらを感じていた。  そうだ、千尋は。  そう思って視線を巡らせようとしたとき。  突然ガラッと目の前の家の扉が横に開き、五、六十代ほどの女性が俺たちに駆け寄ってくる。 「ちょっと! 大丈夫かい!?」  そう言いながら俺の肩を揺らし、俺の視界からは見えない千尋にも目をやっていた。  そうして俺の額に手をあて、次に俺のすぐ近くにいる千尋の額にも手をあてて驚いた顔をする。 「あんたたち、すごい熱じゃないの! 救急車……」 『救急車』。その単語にぼんやり霞み始めていた意識が糸を張ったように戻り、咄嗟に女性の腕をつかんだ。 「救急車は、呼ぶな……あと、警察も……」  喉から絞り出すようにそう言うと女性が少々困ったような表情を返した。もう敬語で話をする余裕さえ自分には残っていないらしい。  すると女性は溜息をついた。 「わかったよ。話はあとで聞く。とりあえず中に入っていきなさい」  そして俺の体に腕を回そうとする女性に俺は、 「千尋を、先に……」  そこまでつぶやいて、意識が途切れた。  ***  瞳を開けば、見慣れない天井があった。古めな家屋からは畳の匂いがする。  茫然としながらなぜ自分はここにいるのかと記憶をたどっていき……千尋が倒れたところで意識が鮮明になって飛び起きた。 「千尋……!」  すると階段をバタバタとのぼってくる音がして目の前のドアが開け放たれ、「零二!」と久々に嬉しそうな声をあげながらTシャツにジャージ、タオルを首にかけた千尋が現れる。  事態を飲み込めず言葉を失っていると、千尋は「もうすぐご飯できるから、もう少し寝てよう」と言って、今まで気づかなかった自分の隣に敷かれた敷布団に寝転がった。 「体は、大丈夫なのか」  しばらく声を発していなかったのか口から出るのはかすれた声。聞くと千尋はこちらに背を向けたまま「俺の心配より自分の心配しろよな」と返す。  その態度にまた河川敷の出来事がよみがえってきて、俺は目をそらすように横になり目を閉じようとしたとき。  そろそろと千尋の布団から腕がこちらに伸びてきた。よく見ればその手が震えているのがわかる。 「?」  俺がその手に疑問を持ったとき、微かに震えた口調で背を向けたまま千尋が言った。 「零二……あのさ、俺たち……あの頃に戻れるかな」 『あの頃』  その言葉で千尋がいつのことを指してるのかが分かった。あの学校にいた頃の放課後のことだろう。  俺も戻りたいと思っていた、あの頃に。  ふと視線が枕元の自分たちのスーツケースに向く。 『――どうぞ、少しでも楽しい旅をなさってください』  頭の中で東條さんの声がよみがえる。  ……そうだ、東條さんはこのスーツケースを俺たちに渡したときにそう言った。けれどこれまで、楽しい旅とはあまりにかけ離れていたと思う。  今の俺たちの状況はまだわからないが、今はもしかしたら楽しい旅に向けての休息なのかもしれない。  俺は、再び体を起こして震えたままの千尋の手を引いた。 「わっ」  予想外だったのか千尋は目を見開いたまま俺のふところにスッポリ入る。俺はそのぬくもりを感じとるようにしっかり抱きしめた。 「本当は、これだけで良かったのかもしれない」 「……零二?」 「お前は抱かれたいと思ってくれたかもしれない。……俺も抱けるのは嬉しい。けれどお前を嬲るような抱き方じゃなくて、こうやってただ抱きしめあえるだけで俺には十分だったんだと思う」  その言葉に千尋は息を詰まらせた。そしておずおずと伸ばした両腕をギュッと俺の体に巻き付ける。 「……俺の方こそごめん。河川敷のときのこと、思い出してたんだ。……俺、あの時ウソついた。本当は激しく抱かれることで何もかも忘れてしまいたいって思ってて……零二の言う通りだった。あ、でも零二に抱いてもらえるのは本当に嬉しかったんだけどっ……」  必死に訂正を入れる千尋が可愛くて耳元にキスをした。 「わかってる」  すると照れたように千尋はふざけるように怒る。 「なっ……なんでそんなに自信あり気なんだよ!」  そうして俺たちは笑いあって、また抱き合った。 「千尋、どこか行きたいところはあるか?」 「どうしたんだよ、急に」 「『楽しい旅を』って言ってくれた東條さんの言葉を思い出してた」 「んー……俺たちを知る人が誰もいないところかなぁ。心が安らぐ場所っていうか。でもさ、今は少し休も?」 「そうだな」  やがて、「ご飯できたわよー」と階下から女性の威勢の良い声が響き渡った。千尋は途端に「ご飯できた!」と明るく言って立ち上がり、「池畑さん、零二起きたよー!」と言いながらドアのすぐ近くにあるらしい階段を下りていく。  俺はその様子に微笑み、長らく体を完全に起こさなかったからか多少ふらつきながら立ち上がった。  炊き込みご飯の香りが鼻腔をくすぐる。俺は大きく息を吸い込み、新しい生活の始まりを感じ始めた。

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