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第4章 2-つぎはぎの家族

  [視点:松澤零二]  階段を下りていくと突き当りには正面と側面に三つドアがつけられていて、正面のドアは開け放したままになっていた。  その先を覗いてみるとコンクリートで出来た、まるで個人経営の居酒屋のような空間が広がっている。品書きは無いが、すだれがいくつか下がっていた。 「おはようさん」  突然近くから聞こえた声に小さく驚きながらもその方を見ると、五、六十代ほどの女性が小上がりのようなところから出てくる。 「……おはよう、ございます」  するとカウンター席に座っていた千尋が女性を紹介した。 「この人は池畑雪子さん。倒れた俺たちを助けてくれたんだよ」  そうだ、この顔はあの時の。なんとなく倒れた直後の記憶が浮かんでくる。助けてもらったときの会話が脳内で再生された。  そうしてまた部屋の中を見回すと、池畑さんは俺の心を察したのか説明してくれる。 「不思議な家でしょう。昔旦那が生きてた頃は少ない予算ながらも居酒屋をやってたんだ。今は店を畳んでしまったから大丈夫、人は来ないよ」 「今はおひとりなんですか?」 「ううん、息子たちが関東の方に。でもめったに帰ってこないから、安心していいよ。……あ、そこのサンダル使ってね。一応小上がり以外は土足だからさ」  池畑さんが指を差した俺の足元を見ると、長い間使われたらしい簀子(すのこ)にサンダルが置いてあった。  そこでハッとした俺は、元は客が出入りしていただろう玄関の磨りガラスを見る。 「池畑さん……俺たちがここで休ませてもらってる間に雪は降りましたか?」  すると池畑さんは小首をかしげながら「確か降ってなかった気がするけど……」と曖昧に答えたため、早足で玄関に近づき鍵を開けてソッと横開きのドアから外を見た。 「零二? どうしたんだよ」  背後で千尋が心配そうな声音で聞いた。俺が確認したかったのはスーツケースのタイヤの跡だ。  万が一、雪道に跡が残っていてこの家の前で途切れているのを本田に見つけられたら危ない。  ……しかし天が味方したのか、風でさらさらした雪が俺たちの跡を消してくれていた。  安堵の息を吐きながら横開きのドアを閉めて鍵をかけ、視線を室内に戻すと千尋と池畑さんは不安そうな表情をしていたため謝る。 「……すみません。外の雪道に俺たちのスーツケースの跡がないか確認したかったんです」  すると緊張していた気が抜けたのか、またぐらりと視界がぶれた。 「零二!」  そんな俺をすぐに支えてくれたのは千尋で、俺の腕を肩で担ごうとしてくれているのを池畑さんが手伝ってくれる。 「あんた、無理しちゃ駄目だよ。千尋くんは先に目が覚めたけど、あんた二日ぐらい眠ったままだったんだから」 「二日……? 俺が、そんなに?」  神妙な顔をする池畑さんが嘘を言ってるとは思えない。けれど、信じられなかった。 「うなされてたよ。覚えてないかい?」 「まったく……」 「その度に千尋くんが泣きそうになるもんだから」 「ちょっと! それは別に言わなくてもいいだろ!?」  その会話を聞いて、千尋が池畑さんに心を許していることに納得がいく。千尋も最初は池畑さんに警戒心があったんじゃないだろうか。  しかしこの人の人柄は、人を安心させてくれる。不思議と俺の警戒心もすぐに解けた。 「さ、零二くんもご飯食べて元気になろう? 千尋くんから話を少し聞いたけど、きっとあんたらは栄養失調で倒れたんだよ」  そう言いながら池畑さんは千尋と俺を小上がりに誘導する。 「千尋くん、今日はみんなで顔合わせて食べたいから小上がりで食べよう。ご飯持ってくるの手伝ってくれるかい」 「うん、いいよー」  そうして食卓に並べられたのは肉じゃがに豚汁、ホウレンソウのおひたし。そして千尋と池畑さんは炊き込みご飯で、俺は卵がゆだった。 「零二くんはお粥ね。炊き込みご飯はもう少し元気になったら食べさせてあげるから」 「わざわざ、すみません」 「気遣わなくて大丈夫だよ。私らは家族みたいなもんなんだから」 「家族……」  その言葉が胸に響いた。こんな温かな家庭は幼少期以来かもしれない。死んだ母さんの微笑みがよぎる。  料理を並べ終えた千尋が俺の隣に座って、池畑さんは俺たちの向かいに座った。 「さ、食べようか。いただきます」 「いただきます!」 「いただきます」  久しぶりに、誰かの手料理を食べた。自分で作った料理を食べていたのもだいぶ前になるが、誰かに作ってもらっていたのは母さん以来だろう。もう随分前のことだ。  この間千尋の母を訪ねたときに自分の温かかった家庭の頃を思い出していたこともあって、胸にこみ上げるものがある。  千尋が俺の家で料理を食べて泣いてくれたときの気持ちがようやく身に染みてわかった。  もし俺が一人で食べていたなら、泣いていたかもしれない。そんな弱い自分を認めたくはなかったが、実際はきっとそうなる気がする。  そして長らく満足した食事や寝床にありつけていなかったせいだろう、最近は心が弱っていた。  隣を見れば久々にキラキラした千尋の笑顔がある。  ……あぁ、そうだ。この笑顔を俺は見たかった。  いつしか俺も、微笑んでいた。  *  おいしい食事をたべ終え、風呂に浸からせてもらった後。  久々にサッパリとした気分のまま浴室を出ると、小上がりの方に明かりが見えた。  少しその方を覗くと池畑さんはテレビを見ている。事情を話すには今しかない気がした。 「池畑さん」 「あぁ、零二くん。どうだい、お風呂はいってサッパリした?」 「はい。本当に何から何までありがとうございます。それで、ちょっと話しておかなければならないことがあって」  そこまで一気に言い終えてから、池畑さんがじっと俺の顔を凝視していることに気が付く。 「……何か?」 「千尋くんの言ってたとおり、ちゃんと敬語使えるんだね」  一瞬何のことか分からなかったが、記憶をさかのぼると心当たりがあった。 『救急車は、呼ぶな……あと、警察も……』  俺たちが倒れていた時に俺が言った言葉だ。今になって申し訳なくなる。 「あの時は余裕がなくて。本当にすみま……」 「そしてイケメン」 「いや……」  調子が狂う。真面目に話そうとしているのだが。  すると池畑さんは楽しそうに笑った。 「ごめんごめん。ちゃんと話は聞くからさ、ここに座ってよ」  そういってテレビを消した池畑さんの向かいに俺は正座する。しかし、話さねばと思ってここに来たものの、どこから話せばいいか見当もつかない。 「あの……」  俺の困惑した表情を読み取ってくれたのか、池畑さんは机に肘をつきながらゆっくり話し始めてくれた。 「千尋くんね、泣いてたよ」 「え……?」  *** [視点:筆者]  これは千尋が目を覚ました日の夜のこと。  小上がりの間に、池畑雪子と正座をしてうつむいている千尋がいた。  千尋は手元に東條から手渡された偽造の免許証を持っていたが、数秒見つめてから首を横に振って池畑をまっすぐ見つめる。 「……俺の名前は、仙崎千尋です。今寝かせてもらってるのは、松澤零二って言います。あの……助けてくれてありがとうございました」 「なんもそれくらい、どうってことないよ」  その優しい言葉で、千尋の顔に影が差した。また俯いてしまう。 「その、今俺たちお金が無くて……何か別のことでお返しできればって……いや、それよりもまず……」  千尋が話しながら混乱し始めているのを見た池畑は、自分の息子を見るような温かい目をしていた。 「いいよ。時間はいくらでもあるし、ゆっくり聞くから」 「っ、はい……」 「お茶でも飲もうか」と声をかけて池畑が千尋に温かい煎茶を出すと、ますます千尋の表情は凍てつくように固まる。これは余程の理由があるのだろうと池畑は最悪のパターンをいくらか頭の中で想像していた。  千尋は恐る恐る声を絞り出す。 「本当は俺、優しくされたら駄目な人間なんです」 「それはどうして?」 「――……人を、殺しました」 「…………本当に?」  池畑には俄かに信じがたい話だった。しかし震えながらうなずく千尋の尋常でない様子を見て、嘘ではないのだと現実を叩きつけられる。 「それで俺たちは『本田』って名前の警察から逃げてました。もしかしたらこの区域の警官にも知られているかもしれません。本当は、俺たちは池畑さんのところからすぐ出ていかなければならなかった……」 「……」 「でも今は零二があんな状態で……正直、頼れるのは池畑さんしかいません。零二は悪くないんです! 悪いのは俺です、どんな仕打ちを受けてもいいです。でも零二が治るまではここに居させてもらえませんか! 本当に、本当にごめんなさい……」  そこまで言い切って、頭を下げた千尋の瞳から涙がこぼれていた。それは見せかけの涙ではなく、懇願する気持ちや否定される恐怖がこめられているのがわかる。  池畑は千尋の隣に座って背中を撫でた。 「どうして、自首しなかったんだい? 何か訳でもあるんだろう」 「それは……、ごめんなさい。事件のことは、零二が起きてから話したいんです。でも今は……!」 「いいよ、わかった。私はあんたらをただの悪人じゃないって信じる。だから居れるだけここに居なよ」 「本当、ですか……?」 「その代わり」  ピシッと言われた一言に千尋の肩がすくむ。すると池畑は優しく笑った。 「……そんなに怖がらないどくれよ、私が悪者みたいじゃないか」 「ごめんなさい……」 「その代わり、私の家族になっておくれ。ホントの意味じゃないよ、私には息子もいるしね。ただ一人でずっと暮らしてるのは寂しいものだ。だから息子の代わり。料理も掃除も手伝ってもらう。どうだい?」 「俺で良いなら、もちろん……!」 「あともうひとつ!」 「はい!」 「ここでは他人行儀な敬語もいらないし、『ごめんなさい』って言いそうなときはなるべく『ありがとう』って言いなさい。その方が絶対良いから。ね?」 「はい。……ありがとう、池畑さん」  ようやく涙をぬぐいながら笑顔を見せた千尋に、池畑も笑い返して頭を撫でる。  *** 「俺が眠っている間に、そんなことが……」 「うん。だから零二くんもここに居てよし。お金も要らないから手伝いだけよろしくね」 「はい」  そこで池畑はテーブルに軽く身を乗り出して聞いた。 「それでだ。あんたから聞きたいのはひとつ。どんな事件があったんだい?」  その言葉で零二は言いづらそうな顔をして視線を背けた。しかし池畑のまっすぐな視線に根負けする。 「あんたらを信用したいんだ、そのためには教えてもらわないとならない。言いづらいだろうし思い出したくもないだろうが、教えてちょうだい」  零二は息を整えて話し始めた。 「これから話すことに、妙な偏見などは持たないでください。……千尋は、常日頃から男に性的虐待を受けていました」 「……!」  零二は視線を下に向けながら理路整然と、事件前から今にいたるまでのことを池畑に話す。池畑は時折息を詰まらせたり、目を見開いたりするものの、何も言わずしっかり零二の話を聞いていた。 「ここまでが、俺たちの今までです。ここから先のことは何も考えていません。明日がどうなるかも、わかりません」 「そんなことが……」 「千尋が自首しようとしているのを妨げているのは俺です。悪いのは俺でもあります。どんな目で見られてもしょうがないと思います」  しかし、池畑は零二の想像とはまったく別の反応をした。零二の両手をひしと掴み、「よく今まで頑張ってきたね」と声をかける。その声は涙ぐんでいるようだった。  池畑のその様子に零二は困惑するが、「その言葉は千尋にかけてやってください」と優しい手つきでその手を握り返す。  そして付け加えるように言った。 「あの」 「なんだい」 「俺も……家族として見てもらえますか」  少しぶっきらぼうだが照れているような口ぶりだ。  思わず池畑は笑顔になる。 「もちろんだよ! あんたも大事な息子の一人だ!」  その言葉を聞いて零二の顔にようやく微笑みが戻った。  ……ここにひとつ、つぎはぎだけど温かい新しい家庭が生まれた。

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