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第4章 4-出会いは春の嵐のように
[視点:筆者]
――別れの日は、突然やってくる。
*
季節は春。
数か月の間、池畑の家に匿らせてもらった千尋と零二は、外に出ることはできないものの二階の部屋の窓から入ってくる桜の花びらで春を感じていた。
千尋は畳の上に寝ころびながら窓から入る日差しを手で遮る。
「はぁ……春ってホント昼寝日和だよな。最高……」
そう言いながらごろんと寝る体勢を変えた。その様子を見てやはり犬のようだと思う零二だが、口にはするまい。
この数か月と今はまるで白昼夢のようだと零二は思う。公園のベンチで寝たり、一日食べ物を口にできない日もあったのが嘘のようだ。
温かい家庭で、食事を作ってそれを「美味しい」と食べてくれたり、時に大掃除をしたり。普通のことだったはずなのに本当に楽しい日々を送ってきた。千尋とだから……かもしれない。
だからこそ、ふとした瞬間に怖くなる。この生活が壊れてしまう日がいつか来るんじゃないかと。
そしてその予感は……当たってしまった。
零二が読んでいた本から目を背けてなんとなく窓の外を見たとき。
「!」
忘れるはずもない。あのオリーブ色のコートを着た男が家の前の道を歩いていた。
幸いながら零二と千尋には気づいていないようだが、零二は全身が凍ったかのように硬直して、数秒してから音をたてないように窓を閉める。
その異常さに千尋は気づき、小声で「どうした?」と聞くと零二は千尋の両肩に手を置いてまっすぐに見つめて言った。
「落ち着いて聞いてくれ。……本田だ。本田がいる」
「!」
それを聞いた途端に千尋はビクリと体を震わせ、両肩に置かれた零二の手を離して握り返す。
「本当に本田だったのか? 見間違いじゃなく……?」
「見間違えるはずもない、あの特徴的な背格好は絶対に本田だ」
「どうしよ……池畑さん今買い物行ってる……」
その時。
――ピンポーン
チャイムの音が鳴った。その音とタイミングに千尋がさっきの数倍ビクリと反応し、零二に抱き着く。
零二も千尋をギュッと抱きしめて何かに耐えるように少し前にかがむような姿勢になった。
「どうしよう」
千尋が震える声で聞くと、穏やかだった零二はあの荒んだ生活をしていた時のような鋭い目で簡潔に返す。
「居留守」
零二の頭の中では最悪のパターンが見えていた。仮にこのチャイムを押しているのが本田だとする。聞くことは「この少年たちに見覚えはありませんか? シルバーとオレンジのスーツケースを持ってるんですが」。
しかしここで零二たちは居留守を使うため、本田は諦めて別の家へと聞き込みに行くだろう。その時にもし勘のいい人間に話を聞いたら大変なことになる。
なぜなら、外の誰かにバレないように生活している零二たちだが、池畑は千尋たちと暮らすようになって以前より性格が少し明るくなったからだ。もし、「最近変わったことは?」と近隣の住民に聞いて池畑について答えられたら、本田は迷わずこの家に目星をたてるだろう。
「……千尋、荷造りをしよう」
その言葉を聞いた瞬間千尋は悲観に暮れた顔をする。
「いやだよ、零二……。せっかく池畑さんと仲良くなったのに……」
『もう逃げ回るのは嫌だ』……そう言っているようにも聞こえた。しかし。
「俺たちを匿ってくれた人が捕まるかもしれないんだぞ。俺たちは罪を犯してる」
「でもっ」
「とにかく、池畑さんのケータイに電話してくる。……千尋、俺たちは確かに家族のようになれたけど、迷惑かけたらいけない。わかるよな?」
零二は子どもに言い聞かせるように口調を和らげると、千尋はうつむいたまま悲しそうに「……うん」とつぶやいた。
*
近所のスーパーに行って買い物をしていた池畑のケータイが鳴った。
いつもはスーパー内の雑音で聞こえず、よく家族から批判を買っていたのだが何故か今日に限って気づくことができた。買い物かごを床に置いてケータイの表示を見れば『自宅』と書かれている。
一体なんの用件だろう。池畑の胸に不安が生まれる。千尋が何か食べたいものがあって連絡してきた、とかそういう内容ならいいのに何故だろう、電話を取るのが怖い。
池畑はそっと通話ボタンを押した。そこからは電話を通してでもわかる緊迫した様子の零二の声が聞こえた。不安は的中だ。
「池畑さん」
「どうしたの、ちょっと待ってね、人に聞かれないところに行くから」
零二には普段から仮に自分たちから電話が来たときに、できる限り人に会話の内容を聞かれない場所に行くよう何度も言われた。もし『零二くん』や『千尋くん』という単語を話した時、近くに本田や親しい誰かが居たら事情を話さざるを得なくなるからだ。
その時は「警戒心が一段と高い子だな」と思って聞くだけだったが、あの真剣な目を今になって思い出す。
そして。
「うん、ここなら大丈夫だよ」
「そうですか。――いいですか、落ち着いて聞いてください。前に話した本田という刑事が、この家の前の道を歩いていました」
「……!」
「そして先ほど、チャイムを誰かが鳴らしていきました。本田である確率は高いです。そして今は周辺に聞き込みをしているかもしれません、帰り道に注意してください。オリーブ色のコートを着ています、もし出会って聞かれても自然体でいるように」
『自然体でいるように』と聞いて、今まで「任せておいて!」と言っていたのに、いざとなると自信がなくなった。帰り道に誰にも会いませんように。この子たちのことを気づかれませんようにと、久々に神様とやらにお願いをした。
「それで、今は大丈夫なのかい」
「これから俺たちは荷造りを始めます」
言葉が微妙に噛み合わない。零二に少しでも焦りがあるのがわかる。
「待って、私が帰るまで居るわよね? 絶対居るわよね?」
「場合によりますが……」
「なんとかやり過ごすことはできないの? また逃げ回ることになるのよ」
「……池畑さん。俺たちは犯罪者です。そして俺たちを匿っているあなたは本来、『犯人蔵匿罪』というものにあたるそうです。助けてもらった立場で申し訳ないですが、これ以上あなたと俺たちに繋がりがあってはいけない」
「そんな……」
「とりあえず俺たちは荷物をまとめておきます。何か動きがあればこちらから連絡しますし、そちらも何かあれば連絡をください」
そうして一方的にプツッと電話は切れた。
どうしよう、どうしよう。
池畑の表情は急激に青ざめていった。
今、できることは。
私があの子たちに最後にできることは。
*
小声で話していた電話を切った零二はあまり足音を立てないようにと静かに二階へあがる。
そこには意外にも穏やかな様子の千尋が、近くの棚の上に置かれた写真立てを見ていた。
その写真立てには元々池畑の家族が写っている写真が入っていたのだが、この前の年越しの日にセルフタイマーを使って池畑と千尋と零二で撮った写真を上から入れて飾って置いていた。
真ん中には幸せそうな池畑の笑顔、その左にはピースサインをしたキラキラと笑う千尋、そして池畑越しで千尋に肩を組まれて困ったように笑う零二。その後ろの小上がりのテーブルには三人では食べきれないであろう量の少し豪華な食事が乗っている。
千尋は近づいてきた零二に気づいて一度その方を見て、再び穏やかな眼差しを写真に向けた。
零二もその向かいに座って同じように写真を見る。不思議と心は落ち着いて、視線も穏やかなものに変わった。
「楽しかったよな」
静かに千尋が言う。零二は少し驚いた。頭の中でイメージしてた千尋は恐怖に震えて「どうしよう」や「出ていきたくない」と言い出すと思っていたのだが。
春の日差しが閉めた窓から入り込んで千尋の金髪を照らしている。その穏やかな顔つきは、さっきの震えていた千尋とはうってかわって成長した姿を見たかのようだ。
おそらく、これは池畑のおかげだろう。安心できる生活を与えてくれたから、零二にも千尋にも精神的な余裕ができた。
千尋の言葉に少し遅れて零二が返す。
「そうだな」
そうして静かにその写真を引き抜き、元の家族の写真を前にしてその後ろに自分たちの写真を隠した。これで元通り、とつぶやき棚には以前と同じ家族の笑顔が飾られる。
千尋はその写真を数秒見つめ、何を考えているのかは分からないが、軽くため息をついて立ち上がった。
「いつ出ていこうか」
またもや零二を驚かせる言葉。親のような気持ちで千尋の成長に驚く。やはり、池畑への恩や迷惑を考えたからかもしれない。
零二は部屋の天井近くにかけられている時計を見ながら答えた。
「池畑さんは、自分が戻るまでここに居てほしそうだったから、その後になると思う。そこは臨機応変に動こう」
「うん」
「でも……そうだな、だいたいの目安を決めるとしたら」
「夜明けがいいな」
自分が言おうとしていた言葉を千尋が先に言う。零二は微笑んだ。
「同じこと言おうとした」
その時、玄関から大層大きな音が聞こえて池畑の帰りを知らせた。
何かガサゴソと大きな音がするため二人は顔を見合わせて階段を下りていくと、大きなレジ袋を持って意外にも意気揚々とした様子を見せる池畑の第一声は、
「超自然体だったわよ!」
で、
「なんの話?」
まったく意味の分からない千尋は零二を見上げたのだった。
*
最後の晩餐は普段とそこそこ変わらないものだった。これもきっと池畑なりの気遣いなのだと零二は思う。
話に聞けば、先ほどの『超自然体』というのは本田と対面したわけでもなく、かと言って人目を気にしてキョロキョロと怪しく帰ってきたわけでもない、という意味だったらしい。
そんなことをわざわざ得意げに話す池畑の無邪気さというのか茶目っ気というのか、とにかくその性格で千尋も零二も心が和んだのであった。
そして出発はだいたい夜明け頃の午前四時あたりだと伝えると池畑は少し視線を落として「そうかい」と答える。
「そうだ、明日の朝に食べるためのおにぎりを作ってあげる。二人の好きな五目ご飯だ」
「マジで!」
「よーく味わって食べなさいよ!」
「わーってるよ。当たり前じゃん」
「すみません、最後までありがとうございます」
「最後とか言うんじゃないよ、辛気臭いだろ? ……それとね」
池畑は改まったように居住まいを正した。二人も何か重要な話をされるのだと思い、同じく姿勢を正す。
「いいかい、『受け取らない』っていう言葉は絶対言わせないよ。これはアンタらの世話をした私からの命令と言ってもいい」
そうして差し出されたのは封筒に入れられたお金だった。少し厚みがある。二人は目を見開いたが、池畑の言葉を聞いていたためどう言えばいいのか言葉を失っている。
「これは息子であるアンタらのもの。本当の息子にいつかあげようとしてた分から少し拝借したんだ。もうそれはアンタらのものだから、ドブに捨てようが文句は言わない。好きに使いなよ」
「零二……」
千尋が困って零二を見上げるが、零二もどうしていいものか困り渋い表情をしていた。すると池畑は。
「千尋!」
「はい!」
急な呼び捨てに驚きながら千尋が返事をする。
「私が五秒かぞえるまでにそのお金を受け取りな。じゃないとゴミ箱に捨てるよ」
「えぇっ!?」
「はい、五、四……」
「速い、速いって! 受け取ります、受け取りますから!」
そうしてバッとお金の入った封筒をつかんだ千尋を見て、池畑は満足そうな笑みを浮かべる。そして零二を見た。
「あんたの恋人は、あんたと違って扱いやすいね」
「恋っ……!?」
千尋が声を裏返したことに笑った零二はそっと千尋を抱き寄せる。
「……そこも可愛いところなんです」
その余裕ぶりに千尋の心臓の高鳴りは止まらなかった。
*
無情にもとんとん拍子で時間は進む。
いつもより少し早く就寝して起きた二人はスーツケースを手に、夜明けの空の下で池畑と向き合って立っていた。
去年自分たちが歩いてきた方向の空は未だ紺色で夜が落ち、今の自分たちの頭上は薄紅色に染まっていて澄んだ空気が自分たちの間をすり抜けて行く。まるで出発を急かしているようだ。
千尋は泣きそうになるのをこらえながら、池畑の顔を見れずに感謝の言葉を言う。
「池畑さん、俺たちのこと、助けてくれてありがとう。すげー楽しかったし、良い思い出たくさん作れた。助けてくれたのが池畑さんで、ほんと良かった」
「うん」
池畑は二度うなずいた。零二も続けて礼を言う。
「本当にお世話になりました。危険な思いをさせてしまってすみません。お元気で」
「うん」
そして二人同時に「ありがとうございました」と頭を下げた。池畑は二人の肩を叩いて控え目に笑う。
「よしとくれよ。私こそ、さみしい思いをせずに済んだんだ。こちらこそありがとう。また近くに来たら寄ってきなさいな」
その言葉と池畑の表情を見て二人も笑った。
「はい」
「その時はまた料理作ってね」
「わかったよ」
「それじゃ、また」
二人は振り返らずに朝日が昇る方へと歩き出す。千尋の鼻をすする音と、その頭をなでる零二の姿。その姿が見えなくなるまで池畑はずっと立ちすくみ、やがて一人、残された。
***
……十数年後。
池畑雪子は施設に入ることになった。現在は都心に住んでいる息子の家族が家に来ていて色々なものを片付けている。
すると息子の嫁が写真立てを持って、車イスに座って外の桜を眺めている池畑のもとへとやってきた。
「見て見て、懐かしい写真が出てきたよ! お義母さん若いねぇ」
この写真も持ってこうか、と嫁がその写真を古びた写真立てから取り出したとき。
「あれ? もう一枚ある。お義母さん、この子たち誰?」
そこにはまだ高校生くらいであろう金髪の少年と黒髪の少年と写る、幸せそうな池畑雪子の姿があった。
先ほど見ていた写真よりも随分最近に撮られたもののようだ。
嫁が首をかしげながらその写真を池畑に見せたとき。
「あぁ、これは……」
すっかりしわがれた声になった池畑はあまり自由に動かなくなった手で二人の顔をなぞる。
「私の息子たちだ……元気にしてるかねぇ」
すると嫁は苦笑いをして言った。
「お義母さん、何言ってるのー? 息子は輝彦さんでしょ」
ボケちゃったのかな? と無邪気に笑いながら嫁は家の中に入っていき、その場には池畑だけが取り残される。
あの時も、一人残されたんだった。その悲しみと、写真に写る笑顔たちを見て池畑は初めて涙をこぼした。
「……元気で、やってるのかね」
二人の消息は知れない。術がないのだ。春の風のように去ってしまった。
この子たちとの日々は、誰にも話さずもう直に来るであろう墓場まできちんと持って行こう。
そう決めた池畑のひざ元に、はらりとふたつの桜の花びらが落ちた。
***
池畑の元を離れて二週間ほど経ったとある日の昼時。
ガコンガコンと大きい音を立てて回るドラム式洗濯機をぼーっと椅子に座って見つめる千尋がいた。ここは無人のコインランドリーである。零二は飲み物を買いにコンビニを探しにいったところだ。
古びたコインランドリーのドアは開け放たれていて、天気のいい外から桜の花びらがちらちらと店内に入ってきていた。
時折ビュンと勢いのある風が吹く。
すると荒い風と共に若干セミロングの茶髪の女が堂々と荷物も持たずに入ってきた。歳は同じくらいだろうか。
千尋がその方を一瞥して目線を洗濯機に戻したとき、自分の斜め後ろにある背中合わせの椅子にドカッと座った女はハッキリと言った。
「あんた、もしかして『仙崎千尋』ってヤツ?」
「!」
千尋は驚いて振り向くと、ビンゴだと女は笑った。
この女が何者かまったく分からない状況下で、千尋の脳内は混乱する。零二も今は傍にいない。
思わず立ち上がってしまった千尋を見て女は片手で「座れ」と合図した。
「まぁそう警戒すんなよ、警察とかじゃないから。あたしは繊利 千秋 。センリって呼んでよ」
そう男らしく言ってニッと笑う。
――出会いは、春の嵐のように。
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