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もうひとつのプロローグ

  [視点:繊利千秋] 「ねぇ千秋聞いてー! やっと洋介と仲直りできたの!」 「へぇ、よかったじゃん!」  ――どーでもいい。 「千秋はさー、もっとメイクに関心持ちなよ。元が良いんだからメイクしたらもっと可愛くなるよ!」 「えー、そうかなぁ」  ――ほっとけっつの。ウザいなぁ。 「千秋、彼氏作んないの?」 「気の合う人がいればね」  ――うるせぇ、黙ってろ。  本当のあたしは、こうやって愛想の良さそうな笑顔で返すような人間じゃない。  でもだからと言って本当の自分をさらけ出せばクラスから浮くのもわかっていた。浮いたら、それはそれで面倒なことになりそうなのは目に見えている。  本当のあたしを知ってるのはこの学校で一人だけ。  なんとなく目線を教室の中心の方へやると、黒髪のロングでハーフアップにした眼鏡の女が視線に気づいてこちらを振り向き、誰にも分からないように微笑んで小さく手を振った。  あたしはそれを切り捨てるように目を背ける。  本当のあたしを知るのは、あの地味なもう一人の「千秋」。あたしと同じ名前を持ちながら地味なままでいるあいつを、どうにかして変えたいと思った。  でもまぁ、それも『どうでもいい』と割り切ってしまうこともできるのだけれど。  ……毎日がどうでもいいことで埋め尽くされて、あたしは息のしづらい生活を送っていた。  もっと自由になりたい。本当のあたしで居られるところに居たい。人の目も気にせず、悪習が蔓延しきった世の中から抜け出して、法も常識も性別も関係なく生きたい。  まぁ、あれだ。こんな人生とっとと辞めて、ちょっと高いところから『最初で最後』と謳って空を泳いでみるのもいいかも。命綱もパラシュートもないスカイダイビング。  どうせ終わるなら盛大に。中途半端に生かされないように。 「千秋、どしたの?」  友達……という名の取り巻きに声をかけられて気づけば、ホームルームが終わって周りの生徒は帰りの用意をしていた。 「千秋ー、今日どっか遊びに行かない? あ、夏休みの予定も立てたいよね!」 「ごめん。今日用事あるんだ」 「そうなの? あ、まさか彼氏とか!?」 「残念ながら違いますー」  ――なんでいつも恋愛に話をつなげるかな、お前は。のんきに笑ってろよ。  あたしは心の中で親指を下に突き立て、もう一人の千秋にも目もくれず教室を出て行った。  * 「用事なんて、あるわけねーじゃん」  校門を出てからそう独りでに呟いた。あいつらと居たって楽しくなんてない。結局は自分が誰かの上に立っていたいだけで、あいつら自身も気づかぬうちに誰かを見下してる。  そうしてあたしは通学路となっている表通りから裏道へ入り、少し汚らしい居酒屋やホームレスのいる路地に入った。こんなところに行くのはあたしくらいだろう。日にもあたらない場所だ。  でもなぜか、ここの方があたしにとってまだ息のしやすい場所だったりする。 「おう、千秋ちゃん!」  名前を呼ばれて右を見れば、屋台の客席に馴染みのある顔があった。汚なくなった土木工事の恰好をして頭にタオルを巻いている。 「お、ケンさんじゃん」  手招きされるがままにその男に近づき、隣の席に座った。屋台で作る焼きそばのにおいが漂う。 『ケンさん』としか名前の知らないこの男は屋台の主人に「この子に焼きそば出してやって」と言って新聞を目の前の小さなテーブルに広げた。  するとすぐに出来立ての焼きそばがあたしに差し出される。あたしはそれを受け取りながらニッと笑った。 「ケンさん、コレもしかして奢り?」 「おうよ! 食べろ食べろ!」 「ラッキー。ありがと」  あたしは自他ともに認める強運の持ち主で、こういうことは昔からよくある。だから「奇跡」と呼ばれることなんてあたしにとっては普通で、希少価値なんてそれほどない。  良いことがあるのは嬉しいことだけど、でもだからと言ってこの毎日に満足してるかと言われれば話は別だ。  ――幸せだけど、死んでしまいたい。  ……なんて、どれだけあたしは身勝手なんだろう。この世の中には不幸な目に遭って辛い人は多いのに。  そんなことを考えていると、ケンさんは小声で「千秋ちゃん、これ小遣いな」と言ってテーブルの下越しに四万円を差し出した。  あたしは悪びれもせずお金を受け取る。 「なに、この前の競馬でも当たったの?」 「そうなんだよ! あの千秋ちゃんが指さした馬! ほら、新聞見てみ」  ケンさんは嬉しそうに新聞をガバッと開いて見せてくるが。 「あー、ケンさん。あたし競馬とか全然わからないし、興味もないからいいよ」 「そうか……。いやぁもったいない。千秋ちゃんも金に困ったら競馬で一儲けしろよ!」 「逆でしょ、金がない時にギャンブルとか自滅行為」 「俺の予想でやったら確かにそうだが、千秋ちゃんの運の強さなら絶対当たるぞ!」 「そうかな」  ……で、焼きそばを奢る代わりに次の予想がほしいと。 「ケンさん、次も予想してほしいんでしょ」 「ははは、バレたか」 「そこで嘘ついたりしないのがケンさんの良い所だよね」 「そうか? 普段この素直さでツイてない目に遭うんだけどな」 「ふーん。で、その憂さ晴らしでギャンブルやってるわけだ」 「千秋ちゃんはなんでもお見通しだなぁ」 「まぁね。ん、ごちそうさま。……ケンさん、次は三番の馬かもよ」 「え、コイツか!? 普段勝ったりしねぇぞ、コイツ……」 「あくまで予想だから、信じるも信じないも好きにして。焼きそばありがとね」  そう言って軽く手を振って屋台を後にする。  しばらく小川に沿って道を歩いてると、ぼーっと川を見つめるホームレスの男がいた。  この人、覚えてる。  お金ぜんぜん持ってないのに、財布なくして困ってる人にタクシー代出してあげて助けてた人だ。 「おじさん」 「ん? なんだいお嬢さん」 「『お嬢さん』はやめてよ、性に合わないからさ。はい、これプレゼント」  そうしてさっきケンさんからもらった四万円から二万を抜き出してその手に渡す。  その額を見ておじさんは驚いたようで、数秒硬直したままだった。 「どうしたんだい、このお金……。君は若いんだから、好きなものに使いなさい」  そう言って二万円を返そうとするおじさんの手を制す。 「あたしさー、たまに思うよ。なんでおじさんみたいに良い人がホームレスになったりするんだろうって」 「良い人、かぁ……。なんだろうね、素直に生き過ぎたのかな」 「どうだか。あぁそのお金、私のじゃないから気にしないで。ギャンブルで当てたようなもんだから」  そしてあたしはグッとおじさんに強く二万円を握らせた。 「このお金、今月までに使い切って。札のまま貯めておいたら、今度盗みに入られるから。住む場所も変えたほうがいい。あと、今から初めて会うホームレス仲間のことを信用しちゃ駄目だよ。その人は悪い人だから」 「君はいったい……まるで千里眼でも持ってるみたいだ」 「分かんない。けど、あたしの予想は当たるよ」 「そうなのかい。教えてくれてありがとう。このお金も」 「別にいーよ。あ、最後にもうひとつだけ。このお金をもらうことがおじさんにとっての幸運だとしたら、この先もっと良いことが起こるよ。……人助けって良いもんだね」  そう言って再び歩き出す。  あたしには見えた。あのおじさんが前に助けた女が実は金持ちで、再会したときにお礼をしてくれる。それは新しいマンションの一部屋の提供と、ちゃんとした職だった。  こういった映像が脳内で流れることはたまにあって、昔は「ただの妄想かも」って思っていた時期もあった。けれどそれは後に本当に起きる出来事だっていうのは経験から実証済みだ。  しばらくして、裏道から表通りに抜けるとき。 「宝くじだ」  一枚の宝くじが路地に落ちていた。あたしはそれを拾い、ひらひらと動かしながら歩いてると、不思議とこれが当たる気がしてくる。  すると。 「うわぁっ」  ……なんだか情けない声が聞こえた。  その方を見ると花にホースで水をやっていたおばさんの手元が狂い、スーツを着て道を歩いていた男がその水をまともに受けていた。  思わずフッ、と笑いそうになる。いや、笑ってない笑ってない、大丈夫。  あたしはそのツイてない男の横を通るときに、 「良いことが起こりますように」  と言って手にしていた宝くじを渡して去る。男は訳のわからない顔をして「はぁ?」と言っていた。  ……結局今日もあたしの強運は発揮されて、家に着いた頃には大きな花束と焼き立てのフランスパンを小脇に抱えていた。もちろんお金はつかってないけど、経緯は面倒だから割愛。  そして「おかえり」と出迎えてくれた母さんは毎日のように喜び、その顔を見ればまぁこんな生活も悪くはないよな。と思い返す。  退屈な毎日であることに、変わりはないけれど。  *** [視点:都島紀彰]  嘘だろ、としか思えなかった。  徹夜で残業をして朝方に家に帰れば、そこには妻と息子の姿の代わりに離婚届が置いてあった。  妻の名前と押された印鑑を茫然として見つめる。  その傍らにメモがあった。 『私たちよりも仕事を選ぶあなたに、もう耐えられなくなりました』  何を馬鹿なことを……と思う。  仕事ではキャリアが重要だ。それに、それなりに良い生活をさせてあげられてたのは俺が働いてこそだろう!  俺はそう憤慨し、ケータイを取り出す。取り出すが……手が震えていた。 「待つんだ、俺……。一旦冷静になろう」  そう言ってネクタイを外して首元を緩める。  これが悪い夢ならばいい。そうだ、悪い夢。昨日歩いていてホースの水をかけられたのも、上司に理不尽なことで叱られたのも、全部夢だ。  目が覚めたらいつものように笑顔の妻と息子がいて……あれ?  いつも笑顔、だったか?  疲れを理由に聞き流した妻の冷めた声を思い出す。 『あなたって、何も見えていないのね』  *  目覚めても、何も変わりはしなかった。  リビングでは誰もいない部屋にカーテンを閉め忘れた窓から登り始めた朝日の光が差している。  それなのに、あたたかさを感じることができない。冷たい空気と床の感触が全身を強張らせていく。  実感した。これが、絶望というやつかと。  *  ……俺の人生は、どうなっているんだろう。いつも周りが見えないまま、目の前に差し出された道をひたすらに進んでいただけだったかもしれない。 『あなたって、何も見えていないのね』?  じゃあその時、俺はいったい何が見えてなかったというんだ。  釈然としない顔のまま会社へ向かう道を歩く。そしていつものように今日使う資料を取り出そうとして……その手は資料ではなく昨日見知らぬ女子高生からもらった宝くじを取り出した。  それを見て立ちすくむ。  ……俺、なんのために会社に行くんだろう。もう養う人なんていないのに。  なんとかしてよりを戻そうという考えには至らなかった。妻の冷めた目からして、もう関係が戻るとは到底思えなかったから。  もういいだろう。俺の人生は、これで終わりだ。これ以上つらい思いなんてしたくない。  俺は目の前の百貨店を下から上へと見上げた。  この高さなら、死ねるだろうか。  あぁでもその前にこの宝くじ、せっかくだから宝くじ売り場に持って行ってみよう。  *  俺は青空のもと、見渡す限り誰もいなさそうな古い百貨店の屋上に来ている。  ……数時間前、信じられないことが起きた。  あの少女がくれたたった一枚の宝くじが、一億円に変わったのだ。  一億円。  あまりに大きな額過ぎて、実感が持てない。  しかし、気分が高揚するわけでもなかった。実感がもてなかったから尚のことだ。  頭の中では死ぬことばかりでいっぱいで、余生を豪遊するなんて考えは一切入ってこない。  俺は屋上の欄干の前まで行き、会社のカバンを置いて下を覗き込む。  思っていたよりも地面は遠く、それでいて自分の体がぐらっ……と引き込まれそうで、初めて死ぬことにゾッとした。  そのとき。 「おじさん、死ぬの?」 「うわぁっ」  すぐ近くの貯水タンクの影に、昨日宝くじをくれた少女がそこにいた。 「急に驚かすなよ! あとまだ三十路入って少しだからせめて『お兄さん』って呼んでくれ!」  そう訴えると少女はあどけなく笑う。 「やっぱ面白いね、お兄さん」 「そんなことより、昨日の宝くじ。すごい額当たったから全部やるよ。元はと言えばお前のものだし」  すると少女は驚いたように目を見開いた。 「……なんだよ」 「お兄さん、お金いらないの? 好きなことに使えるよ?」 「もういいんだよ、俺は」 「妻と子どもに出て行かれたから、とか?」 「……!? なんでそれを」 「いやなんとなく。当たってんだね。それにしても……お金要らない人なんていたんだ」  少女は興味深げに俺を見てくる。その視線は何か見透かされそうで恐ろしい。しばらくして、「よし」と両手を腰元にあてて仁王立ちした少女は告げる。 「決めた。あんたの命とその大量のお金、私に少しちょうだい」 「……はい?」 「あたしも本当はここから飛び降りようと思ってたんだけどさ、ひとつニュースを思い出して」 「ニュース?」 「あれ、暴行受けてた男子生徒が教師殺したやつ」 「あぁ、あれか。でも殺したかはまだ断定できてないんだろ?」 「いや、あれはその男子が殺したよ」 「なんでそう思う?」 「あたしはなんとなく見えるんだ。あの宝くじが当たることも大体予想してたし。もちろんあんたの奥さんと子どもが出てったのもね。逃げた場所も言えるよ」 「っ……」 「ただ、この事件に限っては犯人のこと全然見えなかったんだよね。そしたら興味深くなっちゃって。だから、会いに行こうと思った」 「は!? 犯人に?」 「そ。きっと犯人は悪い奴じゃないよ。私が言うんだ。間違いない」 「すごい自信だな……」 「そこで、その旅の相方がほしくなってね」  少女の目がキラリと光って俺を見る。 「それで、自殺しようとした俺か」 「うん。あたしがあんたを拉致する。それで、一緒に旅に出よう」  * [視点:筆者]  そして時間は過ぎ、夜明け頃。海の見渡せる駅にスーツケースを持った少女が立った。  少しひやりとした風が通り抜ける。  彼女は見えなかったものを見るために、そして自分に絡みついた『当たり前』から逃げるために旅に出る。  そこに車に乗って男が現れた。 「こんな時間に一人で立ってて、俺が来なかったらどうするつもりだったんだ?」  と男が聞けば、少女は一瞬儚げな笑みを見せる。 「あんたは来てくれるって、信じてたから」  ――家出少女は、夜明けに旅立つ。

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