2 / 128
とまどいながら【2】
その日俺は、社長からの突然の電話で一人会議室によびだされた。
まあ『会議室』なんて言っても、実は本人が勝手にそう呼んでいるだけの事務所近くにある喫茶店の事だけど。
ただその場所に俺が呼び出されるなんてのは初めての事だった。
社長からの連絡事項は、大抵メールで送られてくるか充彦さんを通してになる。
事務所に行ったのはこれまで、正式に契約をする事になった時と、給料の振込口座に不備があって書き直す為に呼ばれた2回だけだ。
そしてこの2回とも、まるで『後見人だ』とでも言うように充彦さんが同行してくれていた。
それにしても、何故俺一人なんだろう?
『充彦と勇輝には、まだ何も話すな』
わざわざそう念を押された事が不思議でならない。
二人に話すと何か問題があるのだろうか?
そんな疑問が消えないまま、俺は昔ながらの『いかにも』な喫茶店のドアを開けた。
カランコロンとどこか懐かしくも思えるベルの音が響き、腰こそ曲がってはいないがそれなりの年齢と思われる女性が笑顔で俺を迎えてくれる。
人好きのするその優しい笑顔に、少しだけ緊張していた気持ちが軽くなった。
「いらっしゃいませ。あら、お一人?」
「あ、いえ...おそらく先に連れが来てると思うんですが......」
ぐるりと店内を見回す。
まるで古い映画かドラマでも見ているように、そこはゆったりとした時間が流れていた。
木目が琥珀のような深い色に変わったカウンター、アルマイトの灰皿のそばには店の名前の入ったマッチ箱。
壁には大きな振り子時計が掛けられ、カウンターの端ではサイフォンがコポコポとコーヒーを吸い上げている。
俺を迎えてくれた女性のご主人だろうか?
この店のマスターらしきおじいちゃんはベストに蝶ネクタイという出で立ちで、そのサイフォンをニコニコと見つめていた。
「おう、航生! こっちだ、こっち」
せっかく心地よいノスタルジーに浸っていた気分をぶち壊す大きな声。
大きな観葉植物の鉢がパーテーションのようになって隠れた店の隅から、俺を招く手の動きだけが見えた。
「すいません。ブラジルってありますか?」
「はいはい、ございますよ。ストレート? それともブレンドがよろしいですか?」
「ストレートでお願いします。連れ、あそこにいましたので、あの席へ」
「はいはい、かしこまりました」
えっちらおっちら歩いているのは、脚でも傷めているのだろうか?
少し右足を引きずるようにして、それでも笑顔のままでカウンターへとオーダーを伝えに行く姿に、なんだか胸が温かくなった。
「おら、航生。早く来いよ」
「あ、すいません...」
急かされて、慌ててパーテーションの裏側に回る。
そこには社長ともう一人、どこかで見覚えのある女性が座っていた。
その女性に小さく頭を下げ、社長の隣へと座る。
「おう、お前何頼むよ」
「あ、今先にコーヒーを頼んできました。えっとぉ...それで、俺がわざわざ呼ばれた理由は......」
俺の質問に、社長と女性が一瞬目を合わせる。
「お前、この人知ってるか?」
「えっ? はい...たぶん何度かお目にかかってるとは思うんですけど、お話をさせていただくのは初めてじゃないかと......」
女性は少しだけ緊張したような顔つきで、傍らに用意していたらしい名刺入れから一枚の名刺を取り出した。
「ご挨拶が遅くなり失礼しました。私、株式会社ビー・ハイヴの木崎と申します」
「え? あ...ビー・ハイヴの方...? あっ、そうだ! エクスプレスの収録の時に、時々お手伝いにいらっしゃってる......」
「そうです、そうです。どうしてもスタッフの人数が限られてますので、エクスプレスは私達企画課と広報課が主に担当してまして」
「そうなんですね。いつも本当にお世話になってます。なんだか毎回グダグダな内容ですいません...編集とか、大変ですよね? 改めまして、航生です。元村航生と言います」
深く頭を下げると、彼女は俺よりも更に深く頭を下げてきた。
まるでテーブルにぶつけてしまいそうなほどで、慌てて顔を上げる。
これほど恐縮されなきゃいけない理由はなんなんだ?
もしかして...あまりにも勇輝さんや充彦さんとキャリアも人気も違いすぎるから、エクスプレスを降りて欲しいという話だろうか。
それなら予想もしてたし、二人のファンの人にも申し訳ないって思いもあったから、別にそんなに頭を下げてもらわなくても構わないのに。
今の俺の立場があまりにも幸運過ぎる事は、誰よりも自分が一番わかってるつもりだ。
「あの...どうか頭上げてください。別にどんな話でも、傷ついて暴れるとかないですから」
「暴れるってなんだ、暴れるって。木崎さんはだな、お前に...仕事の依頼に来られたんだよ」
「......は? 仕事? エクスプレス降板とかの話なんじゃ...」
「い、いえっ、まさか! 辞めてもらったら困ります! 今ファンメールが一番多いのは航生さんなんですから!」
あれ?
だったら俺が呼び出された理由がますますわからない。
おばあちゃんが俺にコーヒーを持ってきてくれ、一先ず全員が口をつぐむ。
「あー...あのだな...お前への仕事ってのが、その...何と言うか......」
コーヒーの湯気が立ち上る中、意を決したように口を開いたのは社長だった。
けれどよほど言い出しにくい内容なのか、どうにも埒が明かない。
要領が掴めず、自然と眉間に皺が寄っていくのがわかる。
「社長、大丈夫です。ちゃんと私からお話ししますから。航生くん、私は今企画課の仕事と併せて、新しいレーベルの立ち上げに関わっています」
「レーベル...ですか?」
「そうです。『クイーンズ・ガーデン』という名前で...内容のあるゲイビデオを販売するレーベルです。そしてこの完全自社制作第一弾のビデオに...航生くんの出演をお願いしたくて今日は伺いました」
ゲイ...ビデオ......?
ほんの数ヵ月前までは身を置いていたその世界の事を思い出すだけで、勝手に俺の体は小さく震えだした。
ともだちにシェアしよう!