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とまどいながら【9】
すぐに勇輝さんから返事が来て、俺とシンさんは挨拶をするとビーハイヴの本社ビルを出た。
添付してくれていた地図と住所を見ると、そこは現在地からは少し離れている。
あまり立ち寄った事の無いその地名に、俺は申し訳なく思いつつもタクシーを呼び止めた。
シンさんを奥に座らせ、自分も乗り込みながら年配の運転手にその地名を聞いてみる。
ついでに地図を見せればその店自体を知っているとの事で、裏道をうまく利用しながらいともあっさり店の前で降ろされてしまった。
時計を見れば、ちょうど5時。
たいていの居酒屋は、チェーン店も含め予約でも入れてない限りは5時半オープンだ。
勇輝さんにはちゃんと『今から行ける店を知りませんか?』と送った。
勇輝さんからは、『5時には開けてもらえるから、ここはどう?』と返事が来ていた。
しかし今、俺達が立っている店の入り口には、『支度中』の札がかかっていて、思わず呆然としてしまう。
どうしよう...わざわざこんな所までシンさんを引っ張ってきておいて、まさかの門前払いなのか?
恐る恐る後ろを見れば、俺がアワアワしてるのに気づいたのか、シンさんはニヤニヤとおかしそうに笑っていた。
「何を一人で百面相してんの?」
言われて慌てて自分の顔を手で覆う。
今さら隠せるとも隠そうとも思わないけれど、あまりにカッコ悪くてそのまま平然としている事もできなかった。
「まだ閉まってんの? 俺が聞いてみたろか?」
引き戸にかかったシンさんの手を急いで押さえる。
「あ、いや...ここを紹介してもらったのは俺なので...ちゃんと俺が確認してきます。ちょっとだけ待っててください」
それだけ言うと、俺は覚悟を決めて入口を開いた。
「ごめんくださ~い」
「はいはい。ああ、ごめんね。うちまだ開いてないんだよ」
仕込みの途中だと思われる、丸顔で人の良さそうなご主人が、手を拭きながらわざわざカウンターから出てきてくれた。
「開店時間、うち5時半でね...ごめんね」
.........へっ?
慌ててポケットに突っ込んだスマホを取り出した。
勇輝さんからの返事を読み返してみたが、やはりそこには『5時には開けてもらえるはず』と書いてある。
少し困った顔をすると、ご主人も同じように困ったような顔になった。
そうだ、ご主人が悪いわけじゃない。
勇輝さんだって、きっと時間を勘違いしてただけだろう。
仕込みの手を止めてまで相手をしてくれているご主人を、いつまでも困らせてはいけない。
頭を下げ店を出ようとしたところで、突然店の電話が鳴り響いた。
「お兄さん、ちょっと待ってな。せっかく来てくれたんだから、席は用意するから中で待ってなよ」
背中を向けた俺に向かってそう言うと、ご主人は急いで電話へと手を伸ばした。
「はい、いつもありがとうございます、千成でござい...おう、なんだみっちゃんか!」
突然聞こえた耳慣れた名前に思わず振り返る。
「うん...うん...それはさっき勇輝くんから電話はあったよ...おう...はいはい、驚くような若い男前? 今一人来てるけどな...あ、このお兄さんの事か? ああ、そうか...うん...うん、なるほど。あいよ、わかった。きっちり旨いモン食わせるから任せときな」
ひとしきり話が終わった所で受話器を置くと、ご主人が俺にニコリと笑いかけてくれた。
「航生くん...かな?」
「......はい」
「ああ、悪かったねぇ。さっき勇輝くんから、『一人客が行くと思う』って電話はあったんだけど、まさかこんなに若い子が来ると思ってなくてさ。今、みっちゃんが改めて『航生ってハタチそこそこの超男前が連れと一緒に行くから、座敷用意してやって』って連絡くれたんだよ」
たかが居酒屋を探したいってだけだったのに、わざわざ二人して動いてくれたのか。
嬉しいような申し訳ないような、そしてちょっと恥ずかしいような...さすがに顔が赤くなる。
この間社長が言っていた『あの二人はお前に対してだけ過保護過ぎる』という言葉をなんだか思い出した。
確かに俺は、可愛がられ過ぎているのかもしれない...時にその可愛がり方は『意地悪』と名前を変えるけども。
「お客さんも一緒なんだろ? 長いこと立たせたまんまで悪かったねぇ。そこの通路をずーっと奥まで入ったとこに座敷あるから、そこ使って。すぐに飲み物用意するから」
言われて俺はご主人に頭を小さく下げると、一旦表に出た。
こんなに待たせてしまってシンさんの機嫌を損ねてはいないだろうか...そんな不安でまた胸がドキドキしだした俺が目にしたのは、不機嫌とは無縁のような光景だった。
店の看板の傍らに積まれたビールケースにチョンと腰をかけキャップを取り、ようやく湿度の下がってきた風に髪を靡かせながら目を閉じて口許に笑みを浮かべるシンさん。
ああ...綺麗だ......
その姿がまるで切り取られた一枚のイラストのように美しくて、声をかける事すらも憚られる。
こんなに綺麗な人の恋人役が俺なんかで本当に務まるのだろうか...また決断するまでの不安が一気に胸の中に甦ってきた。
髪を掻き上げようとして薄く目を開けたシンさんの目の端に俺が映ったらしい。
ゆったりとした動きで俺の方に顔を向けると、フワリと微笑んだ。
「別の店、探しに行こか?」
「あ、いえ...ここ、俺の大恩人が紹介してくれたんですけど......」
「恩人?」
「ああ、はい。今の俺を全部作ってくれた人達...かな。苦しくて寂しかった生活から、俺を助けだしてくれた人なんです。で、その人達がちゃんと連絡入れてくれてたんで、開店時間前なんですけど座敷を用意してくれるそうです」
「航生くんを助け出した人...か」
穏やかな笑みは変わらないはずなのに、なんだかその瞳が寂しげに曇ったように見えた。
しかしそれは、ほんの一瞬の事。
疑問を口にする隙も与えてくれず、『ヨイショ』と立ち上がるといきなり俺の手をギュッと握る。
「そしたら、早いこと中に通してもらお? 俺、喉カラッカラやねん。腹もめっちゃ減ってきたし。何より...俺、ますます航生くんと話がしたなった」
俺の心の中の焦りや昂りなんてお構い無く、シンさんは繋いだ手を離す事なく縄のれんをくぐり店内へと入っていった。
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