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第2話

  その中学三年生から刻はいっきに進み、五年後の大学二年生になったある日のことだ。 「てめー、覚えておけよ!」 そんな捨て台詞を吐く男が薄暗い路地から飛び出してきた。その男は乱れた服を直しながら、路地に向かって唾を吐き出している。いかにも負け犬の遠吠えで、繁華街の通りを歩いている人はなれた様子でソレを見送っていた。 そう、ココはそういうところだ。美味しい話があれば食いつくし、臭いモノには蓋を閉める。そういう荒んだ場所では、淫らな行為が壁越しで行われていた。 「覚えておけ?ああ、くわえこんだ粗末なモノのことか?んー、あまりにも小さすぎて覚えようがないが致し方がないなぁ~」 あとからでてきた小柄な女性はソレがもう困った顔で、唇の周りについた白濁したモノを呑気に舌で嘗めとりながら首を傾げていた。そんな彼女はみるからに美人で、薄暗い路上でしなくとも大金を持った男なら誰もがちやほやする容姿をしている。通りを行く人も驚いて、二度み、三度みするぐらいだ。 そんな繁華街を足早に歩く俺こと、藤田宗吾もそのひとりでその物凄く美人な顔をまじまじとみてしまう。胸の膨らみは残念賞だとしても、総合得点はどう換算してもお釣りがくる。えらい美人さんだと視線を前に向き直し、俺が少し緩んだ顔を引き締めて歩くスピードをあげたときだった。 背後から声がかかる。その声はさっきの美人さんのモノで、俺は飛び上がった。 「ん?宗ちゃん?」 高校でも、大学でも俺のことをそう呼ぶヤツはいない。名字か、名前だ。愛称で呼ぶのは中学のとき俺が中心核でいじめていたあの少年だけだ。小柄な少女のような少年は、図々しくも俺のことをそう呼んでいた。 「…………せ、り沢………?」 俺は振り返りながら、半信半疑、本当にそうか?という疑念を持った言葉を発し、身体は強張ったように硬直させていた。さっきみた容姿からして、いじめていた少年こと、芹沢蓮華とは内面的にかけ離れていたからだ。そう、おろおろとした内気そうな少年期からは伺えない溌剌としたその声と、その態度はあの図々しさを差し引いたとしても後ろにいる美人さんには敵わない。だが。 「んー、そーだよ。久しぶりだね」 肯定する声もよく聞けば芹沢のモノで、「昔みたいにハナでイイよ」とつけ加えられたらその美人さんはもうまぎれもなく芹沢になる。俺の心中は穏やかではない。いまだにあのときの仕返しを恐れていたから。だから、後悔というよりも不安の方が物凄く大きかった。 「……あ、……あぁ、ひ、久しぶり……、…ハナ……」 怯えるように後退りをするのは、いまだにあの転校生こと、嵯峨魁人と繋がりがあるかということ。そして、彼とまだ恋人同士なのかということに恐れを感じているからだ。 嵯峨は芹沢にとっていじめという地獄から救い出した救世主でヒーローだが、俺にとってはいつ爆発してもおかしくはない爆弾の起爆装置。復讐に色染まる芹沢に、嵯峨はどんな支援をしてくるのか解らないのだ。 俺は中学を卒業後に父親の急な海外出張で、父親の実家に住まいを移すことになった。ソレを理由に嵯峨から逃げるように田舎へ引っ越し、幼少からの級友らからも手を切った。芹沢とも連絡を絶って、いじめっこから傍観者、そして、悲観者にまで陥っていた。そんな俺は、いま、物凄く被害者側に立たされている。 いじめた───代償。そう解っていても、あの頃の俺は反抗期も重なって荒ぶってて、膝まついてまで嵯峨や芹沢に媚びることができなかったのだ。芹沢に許しを乞うこともなく、俺は遠巻きに嵯峨と芹沢をみていた。 嵯峨はもとより、芹沢もなにも仕返しをしてこなかったから、怖いモノがあったのだと思う。いまでもいじめたことの仕返しをされないかという不安があって、バツの悪い顔で苦笑いを浮かべる俺とは違い芹沢は本当に嬉しそうな笑顔を浮かべていた。 「うーんと、中学卒業以来だから、五年か──。宗ちゃんは元気にしていた?」 「ああ、そうだな。元気にしてたよ」 当たり障りのない言葉を選んで俺はチラリと腕にはめた時計をみる。急いでいたのもあるが、早々にココから立ち去りたかった。ドクドクと心音が早くなるのも、そう。芹沢をいじめていた俺としては、コレ以上芹沢と話す権利も理由もない。 「悪いが、急いでいるんだ」 終電が………といおうとして、芹沢の顔が綻ぶ。解放してくれるという安堵で、俺は踵を返した。走ればまだ間に合う。そう思って振り返って手を振ろうとしたら、芹沢に手首を掴まえられる。細い長い指はひんやりとして、冷たかった。そして、言葉を放つ俺の唇には人差し指が宛がられ、柔らかい感覚とともにがさついた俺の唇に底知れない恐怖と不安が込みあげてくる。不自然なほど眉間の皺が濃くなった俺の顔に、芹沢はまったく動じていなかった。 「じゃ、オレん家おいでよ。ココの近くなんだ」 有無をいわさない芹沢の紅い瞳に、心が折れそうになる。コレは、あの少年期にはなかった、いまの芹沢の強さなのだろう。断るという言葉も賛同する言葉も出てこない。無言で引かれる芹沢の顔が怖くてみれなかった。同時に、手を引かれるまま芹沢の後ろを歩く俺はもっと馬鹿だと思った。 だが、タクシーで帰るといっても学生の身、クレジットカードなど持ってない。紙幣札がない財布の薄さに溜め息がでた。 合コンだといって見栄を張り女子の会計をした挙げ句、調子にのって二次会や三次会と居酒屋をはしごをするんじゃなかった。そう後悔しても、後の祭りである。帰りの電車代だけが入っている財布に、俺の拒否権は皆無に等しかった。  

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