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Magie #1
初めて香月家を訪れてから約ふた月。僕はほぼ毎週のように香月家を訪れていた。達彦さんの生活のサイクルに合わせ、大学で授業の日には昼間に働き、講演や特別授業などで地方へ出かける時は夜勤に入る。シフトも休みも全て彼に合わせた。香月家にいる間、僕はほとんど家事に明け暮れていた。掃除や洗濯、料理の作り置きをし、ついでに自分の分も作り、持ち帰るということをしている。家族のいない僕と家族を亡くしたばかりの達彦さん。他人から見れば、傷の舐め合いに見えるかもしれない。だけど、達彦さんが徐々に元気になっていく姿を見ているのはとても嬉しく、彼の浮世離れした言動を見ているのはとても楽しかった。
「君は今どき珍しいほど働き者だな。それでは君の休みが台無しだろう。」
達彦さんは訪れる度に言った。
「すみません。せっかくのお休みの日にお邪魔ですよね。」
「いや、私はかなり助かっている。単純に君の労をねぎらっているだけだ。」
「ありがとうございます。でも、お邪魔でなければ、続けさせてください。とても楽しいんで。」
「楽しい?家事が?」
「ええ。今まで自分のためにしかしてこなかったですから。自分以外の人のためにするのは、とても新鮮で楽しいです。しかも料理なんて、一人分作るのも二人分作るのも同じですから、大した労ではありません。それより、こんな広くて設備の充実したキッチンを使わせて頂けて、本当に感謝してるんです。作ってみたかったものにも、気軽にチャレンジ出来ますしね。」
「こんな場所がありがたいとはね。私には理解出来んな。」
達彦さんは半ば呆れ顔でそう言った。それでも、15時には必ず僕のために、あの美味しいお茶を淹れてくれた。僕はそれだけで充分だった。
休みの日の夕食は、いつも僕の作った物を二人で食した。達彦さんは食事中何も語らない。最初は口に合わなかったのかと心配になったが、彼は美味しいほど黙る。そのことに気が付いたのは先々週だ。達彦さんは僕が香月家を訪れる日になると、必ずスイーツを買って来てくれた。その日、買って来たプリンが口に合わなかったのか、達彦さんはプリンに向かって文句を言い出した。
『なっ、何だ!君は!その味でよく世に出られたものだ!』
僕はプリンに向かって話す人も、プリンを『君』と呼ぶ人も初めて見た。あまりに斬新過ぎて、そのまま見入ってしまった。
『君より山室君が作ってくれたプリンの方が何十万倍、いや、数億倍も美味いぞ!あのプリンは絶品だ!君は恥を知るべきだ!』
『あっ、あの…』
思いがけず自分の作った物が初めて褒められ、突然声を発した僕に気が付いた達彦さんは、顔を赤らめ、そのままリビングをから自室に閉じ籠ってしまった。僕は達彦さんを追いかけ、部屋の前に立ち、ドア越しに彼に伝える。
『褒めてくださってありがとうございます。また作りますね、プリン。』
部屋からは何の返事もなかった。
二人で食事を共にし、片付け、香月家を辞す。これがいつものパターン。そして、達彦さんは毎回、必ず家まで車で送ってくれた。
「お疲れでしょう?僕なら大丈夫です。たった5駅先なだけてすし。」
「いや、これだけ世話になっていて、このまま帰しては、あの世で母に叱られそうだ。」
達彦さんはそう切り返し、車のキーを握りしめ、ガレージへ行くように僕に勧めた。だけど、今日はいつもと様子が違った。いつもの様に一人で帰る旨を伝えると、達彦さんは少し黙り込んだ。
「なぁ、千秋君。」
普段は名字で呼ばれているが、この時、初めて名前で呼ばれた。僕は少なからず動揺したが、それを精一杯隠した。
「はい。」
「君、明日の勤務は早朝からだったな?」
「ええ。明日は早番です。」
「ならば……………」
「ならば?」
「ならば……今日はここに泊まっていきたまえ。」
「えっ…でも…」
「下着は新しい物がある。パジャマは私の物を貸そう。着替えは今着ている物を洗濯すれば間に合う。君の家に帰って、翌朝通勤するより、ここから行った方が楽だろう?」
「ええ…それはまぁ…おっしゃる通りですけれど…でも…それではあまりにも図々しく…」
そう言うと、達彦さんは咄嗟に僕の左手首を掴み、自身の方へ引き寄せた。それによって、僕達はこれ以上ないってほど至近距離で見つめ合う。達彦さんはそのことに動揺し、ずっと動けないでいた。まるで魔法がかかった様に。だから僕は…その魔法から解放するため、彼の頬にひとつキスを落とした。
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