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悪夢 #1 side T

程なく、余っていた二階の一室が二人の寝室が変わった。そこで共に夜を過ごし、時に愛し合い、そして朝を迎える。そんな当たり前ことを、千秋はとても喜んだ。その笑顔を見ているだけで私は満たされ、この笑顔のためなら何だってしてやろうと思った。しかし、そんな小さな幸せも束の間、千秋はここ数日、魘されるようになった。 「千秋君!千秋!」 私が揺り起こすと、千秋はしばらく放心状態で、天井の一点を見つめていた。 「千秋君!大丈夫か?」 私の存在を確認出来ると、千秋は私に抱きついた。 「大丈夫か?震えているぞ?」 「ご…ごめんなさい…お願い…しばらく…このままで…」 「それは構わないが…」 「夢を…夢を見るんです…怖い夢。子供の頃から何度も何度も見てしまう…怖い夢。」 千秋はそう呟いた。しばらく抱きしめてやると、そのうち気を失うように眠りにつく。それを毎晩の様に繰り返した。食欲も徐々に落ち始め、私は病院へ行くことを勧める。千秋はそれに躊躇した。 「そんなに嫌かね?病院。」 「いいえ…病院は平気なのですが…何かあったら、連絡を入れなければならない人がいるんです。その人が心配するかと思うと…」 その言葉は意外だった。身寄りはないとばかり思っていた千秋に、そういう存在の人がいるなんて。それが誰で、どんな関係なのか聞きたかったが、憔悴しきった千秋を見ると、今はそういう時ではないと思った。 「それを気にしていたら、良くなるものも良くならんよ。そうだ、病院へは私も一緒に行こう。」 「でも……ご迷惑では…」 「気にすることはない。君はとにかく気を楽にしなさい。私にとって、君の笑顔が見られないほど辛いことはないのだから。」 「達彦さん…」 力はないものの、久々の笑顔だった。 高山と名乗る女性から連絡があったのは、その日の最後の講義が終った直後だった。研究室に戻ると、平田くんが仁王立ちで待ち構えていた。 「なっ、何だね!」 「先生!先程、高山さんと仰る女性の方から連絡がありました!」 「高山?女性?知らんな。で、用件は?」 「何でも坊っちゃんの件で至急連絡を頂きたいそうです。」 平田君はじろりと私を睨んだ。 「なっ、何だね!その目は!」 「坊っちゃんを泣かせたりしたら許しませんよ!」 「何を言っている?」 「あんなに健気で良い子なのに。その上、料理も上手で…先生のような残念な人間のそばにいてくれるだけで奇跡なんですからね!それなのに女だなんて!」 「何をワケの分からないことを言ってるんだ!先方は至急と言ったのだろう?ならば、早く連絡先を教えなさい。」 平田君は冷やかな視線のままメモを差し出した。 高山と名乗る女性に連絡して事態は一変した。女性は千秋が倒れたこと、運ばれた病院、そして、早くこちらに向かうようにと告げた。運ばれた病院は自宅のそばではなく、自宅と大学の真ん中辺りにある都心の病院で、何故ここに?と違和感ばかりが膨らむ。病院に到着すると、真っ暗な待合室で一人の女性が佇んでいた。 「高山さんでしょうか?」 「はい。」 女性は顔を上げ、立ち上がった。 「香月先生でいらっしゃいますね。はじめまして、私、高山恵と申します。突然のご連絡、申し訳ございません。」 「いえ。ご連絡頂き、ありがとうございます。それで、千秋君は?」 「大したことはありません。心身の疲労から来る衰弱、及び貧血で、明後日辺りには退院出来るそうです。」 「良かった…ここのところ毎晩魘されていて、あまりよく眠れてなかったようですし、食欲も落ちていましたから、病院へ行こうと今朝、話をしていたところだったのですが…」 「やはりそうでしたか。」 「と言いますと?」 「あっ、ご紹介が遅れて申し訳ございません。私は千秋とは同じ孤児院で育った間柄でして…姉弟のような関係なんです。」 「ああ…では、何かあったら連絡を入れなくてはならない人というのは、あなたのことでしたか。」 「ええ。先生…千秋、こういうこと、初めてではないんです。」 「えっ?」 「倒れるまでは最近はなかったんですけれど…悪夢を見たり、断片的に意識がなくなったり…実は頻繁にあるんです。そのことで先生のお耳に入れておきたいことがありまして…それは千秋の過去と深い関係があります。千秋の過去はかなりデリケートで、出来れば人払いが出来る場所で、お話したいのですが…」 「分かりました。大変失礼てすが、高山さんのご自宅はどの辺りで?」 「K市です。」 「ならは、少し戻る形になりますが、私の家ではいかがでしょう……あっ、申し訳ない。初対面の女性に家に来るように言うなんて…失礼しました。私はこうしてデリカシーに欠けるところがありまして、千秋君にはいつも叱られてばかりです。」 「叱る?千秋がですか?」 「ええ。私が傷つかないように、それとなく言ってくれるのですが、何せ私が鈍感でして…」 「うふふふ…大丈夫です。ご迷惑でなければ先生のご自宅でお願いします。千秋がどんな場所でどんな生活をしているのか、いつか覗いてみたいと思っていたので…」 「その前に千秋君の顔をひと目見させてください。そして、出来れば簡単な手紙を残したい。お時間を少し頂けますか?」  「手紙…ですか?」 「ええ。あの子が目を覚ました時に寂しくならないようにね。」 高山さんは少し驚いた様子を見せた後で、 「なるほど…そういうことだったのね。」 と呟いた。

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