30 / 35

沈黙 #1 side C

達彦さんは新平さんの前へと歩み寄る。その歩みはこの上なく怒りに満ちていて、達彦さんは今にも新平さんに飛び掛かりそうな勢いだった。あまりの驚きに、僕は言葉も声も出て来ない。それは洋子さんも同様で、彼女もまた一歩も動けずにいた。僕は一生懸命に首を左右に振り、合図を送る。『辞めて!落ち着いて!』と。それが届いたのか、達彦さんは僕とは正反対に静かに首を縦に振った。 「何をしている!」 「見れば分かるだろう?愛の告白、そして愛しの君を抱きしめている。」 「彼を離せ。」 「彼はお前には勿体無い。俺のそばに置いて、再来月からの演奏旅行に同行させる。」 「何を勝手な…」 「ああ、確かに勝手さ。でも何が悪い?恋に落ちたのだ。どんな手段を使っても相手を手中に入れたいと思うのは人の性だろう?それに、お前より俺の方が彼を幸せに出来る。」 「何故、そう言い切れる?」 「さっきの話だと、彼は体調が芳しくなく、外出もままならないほど。そして、お前が帰宅するまでずっと一人だ。何かあっても、お前ではすぐに助けてやることも出来ない。その上、その一人の時間を彼は無意識に寂しいと感じているようだ。俺ならそんな思いなんかさせはしない。ずっとそばにいてやれる。」 「……」 「それに演奏旅行に同行すれば、世界の空気に触れ、環境も変わって、自ずと体調も回復するんじゃないか?こんなこと、大学勤めのお前に出来るワケない。そうだろう?しかし、俺なら出来る!どうだ?反論出来まい。俺の勝ちだな?達彦。」 新平さんの言葉に達彦さんは沈黙を続けた。嫌な予感がした。達彦さんは新平さんの言葉を真に受け、何が僕にとって最善か迷い出している。だから、僕は再び首を横に振る。前よりも激しく。『違う!迷わないで!』と。そんな僕に達彦さんは笑顔を見せた。何とか作り出したちょっとぎこちない笑顔。そんな笑顔…達彦さんらしくない!僕の大好きな笑顔じゃない! 「……申し訳ないが…今日は帰ってくれないか?…おば様…非礼をお許しください。この埋め合わせは後日必ず…」 やっと沈黙を破った達彦さんは一礼して、そのままリビングを出ていった。

ともだちにシェアしよう!