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les fleurs de cerisier side C

最寄駅からのコールから15分。 「今、帰ったよ。」 鍵を開け、玄関に入ると、達彦さんは必ずそう言った。 『ただいま』ではなくて。 達彦さんの低音の声にはこちらの方がよく似合う。僕はこれを聞くのがたまらなく好きだった。 「早いお帰りでしたね。どうでしたか?お花見は。」 「とても美しかったよ。桜は良いな。控え目ながらも美しく、潔く、清らか。まさに君のようだ、千秋君。」 決して他人が放っておかない整った顔立ちの優秀な人。同時にその評判をも帳消しにするほどの気難しい性格。これが達彦さんに対する周りの評価。だけど、一度心を許すと本当に人たらし。こういう気障な台詞もサラリと言ってのける。僕はいつまでたってもこれに慣れないでいる。もちろん今も。 「しかし、彼らは全くもって花より団子だな。花を愛でるという本来の意味を忘れているのではなかろか。ただただ飲んで騒いで…後は平田君に任せ、早々に退散してきたよ。」 「ゼミの皆さん、がっかりされたでしょう?特に女性は。達彦さんとお近づきになれる最大のチャンスだったのに…」 さっきの仕返しとばかりに、僕は少し意地悪を言った。 「おいおい、冗談はよしたまえよ。私と親しくして、何の得があるのかね?少なくとも私の方は何のメリットもないし、君と学問以外、何の興味もないよ。」 案の定、達彦さんは自分がモテるということを全く分かっていない。それなのに、男性なら恥ずかしくて言わないであろう気障な台詞をまたもやサラリと言う。無自覚なのだから仕方ないのだけれど。 「あっ、そうだ。そんなことより千秋君、土産があるんだ。今日の土産は珍しいぞ。」 話題を変えるように、達彦さんはバッグを差し出した。それは書店のエコバッグで、達彦さんが本を購入する際、大学の帰りに立ち寄る書店のものだ。達彦さんはいつも、このバックに本を入れて帰って来る。 「書店に寄られたのですか?」 「いや、書店には行っていない。学生達が最近流行っていると教えてくれてね。たまにはこういうのも悪くはないのではと思ってね。」 中身を確認すると、そこには綿菓子が入っていた。ビニール袋にキャラクターの絵が描かれている、縁日などでよく見掛けるタイプ。学生さん達が話していたのとは恐らく違う。けれど、それは黙っていよう。僕に外の世界を触れさせようと、一生懸命努めてくれているのだから。 「懐かしいです。孤児院の夏祭りでよく作りました。」 「何と!君は綿菓子を作ったことがあるのかね?」 「ええ。手早く作らないと大惨事になります。弾かれたザラメが手に当たって、結構痛いんですよ。」 「ほぉ……しかし…かなりしぼんでしまったな。買った時はもう少し大きかったのだが。」 「じゃあ、早く頂きましょう。一緒に。」 「ああ。」 エコバッグから綿菓子を取り出した時、何かはらりと落ちた。桜の花びらだった。散って宙を舞っていたものが、偶然バッグの中に落ちたのだろう。僕はその花びらを掌に収めた。 「ああ…達彦さんは春もお土産に持ち帰ってくださったんですね。花びら…かわいいです。あっ、そうだ!淹れるのはお茶ではなく、桜湯にしましょう。桜の塩漬けがあるんです。桜湯の方が甘い綿菓子と合いそうですし。」 「桜湯とは何と風流な!やはり君は素晴らしいな。」 「そんな……達彦さんにお花見の余韻に浸って頂こうかと思って、今日の午前中に届くように注文しておいただけです。それより達彦さん、その後お酒…お召し上がりになりますか?」 「いや、酒は結構。それよりも君が私のために準備してくれた桜湯をゆっくり堪能したい。綿菓子と共にね。」 「分かりました。今、準備しますね。達彦さんはその間着替えを。」 「ああ、分かった…………なぁ、千秋君?」 二階へ上がりかけた達彦さんは、キッチンへ向かおうとした僕を呼び止めた。 「何です?」 「君のおかげで私の人生は豊かになった。とても美しい色に色づき始めた。桜のように。そばにいてくれてありがとう、千秋。」 それだけ言って、達彦さんは二階へ上がって行った。心なしか頬が染まっていたような… 人たらしさんでも照れることあるんですね。 「こちらこそ。」 二階へ向け、小さくそう告げて、僕はキッチンへ向かった。

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