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第8話

 テーブルにはすでに料理も酒も並んでいる。店内も客がほぼ埋まり騒がしくなってきたのだが、まだ本宮さんたちがどこにいるのか解っていなかった。  吉田は黙々と飲んで食ってる。俺もちびちびバーレーワインを舐めながらも、周囲に意識を飛ばしていた。  さて、どうしよう。トイレに行くふりしてこっそり個室を覗いてみるか、店員に尋ねてみるか。  その時、女性特有のかしましい声が聞こえてきた。 「本当に本宮さん来てるの?」 「斉藤くんと約束したもん。慰謝料代わりに本宮さんは絶対連れてきてねって」 「うわぁ~ちょっと緊張するなぁ」 「胸もっと盛れば良かったかな?」  中の一人の声に聞き覚えがあった。間違いない、二つ目は亜美の声だ。そちらを見ると、店員に案内されながら、亜美を筆頭に四人の女がこちらに向かってきている。  俺は慌てて顔を戻し、頭を低くした。亜美は俺に気付かないまま、後ろを通り過ぎてすぐ隣の個室に入っていった。  つまり本宮さんたちは壁を挟んだ真横にいるということだ。何という幸運。 「合コンて総務課とかよ。えぐいなー」  吉田も亜美に気付いていたようで、カルパッチョを食べながらぼそりと言った。 「そうなんだよ、斉藤の奴が幹事で…」  おざなりに応えながら、俺の全神経は壁の向こうに集中している。ついに始まってしまうのだ。  心配と、何もできないもどかしさとで胃のあたりがもやもやする。それを押し込めようとグラスを呷る。 「おい、全部食っちまうぞ」  吉田の能天気な声が少し恨めしかった。 「好きなだけどうぞ!俺は酒おかわり!」 「お前、酒ばっか飲んでないでなんか食っとけよ」 「ものを食える気分じゃない…!」 「あっそ」  ああ、今頃自己紹介とかそんなベタなことやってるのかな。席替えとかして本宮さんの隣に女が座ったりして。  頑張って耳をそばだてていると、時折女の歓声が聞こえる。その度俺は乱入してしまいたい気持ちを酒でどうにか落ち着けた。そして何も聞こえないとなるとそれもやはり気になって、いろいろなことを想像してしまう。ワタシ酔っちゃったかも~とかしなだれかかってないだろうな。ああもう気になる!  一時間以上が過ぎただろうか。俺が何杯目か解らない酒を飲み干そうとすると、ずっと黙っていた吉田が腕を掴んで止めた。 「もうそろそろ飲むのやめとけって。完璧できあがってるじゃねーか」 「う…う…」  うるさい、酒でも飲まなきゃやってられないんだよ!と言いたかったのだが、確かにもう熱いし頭はちょっとふらふらするし、情緒不安定で涙が出そうだし。 「う……トイレ、行ってくる…」  俺がのそりと立ち上がると、吉田は手をぱたぱた振りながら、送りだした。 「おー、行って来い行って来い」  覚束ない足取りでトイレに向かいとりあえず用を足してから、俺は洗面台の鏡に映る自分を見て落胆した。顔は真っ赤で目は潤み、完璧情けない酔っ払いだ。吉田が止めるのも無理はない。  これ以上ここにいて何になるのだろう。ずっと後をつける?もし誰かと本宮さんがホテルにでも入ろうものなら、もうどうしようもないではないか。 「帰ろう、かな…」  呟いて、俺はトイレのドアを開けようとして――再び閉じた。  廊下に、斉藤と亜美がいたからだ。  俺はドアを数センチだけ開き、二人の様子を窺った。会話をしているが、声はあまり良くは聞こえない。  拾えたワードは、本宮さん、と、抜け出す、だけ。でもそれで十分だ。亜美は本宮さんと二人で抜けたくて、斉藤はそれをお膳立てする、そういう話だろう。  話が終わったのか、亜美は去ったが斉藤がこちらに向かってきて、俺は慌てて個室の中に駆けこんだ。  斉藤はもう一つある個室に入るわけでもなく、ただそこにいた。まさか、俺がいることに気付いたのだろうか。  しかし、そうではなかったらしい。すぐまたトイレの中に誰か入ってきた。 「斉藤、なんだ?」  その声を聞いて俺は心臓が跳ねた。本宮さんだ。 「スミマセン、呼びだしちゃって。本宮さん、気に入った子いましたか?」 「気に入った子ねぇ…」  俺はドアにべったり張り付いて耳を澄ましたが、本宮さんは応えない。気に入った子はいない、ということでいいのだろうか。 「俺より、輝の世話してやってよ」 「そうですか。じゃあ、本宮さん二次会参加しないで帰りますか?」 「いいの?」 「いいですよ。こう言っちゃあれですけど、本宮さんいない方が宝島には有利でしょうし」 「お前ね…」 「はは」  わざとらしい斉藤の笑いが止み、奴はついに本題を切り出した。 「実は亜美さんも二次会参加できないらしいんですよ。本宮さんも帰るなら、ついでに彼女を送ってやってもらえませんか」  これが狙いか。俺はぐっと息をつめた。 「送るだけでいいんです。最近物騒ですからね」  柔らかい斉藤の声。たぶん顔には例の胡散臭い笑みがのっているんだろう。  ただ単に送るだけ、確かにしおらしい女性ならそれでいいかもしれないが、亜美は別だ。送るだけで済むはずがない。彼女はかなり行動的かつ積極的だ。既成事実の一つや二つあっという間に作ってしまうかもしれない。  だめ、だめだ。絶対だめ。タクシーで帰らせればいい。だから、だめです!  心拍数がどんどん上がっていく。俺は扉の向こうの本宮さんに断わって下さいと念を送った。必死に送った。  しかし、届かなかったらしい。 「送るだけなら…」  いいよ、と答えてしまいそうな声に、俺はもうじっとしていられなくなった。 「だめですっ!」  扉を開き、声を張り上げた。 「えっ!?」 「ハルちゃん?なんで…?」  本宮さんも斉藤も、心底驚いた顔で見ている。そりゃあ驚くだろう。なんでと言いたくなるだろう。  本宮さんの驚愕の視線を受けて、俺の涙腺はついに崩壊した。ほろりと涙が溢れ出て来る。俺のこと、気持ち悪いとか、不気味だとか、思ってる、かも。  二人がさらにぎょっとしたのが解ったが、止めることはできなかった。 「ハルちゃん…?」 「い、行ったら嫌です!本宮さん、やです、行っちゃやだよぉ…」  俺は盛大に鼻を啜りながら、その場にしゃがみこんだ。  斉藤も本宮さんも、どうしていいのか解らないだろう。大の男がいきなり泣き出したのだ。ああ、恥ずかしい、情けない、でもどうしようもない。もう頭が良く働いてくれない。  そこでまた入口の扉が開いた。他人はもっと混乱してしまうかもしれないと思ったが、来たのは他人ではなかった。 「おい、遅いから心配して来てみれば…何やってんだよ、酔っ払い」  吉田だった。  吉田は思い切り呆れた声で、俺のそばに屈んで背中をぺしんと叩いた。俺はしゃくりあげながら、吉田の腕を掴んで縋りついた。 「だ、だって、本宮さん、が、亜美、送ってくって…いや、いやだ、そしたら、もぉ俺、だめなんだも…っ俺の方が、ぜったい、好き、なのに…っ」 「だだ漏れてるぞ。ちょっと黙ってろよ酔っ払い」  吉田はもう一度俺の背中を叩く。俺は素直に黙り、さめざめと泣いた。 「吉田さん」 「よお、斉藤。今日も決まってるな」 「それは今朝も言われましたよ。どういうことです?なんで漆原さんとあなたがここに…」 「たまたまだろ。俺からすればなんでお前がいるのかって話だよ」  吉田はすがる俺の腕を離すと、逆に俺の腕を掴んで立たせた。急に立ち上がったので少しくらりと目眩がした。激しく酔いが回っていっている。吉田にしがみついて、なんとか体を支えた。 「さて、そろそろ帰るか漆原」  吉田に言われ、俺はコクコクと頷いた。もう辛すぎてここにいたくない。 「じゃあ、えーと…本宮さん?」 「あ、え?つか、君、誰?」  本宮さんはまだ少し呆然としながら吉田に対して首を傾げた。そう言えば、吉田と本宮さんは初対面だ。 「漆原の同期の吉田です。どうも」 「そう、よろしく。貫禄あるな」 「よく言われます」  雰囲気にそぐわない自己紹介を交わして、吉田はそれで、と咳払いをした。 「本宮さん、こいつご覧の通り酔っ払っておかしな域まで達しちゃってるんですよ。家まで送ってもらえませんか」 「え?」 「よ、吉田、何…」 「お前は黙ってろって言っただろうが」  驚いて声を上げると、額を思い切り叩かれた。ぐわんと目が回り、俺はうっと言葉を飲み込んだ。 「俺、この後社に戻って仕事しなきゃいけないんで。こいつ、お願いできますか」  もう一度吉田が言う。何ということを言うのだこの男は。  俺は本宮さんの反応が怖くて、地面のタイルばかりを見つめた。すると、本宮さんではなく斉藤が割り込んできた。 「それなら、俺が送っていきますよ。家も知ってますしね」 「いや、お前は駄目。幹事なんだろ?抜けたらまずいだろ?」 「随分詳しいですね。偶然の割に」 「ああ、たまたま知っただけ、偶然、偶然。――だから、本宮さん、お願いします」  俺が拒絶を示すより先に、吉田が食いぎみに断わった。そして、さらに念を押すように本宮さんに掛け合う。 「ああ、うん。いいよ、俺が送ってく」  一瞬頭が真っ白になって、俺は顔を上げて本宮さんを見た。今、うんと言ってくれなかったか。  涙で霞む視界で、本宮さんが苦笑している。 「ほら、おいで、ハルちゃん」  手招きされて、俺は光に吸い寄せられる羽虫のように、ふらふらと本宮さんに寄っていった。  体を支えるように肩を掴まれ、ただでさえ赤い顔に更に血が集まる。夢心地で足元がふわふわする。 「困りますよ、亜美さんはどうするんです?」  斉藤の少し怒ったような声。そうだ、亜美は。  不安を持って見上げた先の本宮さんは、宥めるように俺の頭をポンポンと叩いてくれた。そして、斉藤の方へと向き直る。 「悪いな。他の奴に送らせてやって。――吉田クン、ハルちゃんの荷物は?」  タクシーは俺と本宮さんを乗せて、家に向かう。  先ほどまで肩を借りて密着して歩いていたことを思い出すたび、俺は身悶えそうになってしまうのをなんとか抑えた。  車内は静かで、本宮さんは何も言わない。繁華街を抜け住宅街に入り、余計に静けさが増していく。 「あの、本宮さん…」 「ん?」  思いきって本宮さんの方を向くと、本宮さんは少し首を傾げた。その表情は怒っているでも困っているでもないのだが、俺は謝らずにはいられなかった。 「…すみません…お、俺…とんだご迷惑を…」 「気にしなくていいよ」  俺の言葉を遮って、本宮さんは笑った。その笑顔に少しほっとする。 「それよりごめんな。さっき斉藤に聞いたんだけど、あの亜美ちゃんて子、彼女だったんだって?」 「え?あ…はい…そ、うです…けど…」  どうして今、その情報がでてきて、しかも謝るのか。嫌な予感がする。そして次の本宮さんの言葉で、その予感が当たっていることを知った。 「別れても好きな人、ってかー。泣くほど好きだなんて熱いなぁ」 「ええっ!?ちょ、待って下さい。何か勘違い――」 「はい、着きましたよー。二千六百円です」  そこで車が止まり、運転手が振り返る。タクシーはもう、俺のマンションの前に着いていた。  俺が口をつぐむと、本宮さんはさっと野口を三人渡し、外へ出てしまう。俺も慌てて後を追うと、車を降りた瞬間、本宮さんが体を支えてくれた。 「ハルちゃん家、何号室?」 「よ、四〇三です…」  間近にある顔にドキドキしながら答えると、あとはあっという間だった。  惚けているうちに、エレベーターに乗り込んで、鍵を鞄から出してもらって、部屋に入ってベッドに座らされて。最後にはい、と水の入ったコップを渡された。 「それじゃ、俺帰るわ。ちゃんと寝て、酔いさませよ。また来週な」  本宮さんはくるりと回れ右して、玄関に向かおうとする。お礼すら言わずボケっとしていた俺はそこで我に返った。 「えっ!ま、待って下さい!」  慌ててコップを置いて、本宮さんに手を伸ばす。しかしそれは届かなくて、俺は顔面からフローリングにダイブした。 「おい、大丈夫か!?」  かなり痛いが、おかげで本宮さんは戻ってきてくれた。がばっと顔を上げると、心配そうな顔の本宮さんが目の前にいる。  何を言うつもりだったんだっけ。まず、大丈夫だって言わないと。大丈夫だ、鼻血も出てないし。あと、お礼だ。送ってもらったお礼。それから、誤解を解かないといけない。たくさん誤解されている。本宮さんは俺の醜態を、とんでもなく違う方向に解釈しているし、まだ俺が本宮さんのこと嫌ってるとか―― 「あの、俺、本宮さん嫌いじゃないです!嫌ってません!好きですから!」  気付けばお礼も何もすっ飛ばし、俺はそう口走っていた。  本宮さんは目を見開いた。なんの前振りも流れもなく、倒れて起き上がったと思ったらいきなりだ。何のことか解らなくてもしょうがないが、本宮さんは数瞬の後、ぷっと吹き出した。 「そっか、なんか変だなとは思ってたよ。あんまり関わらないようにしてたら、明らかにがっかりしてるし、なんか話しかけられるの待ってる素振り見せるし」 「うっ…そんな……」  やはり態度に出てたのか。  本宮さんはくつくつと笑う。 「いつもにこにこしながら『本宮さん本宮さん』って寄ってくるの嬉しかったのに、急に避け出すからショックだったんだよなぁ」 「すみません…俺、本宮さんが好きで、その…輝くんとか、浅見さんとかに、あからさまだって言われて…好きだっていうの、ばれたら、気持ち悪いかなって、そう思われたら嫌だなって…気をつけてたら、結果避けてたっていうか…俺はそんなつもりなくて…」  俺はしどろもどろになりながらも正直に説明した。もう勘違いされるのは嫌だった。 「別に気持ち悪いことないのに。輝なんてしょっちゅう好き好き言ってくるしな」  本宮さんはそう言ってくれたのだが、俺の心は落ち着かなかった。これでよかったと済ませばいい。そう分かってはいるのだが、もやもやする。  宝島と一緒にされるのが、すごく嫌だ。それに、誤解はもう一つある。 「違います、気持ち悪いんです俺は!今日、あの店にいたのも本宮さんが合コン参加するっていうから、気になって気になってしょうがなくて後つけていったんです!ストークしたんです!軽く犯罪です!それで、亜美と本宮さんが一緒に抜けるとかいうから、それが嫌で、本宮さんが誰かと付き合ったりとか…嫌で…」  俺は俯き、フローリングの板目をじっと見ながら全てを吐露した。  ああ、想像するだけでまた涙が溢れてくる。ついでに鼻水も。 「本宮さんが、好きなんです…」  沈黙が降りた。怖くて本宮さんの顔が見れない。握りしめた手が震える。  沈黙を破ったのは、本宮さんだった。 「ハルちゃんはゲイなの?」 「ちっ、違います!」 「俺のこと好きなんだよね?」 「ゲイです!好きです!」  盛大にゲイ宣言して、俺は顔を上げた。もう本宮さんの顔から笑みは消えていた。何を思っているかは解らない。  俺はごくりと喉を鳴らし、掠れる声で尋ねた。 「も、本宮さんは…俺のこと好きになるのは、無理ですか」 「………うーん…男を恋愛対象に見たことなんてないからなぁ。……でも、しょんぼりしてるハルちゃん見るのは、やなんだよなぁ…」  本宮さんは首を傾げながら、俺に向かってというより自分の考えを整理するように呟く。  その呟きに、俺はとくんと心臓を高鳴らせた。引かれていない。しかも、むしろ好意的なことを言ってくれている。 「じゃ、じゃあ、試しに、き、キスさせてください!一回だけでいいんで、ちょっと試しで!」 「え…?」  本宮さんの硬い声に、俺は一気に後悔した。引かれないだけでもありがたいというのに、何を言っているのだ。 「あ、うそ、嘘です!すみません調子乗りました気持ち悪いですよねごめんなさい!」 「いいよ」 「えっあ、ですよね……って、ええ!?本当に!?いいんですかっ!?」  慌てて手を振りながら誤魔化そうとしたのだが、本宮さんはけろりとした顔で、もう一度いいよ、と言った。 「お試し、だろ?一回だけな」 「は、はいっ!」  もし、もしも、これで気持ち悪いと言われても、この思い出を糧に生きていこう。そう思いながら俺は膝立ちになり、しゃがんでいる本宮さんの肩を恐る恐る掴んだ。 「し、失礼します…!」 「はは、何か食われそうでこえーかも」 「あ、う…やっぱり、嫌、ですか…?」 「嫌ではないかな。ハルちゃんがこんなに喜ぶなら悪い気はしない」  本宮さんはくすっと笑うと、俺の頬を包むように掴んで引き寄せた。ちゅっと唇が触れあう。それはほんの一瞬だったが、俺の涙腺を破壊するに十分だった。  酔いのせいではない、くらくらと目眩がする。どっと幸福感が胸を占めて苦しい。嬉しすぎて死ねる。 「嫌悪感はないけど…わっかんねーなぁ…」  本宮さんはまたぶつぶつと呟いている。  俺は両手で涙をぬぐい、これ以上出ないように力を込めた。 「お、俺、仕事もパーフェクトにできるようになって、見た目もっ、良くなるように磨きます!本宮さんにふさわしい人間になるように、頑張ります、から…っ、だから…」  嫌悪感はない、その言葉に少しの希望が持てた。 「俺のこと…好きになってください…っ!」

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