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第9話
寝返りを打った手に、ふわりと暖かく柔らかな感触があった。
そっとそれを握ってみる。それはさらりと指をすり抜けて、はらはらと逃れていく。その感覚が気持ちよくて、俺は何度も手を動かしそれを撫でた。
ところで、これは何だろう。まるで毛の長い犬のような。でも俺の家には犬もいないし、ぬいぐるみの類もない。
「…う…ん……」
寝ぼけた耳に、自分のものでない声が聞こえた。
「ん…?」
ぴたりと手を止めて、俺は重い瞼を開いた。
唸りながら、焦点のぼけた視線をゆっくりと手元に向ける。
俺の手はベッドの外に飛び出ていて、そこに黒い毛並みが……
「ん…?――っええええっ!?もっもっもっ!」
本宮さん!?
俺は素っ頓狂な声を上げ飛び起きた。眠気も一気に吹っ飛んだ。
本宮さんはベッドに背を預ける形で座っていて、俺の叫び声に大きく身じろいだ。
「あ…?ああ、おはよう…」
顔だけ振り返った本宮さんの、少し掠れた声。完全寝起きの顔に、俺の体温は一気に上昇した。
「おっおっお…おは、おはようござっ、ございますっ!!!」
これはいったいどういう状況なのだろう。
俺は慌てて周りを見渡した。間違いない、俺の部屋だ。
次いで記憶を手繰った。昨夜、なにがあったっけ。記憶はぼんやりとくもっていてはっきりしない。
「あのぅ…いったいなぜ、本宮さんが…」
「ええ?覚えてないの?」
本宮さんは欠伸混じりに首を傾げた。
「は、はい…」
「昨夜ハルちゃんが酔っ払ったから家まで送ったんだよ。『帰らないでくださいー!』って泣いてしがみつくから、帰ろうにも帰れなくて……しまいには腕掴んだまま寝るし」
「!!」
血液が一気に顔に集中したのが分かった。
一部、思い出した。昨夜すべてぶちまけてしまったのだ。それで、きっ…キスもした!確かにしたぞ!
でも思い出したのはそれだけで、泣いてしがみついたというのはとんと思い出せない。
しかし事実なのだろう。実際本宮さんは今ここにいる。というか、俺というやつは…自分はぬくぬくベッドで寝て、本宮さんを床で眠らせたということか。
「すみませんっ!体、痛くないですか、大丈夫ですか!?俺、ホント失礼なことばっかりして…っ」
「平気。まぁまだ少し眠いけど……ハルちゃん小さい子みたいでおもしろかったし」
「う……おもしろい、ですか…」
おもしろいと形容されるのは、正直嬉しくない。しかし、身から出た錆というものだ。仕方ない。
「ん~!…あ、洗面所借りるよ」
「はい、どうぞ!あ、タオル…!」
大きく伸びをして立ち上がった本宮さんに、俺は慌てて立ち上がり箪笥からタオルを取り出し渡した。
「サンキュ」
起きぬけの笑顔がキュンとくる。ばしゃばしゃと水の音を遠くに聞きながら、朝、本宮さんが部屋にいるというシチュエーションに、俺は一人で枕を抱きしめ身悶えた。これが洗面だけじゃなくてシャワーとかだったら更に興奮するのになぁ。
「ハルちゃん?タオルあんがと」
「あ、はい!」
掛けられた声に俺は急いで起き上がり枕を投げ捨てた。何してるの?と笑う本宮さんに、あははと乾いた笑いで返し、タオルを受け取る。
このタオル、本宮さんが使ったんだよな。どうしよう。とりあえず洗濯はせずに寝るときのお供に…いやいや、これじゃ変態だ。でも、ちょっとだけ、ちょっとだけなら……
「ハルちゃん?じゃあ、俺帰るから」
本宮さんの声が俺を現実に引き戻した。もっと一緒にいたいのに、もう帰ってしまうなんて。タオルにかまけている場合じゃない。今は本物が側にいるのだから。
「…あ!そうだ!あ、朝飯!食べていってください!」
我ながらナイスアイデアだ。拝むように両手を合わせ懇願すると、意外にあっさりと本宮さんは頷いてくれた。
「いいの?じゃあお言葉に甘えて。すごい腹減ってんだよなー」
やった。引き留め成功。
「すぐ用意します!」
俺は急いで顔を洗って着替え、朝食作りに取り掛かった。
しかし俺は普段はほとんど料理などしない。とりあえず食パンを焼いて、オムレツ…は失敗してスクランブルエッグになった。
なんともお粗末なごはんだが、本宮さんはおいしいと言ってくれた。たとえ社交辞令でも嬉しい。俺、料理の勉強しようかな。
質素なご飯はあっという間に食べ終えて、今度こそ本宮さんが帰ってしまう段になって、俺は勇気を振り絞って本宮さんに話しかけた。
「あ、あ、あの…!」
「ん?」
「今日なにかご予定ありますか?」
「いや、別に何も」
「じゃあ、一緒に出かけませんか!」
まさしくデートのお誘い。中学生の時、初めて彼女にキスをしたときでもここまで緊張してなかったと思う。バクバクと鳴る心臓を必死になだめながら、俺は強張った顔で本宮さんの反応を待った。
「出かけるって、どこに?」
「どこ!?えっと…えー…」
あっさりと返してきた本宮さんは、迷惑そうでもない。しかし、一緒に過ごすことだけ考えていたため、どこに行くかはまだノープランだ。
「……じゃあ、映画だったらいいよ。俺、観たいのがあるんだけど」
「はいっ!映画!行きましょうっ!」
「でも俺、いったん家に帰るな。着替えたいし」
「はいっ!そ、それじゃあ待ち合わせして…っ」
とんとんと話は進み、午後二時に駅で待ち合わせを決めて本宮さんは帰って行った。
「ああ!どうしよう!」
待ち合わせデートだ。初デート。
二時だから一時半には行っておきたい。ということは家を一時には出ないといけないわけで、今は九時過ぎだからあと四時間もない。
焦りながらも、俺は顔が自然と緩むのを止められなかった。
とりあえず風呂でしっかり体を磨きあげてから、クローゼットの前で一人ファッションショーをしていると、ベッドに投げ捨てていた携帯がピロピロと鳴った。
着信は知らない番号だった。もしかしたら会社関係かもしれない。とりあえず出ることにした。
「はい!漆原です!」
相手が誰かも解らないが、幸せ絶頂の俺の声は自然に弾んだ。
『――随分とまあ、浮かれた声ですね』
しかし、聞こえた厭味ったらしい声に、気分が一気に下がる。思わず取り落としそうになった携帯を握りしめ、眉根をぐっと寄せた。
「斉藤…?」
『声だけで分かるなんて愛ですね』
嘲笑交じりのふざけた言葉に、ぞっと鳥肌がたった。
「気色悪いこと言うな!なんで俺の番号知ってんだよ!」
『ああ、この番号俺のなんで登録しておいてくださいね』
「誰がするか!」
『それより、今どこですか。まさかホテルになんかいませんよね?』
「家に決まってんだろ!」
こいつ、そんなこと聞くために朝っぱらから――いや、もう昼になってる、あと一時間したら家出ないと――電話かけてきたって言うのか。
『昨夜、まっすぐ帰ったんですか』
「あ?」
『本宮さんは?送ってすぐ帰りましたか?』
斉藤の声は変わらぬ淡々としたものだったが、いつもよりほんの少しだけ早口だった。
こいつ、もしかして焦ってんのか?俺と本宮さんが進展してないかって。
俺はにやりと口を緩めた。
進展ならあった。好きだって伝えた。拒否られなかった。なんたってキスまでした。
「本宮さんなら朝まで家にいたぜ?泊まっていった」
俺は昨夜の件を事細かに説明してやった。ただ、俺が泣いたという点は除いて。斉藤は無言で俺の話を聞いていた。
「それで、今日はこれからデートだ」
締めに勝ち誇ったようにそう告げると、やっと電話口から声が聞こえた。
『なるほど』
「というわけで、時間ないから。もう二度とかけてくるなよ!」
そう言い捨てて、俺は電源ボタンに指を伸ばした。
『…安心しました』
通話を断ち切る瞬間、かすかに聞こえた斉藤の声。
安心?どういうことだ?
俺は首を傾げたが、ふと目に入った待ち受け画面のデジタル時計を見て悲鳴を上げた。
「ああっ!マジで時間ないっ!服、服!」
結局待ち合わせ場所には一時間前にはついてしまって、挙動不審に時間ぴったりの本宮さんを待つことになった。
その後は映画を見て、夕飯を一緒に食べて、さようなら。
家に帰ってから教えてもらったメアドにメールして、他愛ないやりとりを数回。
これって完璧付き合ってるよね。恋人同士だよね。
幸せにどっぷりつかって、その日はぐっすりと眠れた。
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