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第12話

 いつもは騒がしい狭い部屋も、今日は痛いくらい静かで広く感じる。  俺がカタカタと、キーボードを打つ音だけが響く。 「……はぁ~…」  月曜日。一設には俺だけだった。本宮さん、浅見さん、宝島は出張でT社。山科さんは違う業務で外出中。 「はぁぁぁぁぁぁ…」  俺はもう一度大きな溜め息を吐き、机にべたっと張り付いた。もうT社関連のことはやることはないので、ぼちぼちとISO用の報告書を纏めていた俺だが、どうも身が入らない。今日は少しキーボードを打ってはだらけ、また打ってはだらけの繰り返しだった。そんなこんなでもう四時だ。  ピロロロロ…と内線の音が鳴り響き、俺はやる気なくそれを取る。 「はい~、一設」 『何だそのやる気ねぇ声。仕事してんのか、お前』  受話器から聞こえてきたのは聞き慣れた同期のものだった。 「んだ、吉田かよ」 『おう俺だよ』  がっかりしかけた俺だが、ふと気付いた。ちょうどいい。吉田に話相手になってもらおう。 「吉田ぁ。あのさぁ…ちょっと聞いてくれよぉ」 『待て、お前の話聞くために電話したんじゃねぇンだよ』 「なんだよ」 『いや、斉藤がそっち行ったから教えとこうかと思って』 「はあ?」 『回覧の新聞。持っていったから』 「ふざけんな!お前が持って来いよ!」 『俺忙しいんだよ』 「知るかよ、お前な……俺が斉藤に襲われたらどうすんだよ!」  コンコン、とノックの音が響いた。きっと斉藤だ。 『会社で襲いやしないだろ。じゃあな。俺マジで忙しいんだよ、仕事押してて。お前の話聞いてる暇ねぇから』  がちゃん、と無情にも電話は切られてしまった。そして、またコンコンとノックの音が聞こえた。  回覧の新聞ならば、受け取らなければならない。  俺はのろのろと受話器を戻し、入口を解錠した。入ってきたのはやはり斉藤で、その手に新聞を抱えている。 「はい、よろしくお願いします」  新聞を渡してくる斉藤を、仏頂面で睨みつける。ひったくるように新聞を受け取った。  しかし、斉藤は相変わらずの胡散臭い笑顔のまま、動く気配がない。 「お前、もう渡し終えたんだからさっさと帰れよ」 「漆原さんが一人ぼっちで寂しいかと思って来てあげたのに」 「お前の顔見るくらいならこの世で一人っきりになる方がマシだ」 「酷い先輩だ」  言いながら、斉藤は勝手に中にずかずかと入ってきて俺の席に座った。偉そうに背にもたれ、意味深に目を眇めて俺を見た。 「やったんですか?」 「は…?」 「セックスですよ。本宮さんと。土曜にやるって張り切ってたじゃないですか」  俺は思わず後退さった。かっと頭に血が上った。 「なんで、お前知ってんだよ!」 「先週食堂で話してたじゃないですか」 「お前、盗み聞きしてたのか!」  あのとき斉藤が割り込んできてからは、土曜については話していないはずだ。ということは、こいつはその前からずっと俺と吉田の会話を聞いていたのか。 「盗み聞きだなんて。あんな公共の場で話してる方が悪いですよ。俺以外の奴だったらどうするんです?」  斉藤は腰を少し浮かし、俺の腕を掴んで引っ張った。俺は力に負けてよろめいて、斉藤に身を寄せてしまう。 「それで?寝たんですか、本宮さんと」  耳元で囁くように聞かれ、ぞっと鳥肌が立った。弾かれたように斉藤の腕を払い、俺は怒鳴る。 「てめーに関係ないだろうがっ!」 「ありますよ。俺、できれば貴方の初めてをいただきたいんですから」 「はっ…」  初めて!?  俺は訳のわからない羞恥に襲われ、口をパクパクと開閉させた。言葉が出ない。何を言ってんだ。もうやだこいつ。  そんな俺を見ながら、斉藤はわざとらしく肩を上げて見せた。 「まあ、やってしまったって言うなら仕方ないですけど。で、どうなんですか」 「誰が教えるか」  素直に答えてやるものか。吐き捨てるように言って顔を逸らすと、斉藤はふっと、嘲るように笑った。 「ああ、やってないんですか。それは良かった」 「……っ」  断定する物言い。俺は反射的に言い返さないと、と思ったが、言葉が出なかった。その前に斉藤が更に言葉を被せてくる。 「やったならやったって嬉々として言いますよね、漆原さんなら。ラブラブなんだーとかなんとか」  返す言葉がない。だって、斉藤の言葉は全て当たっているから。俺は悔しくて唇を噛んだ。  土曜日、俺と本宮さんはセックスには至らなかったのだ。  喜び勇んでバスルームを出た俺を待っていたのは、本宮さんの健やかな寝息だった。  それはもうぐっすりと、三度ほど呼びかけてみたが全く起きないほど、本宮さんは心地よさそうに眠りに落ちていたのだ。  結局、翌朝まで本宮さんは目覚めなかった。逆に俺は眠れず、がっくりと肩を落としながら、ベッドで眠る麗しい本宮さんを物欲しげに見つめて夜を明かした。しかも、全く寝ていない俺の顔を見た本宮さんは、自分がベッドを占領してしまったからだと申し訳なさそうに謝って、引きとめる俺を断り「寝てくれ」とすぐに帰ってしまったのだ。ホントに何もかも駄目だ。結局、俺の心の焦燥感はなくならないまま。  斉藤は自分の予想が当たっていると確信を得、にやにやと厭らしく笑っている。  やったのだと言ってやりたかったが、そんな嘘を吐いたら虚しさで堪らなくなりそうで怖い。 「……うるせぇな、お前もう帰れよ。仕事しろ。忙しいんだろ、吉田が言ってたぞ」 「ああ、吉田さんのチームは大変そうでしたよ。俺の方は仕事が一段落してむしろ暇なんです」  なら手伝ってやれ!と言ってやりたいが、ぱっと手伝えるほど簡単ではないことはわかってる。 「漆原さんも今日は定時上がりでしょう?食事に行きませんか」 「いやだ」  下心が丸見えな誘いに誰が乗るものか。しかし、斉藤は俺の断りをまるで無視して話を進める。 「美味しいイタリアンの店があるんですよ。そこに行きましょう」 「絶対行かない」  頑なに断る俺に、斉藤は何がおかしいのかくすりと笑うと、ようやく立ち上がって出口に向かった。やっと帰る気になったのか。 「本宮さんとやる前に、俺と練習するっていうのはどうですか。俺、上手いですよ」 「うるせぇ!」 「行く気になったら電話下さいね」  そう言って、やっと斉藤は部屋から出ていった。 「誰がするか、くそっ」  俺は一人ごちて、あいつが座っていた席をパンパンと叩いてやった。  練習なんかいるものか。  一昨日は地酒が予想以上に強かったのが敗因だ。酒の強い本宮さんをも酔わせるほどに。だって、本宮さんは家に来て、風呂にまで入ったのだ。酒に酔って寝てしまったとしか考えられない。  ふとすると湧き上がってきそうになる別の可能性を打ち消し、俺はドスンと音を立てて腰を下ろした。  その日二度目の内線が鳴ったのは、あと五分で今日の業務が終わる時間だった。 「はい、一設」 『総務課です。漆原さんに浅見さんから外線でお電話が入っているんですが』 「あ、はい。繋いでください」  名も知らぬ総務課女子の案内にポチポチとボタンを押すと、すぐに浅見さんの声が聞こえてきた。 『もしもし、ハルちゃん?』 「はい、お疲れ様です」 『お疲れ。あのさ、ちょっと確認してもらいたいことがあって…』  浅見さんの声にはいつもみたいに間延びした感じがなく、俺は僅かに緊張した。 「なんでしょう」  俺は受話器を肩と耳に挟んだ状態でパソコンに向かった。業務で使っていたディレクトリを開く。 『論理検証で使用したCDLファイル、昨日もらった報告書に添付してあった分、バージョン4って書いてあるんだけどね、今、実際開いてみたら内容がバージョン3なんだ』 「え……?」  俺はピタッと動きを止めた。一瞬頭が真っ白になった。  完成した製品のバージョンは4だ。もちろんバージョン3と4は中身が違う。論理検証ももちろん4で行われてないといけない。それを、3でしてしまっている…? 『実際使用したファイル、確認してもらえる?』 「はい…」  浅見さんの声がすごく遠くに聞こえた。  俺は急いで論理検証用のファイルを呼び出した。  そんな、まさか。  もしかしたら、報告書に添付したファイルだけ間違っているのかもしれない。そう思いながらも、心臓の音はどんどん大きくなっていって、じんわりと手に冷たい汗が浮かんでくる。  使ったCDLファイルを開き、スクリプトを組んでバージョン4のファイルと比較する。  結果はすぐに出た。いくつか並んぶエラーとワーニングの文字。つまり… 「……使用したファイル、間違ってます…3のファイルの名前を4にして、検証してしまっています……」  口の中が乾き、声が震えてしまった。 『やっぱりそうか…困ったなぁ…。製品的には大丈夫だろうけど、資料がないとなると…』  浅見さんの言う通り、他の作業で散々バージョン4の検証が行われているので、論理が間違っていることはないとはっきり解っているから、製品にはなにも問題ない。しかし、論理検証をしました、という結果の資料は提出しなければならないため、絶対に必要だった。  なんてことだ。論理検証の担当は俺だ。俺が、やらかしてしまったのだ。  目眩がする。こんな、ファイルの中身が間違っているだなんて凡ミス、普通しない。 「申し訳ありません。今から、もう一度検証し直して資料を作ります!」 『間に合うかな、水曜の午前中までに…』 「間に合わせます、絶対に間に合わせます」 『ハルちゃん、無理はしなくてもいい。製品は大丈夫なんだ。最悪、資料なくても大丈夫って説き伏せるから』  浅見さんは怒らず優しい声で言ってくれたが、余計に申し訳なさが募る。責任を持って仕事を与えられているのに、こんなこと許されないのに。 『あ、待って、宝島が…』 「え?」  ふと、電話の声が遠くなった。と思うと、今度はバカでかい声が響いてきた。 『ハルさん、ハルさんすみません、ごめんなさい!俺のせいです。俺が間違って3のファイルの名前4にしてハルさんに渡しちゃったから…!』  涙声で何度も何度もすみませんと宝島は謝る。確かに、論理検証の時はまだ一設に来たばかりで何のファイルも持っていなかった俺は、宝島からファイルを受け取った。  だけど、その後何度も見直す機会があったのに、俺は全く気付かなかった。金曜には最終チェックを行ったのに。 「輝くんのせいじゃない。俺が確認してなかったのが悪い。大丈夫だから」 『すみません…すみま…』  ぐずぐずとした宝島の声はいきなり小さくなった。どうやら受話器から引きはがされたようだ。次いで、再び浅見さんの声が聞こえた。 『とりあえず、ウチに割り振られたシミュ用回線全部使っていいから』 「はい、本当に申し訳ありません」  深々と頭を下げて、俺は電話を切った。その瞬間、俺は情けなさ過ぎて頭を抱えた。落ち込んでいる場合ではない。解っているが、苦しかった。 「くそっ…」  俺は自分の腿を殴ると、検証に取り掛かった。チームに与えられたシミュ用回線全部――10本を使って一気にシミュレーションを流し始める。  流し始めると、結果が出るまでやることはない。その時間が酷くもどかしい。  今日これからと、明日丸一日しかない。シミュレーションを流すのは簡単でも、数が莫大なのだ。Xスキャンだけで確か256パターン、Yスキャン、救済回路…。シミュレーションではきだされた結果をまとめる時間もかかる。シミュ用回線が10本では間に合わないかもしれない。  本部に申請して、回線を増やしてもらうか。しかし、その申請には課長の山科とさらに上の部長のサインがいる。どんなに早くても、増やせてもらえるのは明日の夕刻だ。それでは遅すぎる。  俺は意を決すると、携帯を手に取った。もう、業務時間は過ぎていた。  着信履歴を開くと、名前の書かれてない090から始まる番号を見つけ、発信ボタンを押した。――この番号に掛けることになるとは思わなかった。  3コールして、相手が出た。 『食事に行く気になりました?』  挨拶も何もなく、揶揄を含んだ斉藤の声が耳に響く。 「……お前のIDを貸してほしい」  爪が食い込むほど拳を握りしめながら、俺は斉藤に頭を下げた。 「頼む、シミュレーション用の回線が足りないんだ。お前のIDを貸してくれ」  回線は社員のIDごとに与えられている。斉藤がいくつ回線を持っているかは解らないが、IDを借りられれば、それを使うことができる。  吉田は仕事が押していると言っていた。あいつからは借りられないだろう。  悔しくて堪らない。だけど、斉藤は仕事がひと段落したと言っていた。今の俺に頼れるのはこいつしかいない。 『どういうことですか』  斉藤の声が硬くなった。 「…ミスして、水曜までに検証のやり直しをしないといけない。シミュ回線が足りなくて、間に合いそうにないんだ。だから、お前のIDを貸してほしい」 『IDの貸し借りは会社規定に反しますよ』  そんなことは俺だって知っている。それでも、形振り構っていられないのだ。 「頼む。お願いだ…」 『……………もちろん、見返りはあるんですよね』  暫く沈黙した後、斉藤は言った。その声は少し楽しげだ。  条件を出されるだろうとは思っていた。その覚悟も決めて電話をしたのだ。斉藤を卑怯だと罵るつもりは欠片もない。俺が全部悪いのだから。 「………ああ、解ってる」 『俺と一緒にホテルに行くこと。あ、もちろん行くだけじゃ駄目ですよ』 「お前とセックスすりゃいいんだろ」 『ふふ、いいですよ。IDを貸しましょう』  告げられるIDとパスワードをメモして、俺は電話を切った。  別のパソコンを立ち上げてそのIDでログインしてみれば、シミュ回線は4本もあった。これなら、ぎりぎり間に合うかもしれない。  早速その回線でも検証を始め、俺はひたすらシミュレーションが終わるのを待った。

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