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第13話

 日付が変わった。  検証結果を纏めては、次のシミュレーションを流し、その結果をまた纏め……。ひたすらその繰り返しをしていた俺は、一度立ち上がり大きく伸びをした。体のあちこちからばきばきと音がする。  睡魔を栄養ドリンクで吹き飛ばし、目の疲れを点眼薬で誤魔化す。  検証はまだ全体の五分の一も終わっていなかった。眠ることなど、まして、家に帰ることなど許されない。  社内は一設のフロア以外、明りは全て消えていた。他の社員はもう残っていないのだろう。  ガチャン、と部屋の入口が解錠される音が聞こえ、俺はびくっと体を跳ねさせた。  警備員は先ほど一度まわってきた。まさかまた来たのだろうかと思ってそちらを見れば、予想外の人物がいた。 「お疲れ」  コンビニのものと思われるビニールを掲げ、中に入ってきたのは本宮さんだった。俺はただ瞠目してその姿を見る。  泊まりでT社に行ったはずなのに。まさか疲れが見せる幻覚か?  そう思っているうちに本宮さんは俺に近づいてきて、頬をペチペチと叩いてきた。 「大丈夫か?」  本物だ!!! 「なんで、本宮さんが…」 「俺も手伝おうと思って戻ってきた。明後日の昼一までに向こうに着けば大丈夫だから」  本宮さんはコンビニの袋を俺の机に置くと、自分のパソコンを立ち上げ始めた。 「戻ってって…」  T社は他県にあるのに。ここから新幹線で三時間はかかる場所にあるのに。わざわざ、俺がミスしたせいで。 「すみません…俺…」  申し訳なさで、鼻の奥がツンと痛み目頭が熱くなった。俺は必死で溢れ出そうになる雫を堪えた。  本宮さんの顔が見れない。どれだけ俺に失望し、呆れているだろうか。仕事もパーフェクトになるだなんて豪語しておいてこの様だ。心底自分が恥ずかしかった。 「そういったことは全部終わってからな。それより飯食ったか?おにぎりとか買ってきたよ。ほら、食べな」  本宮さんの声はいつもと同じだった。怒っている風でもなく、柔らかな声に更に心臓が締め付けられた。早く罵って、叱り飛ばしてくれたら楽になるのに。 「シャケと昆布とシーチキン、あと明太、どれがいい?あ、おかかは俺のね」 「……大丈夫です。俺いりません、本宮さんが食べてください…」 「いらないの?」 「はい…」  施しを受ける資格など俺にはない。  俺は本宮さんと目を合わせないまま、席に着くとキーボードを叩いた。次の検証用のネットリストを作って行く。  隣で、バリバリとフィルムの剥がれる音がした。それから、海苔がパリッと破れる音。それと同時にその香ばしい匂いが届く。  そう言えば、もう半日以上俺は何も食べていない。取りこんだのは水分のみ。だから、これは仕方がなかったのかもしれない。  ぐううううううう、と、盛大に腹の虫が鳴いた。 「ぶっ!はははははは!!」  本宮さんが噴き出し大爆笑する中、俺はかーっと顔に血を昇らせた。俺はどれだけ恥の上塗りをすれば気が済むんだ! 「お腹減ってんだろ。ほら、意地はってないで食いなって。そんなでかい音立てられたら集中できないから」  笑い混じりの優しい声と共に、俺の机におにぎりが二つ置かれた。そして、俯く俺の頭に温かなものが触れた。  本宮さんは何も言わないまま、俺の頭をポンポンと撫でる。その手が離れてから、俺はそっとおにぎりに手を伸ばした。 「…いただき、ます…」  声が震えていたことに、きっと本宮さんは気付いていた。でも、じっとモニターを見つめ、こちらを見ようとはしない。  ひとくち、ふたくち、口に含むごとに目からぽろぽろと我慢していたはずの涙が零れ出た。泣いて何になるというのだ。泣くなんて許されない。そんなに自分が弱々しい人間だと証明したいのか。情けない。恥ずかしい。  部屋にはコンピュータの稼働音、キーボードを打つ音、もそもそとした咀嚼音だけが響く。  本宮さんは俺の涙が止まるまで、ずっと気付かないふりをしてくれていた。  夜が明けてまた社内が騒がしくなっても、俺と本宮さんはもくもくと作業を続けていた。たまにトイレに立ったりする以外、机にかじりつき会話もほぼない。  昼近くになって、本宮さんが「腹減った」と呟いたので、コンビニに行って食料を買い込んできた。作業の手は止めずに、簡単な食事を済ます。 「ハルちゃん、グラフと表並べて比較と書き換えするスクリプト組んだから使って」 「えっ…」 「結果のファイル突っ込めば、PDFで吐き出してくれるから」  本宮さんの言葉に、俺は目を丸くした。そんなスクリプトがあれば作業効率は断然上がる。しかし、俺には咄嗟にそんなもの作れない。 「ありがとうございます」  礼を言いながら、敵わないと思った。悔しさより、すごいと思う気持ちの方が断然勝る。  昼を過ぎた時点で、全体の半分以上が終わっていた。昨夜までの俺一人での作業効率を考えると、大半が明らかに本宮さんの力だ。 「ん、あと、ネットリスト少し組み変えたから。数分だけだけど、シミュ時間短くなると思う」 「えっ!?」 「裏技。あんまり回線に対してよろしくないやり方だけど、今は時間が一番大事だからね」  本当に、敵わない。プライド云々は投げ捨てて、今の俺は本宮さんに頼って甘えるしかないのだ。 「本宮さん…ありがとうございます」 「うん、あと半分。頑張ろう」 「はい」  途中、何度か浅見さんからの電話があった。宝島は宝島で、もし間に合わなかった場合に向けてプレゼン練習を半ベソで頑張っているらしい。  その姿を思い浮かべながら、俺も気合を入れ直した。  作業は進む。しかし、日が沈み始める頃には疲労がだんだんと蓄積され、小さなミスが増えてきた。瞼は重いし、肩が凝って頭がずきずき痛い。 「ハルちゃん。こっちの分、ダブルチェックよろしく」 「はい」  プリントアウトされた結果の束を渡してくる本宮さんも、きっと疲れているのだろう。先ほどから欠伸が目立った。  大きく欠伸した本宮さんに釣られて出そうになったそれを何とか噛み殺した時、コンコン、と部屋の扉のノックの音が響いた。ノックということは他部署の人だ。 「俺が出ます」  本宮さんが動くより先にそう言って、俺は扉を開けに行ったのだが、すぐその扉を閉めたい欲求に襲われた。 「どうも、やつれてますね。お疲れ様です」  開けた先には、すっきりとした顔で笑う斉藤がいた。 「…なんだよ」  IDを借りているという負い目があるため、いつものように強くは出れなかった。 「差し入れですよ。缶詰になっちゃってるようなので。抱き心地悪くなったら困ります」  斉藤はそう言いながら、大きめのビニール袋を俺に渡した。コンビニではなく、総菜屋の弁当とお茶が入っている。 「………」  さらりと出たセクハラ発言に、お前の施しなどいらんと突っぱねたかったが憚られた。かと言って、素直にお礼を言えるかというとノーだ。 「…って、本宮さん戻ってきてるんですか?」  弁当をじっと見つめどうすべきか考え込んでいる俺の頭上から、斉藤の不機嫌そうな声が降った。 「そうだけど」 「ふーん…」 「なんだよ」 「別に。弁当一人分しか買って来てませんけど」  言葉通り、ビニールに入っているのは一人前だ。本宮さんは急遽戻ったのだから知らなくて当然だ。 「それで、いつまでです。この缶詰状態」  部屋の中の本宮さんを眺めていた斉藤の目が、再び俺に向けられる。素気なく明日だと答えると、斉藤は「解りました」と頷いた。 「明日、終業後に迎えに来ます」 「え?」 「約束。忘れたとは言わせませんよ」  忘れたわけではない。しかし、明日、仕事が間に合うかもまだ解らないのだ。今だって、そんなことを話している場合じゃない。 「明日じゃなくてもいいだろ」 「俺、急いでるんですよ」 「急いで…って…」 「それじゃあ、今日は帰ります。失礼します」  ぽかんとした俺ににやりと笑って見せて、斉藤は踵を返した。そう言えば、終業のチャイムは暫く前に鳴っていた。 「斉藤?何だって?」  戻った途端に聞いてくる本宮さんに、俺はビニールの弁当を掲げて見せた。 「これ、差し入れだってもらいました。あとで分けて食べましょう」 「気のきく奴だな」 「はあ…」  気のきくと言っていいのだろうか。俺は斉藤が監視に来たような錯覚を受けた。  何をそんなに急いているのだ、あいつは。俺は逃げも隠れもしない。しかし、そのことを考えると気が滅入ってくるので、今だけは斉藤との約束を頭の端に追いやった。 「ハルちゃん、今渡した分のダブルチェックどう?」 「こっち、オッケーです!そっちは…」 「うん、大丈夫」  頷く本宮さんに、俺は盛大に息を吐いた。  ――終わった。 「すぐにROMに焼きます」 「うん、よろしく」  べたーっと机に突っ伏す本宮さんはとても疲れた様子だ。俺も今すぐ倒れて眠りたい。  それもそのはず。時刻は午前六時。俺と本宮さんは寝ないまま二度目の朝を迎えていた。  そのおかげで、論理検証用の資料は無事に完成した。  できあがった資料をCD-ROMに焼いて、取り出す。それに自社の判を押してから、茶封筒に詰めた。 「できました!」 「ぃよしっ!!」  本宮さんは勢いよく立ちあがり、俺の差し出した茶封筒を受け取った。そしてそのまま荷物を纏める。 「じゃあ、行くから。ハルちゃん、今日はもう帰っていいよ。俺は新幹線の中で寝るから」 「え、いえ…っ」  本宮さんはこれからT社に向かう。俺は留守番だ。帰れと言われても、俺と同じく二日貫徹した本宮さんが休めないのに、自分だけぬくぬくと眠るなんてできるはずもない。もともとは俺のミスだ。  しかし、俺が「帰りません」と言うより先に、本宮さんは部屋を飛び出していった。  部屋にぽつんと一人になってから、俺は少しだけ眠った。横になってしまうと熟睡してしまいそうなので、椅子に座ったままうつらうつらと舟を漕いだ。  少し沈んで、ふと目覚め、また意識を飛ばす。浅い眠りを繰り返していると、だんだんと周りが騒がしくなってきた。出社時間となったのだ。  始業のチャイムが鳴ると、俺は立ち上がって両手で顔をバチンと叩いた。三時間は寝れた。もう寝ては駄目だ。  T社の面々への支援はしようがないので、仕方なく一昨日までやりかけていたISO用の資料まとめを始める。寝不足の頭でミスしないように、何度か見直しを行いながら。  本宮さんは無事に着いただろうか。  時計を見ながらそう思ったときだった。電池のすり減った携帯が着信を知らせた。飛びついてみれば本宮さんからのメール。 『T社到着。余裕で間に合ったよ。今日はゆっくり休んで。お疲れ様』  ほう、と息が漏れる。良かった。本当に、良かった。携帯をぎゅっと握りしめると、また目頭が熱くなってきた。 「ハルちゃん?」  突然声が降ってきて、俺は顔を上げた。入口の方に目を向けると、そこには久しぶりの顔があった。 「あ…山科さん」  両手に紙の束を抱えた山科さんは、部屋に入ってきて自分のデスクへ行くと、積み重なったファイルの山に手を伸ばす。 「なんかミス出たって聞いたけど、どうなった?」 「はい、なんとか…大丈夫です」 「はー…そりゃ助かった。こっちまでミスで潰れちゃ、俺減俸物だ」  冗談めかして言いながらも、その手は急ぐようにファイルを捲っていく。もう一方の仕事で出たミスは、とても痛手だったようだ。 「俺もこれから出張だ。それじゃあな」  笑いながら、山科さんはファイルの山を抱え出ていこうとする。俺は慌ててそれを止めた。 「あのっ!山科さんっ!!」 「え、何?」  振り返った山科さんに、俺はぎゅっと拳を握りしめる。それからごくりと息を飲んで、口を開いた。先ほど決めたことを話すために。 「あの、この前の話ですけど――…」

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