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第14話

「お疲れ様です」  午後六時。  終業の鐘の音が鳴り響き、帰ろうと部屋を出た俺を出迎えたのは、相変わらず厭味な笑顔の斉藤だった。 「………」 「よかったですね、間に合って」  上辺だけの言葉を投げかけてくる斉藤に、俺はじとっとした視線だけを送ってやった。 「さて、行きましょうか」  俺はすたすたと歩く斉藤の後を追い、共にエレベーターに乗り込んだ。  これから男と床を共にするのかと思うと、気が滅入る。しかも相手は大嫌いな斉藤だ。しかし、約束――というよりも取引と言った方がしっくりくるが――なので仕方がない。もとはと言えば、己の未熟さが招いたことなのだ。 「随分暗いですね」  思い返せば、すぐに惨めな気分になる。横から呑気に言ってくる斉藤の言葉に腹が立つ。  チン、と音が鳴り、二人きりだったエレベーターの扉が開く。俺は無言のまま外へ出た。玄関ホールを突っ切り、外へ出る。後ろからは斉藤がついてきている気配がある。  外に出たは良いがどこに行っていいか解らず、俺は脚を止めて振り返り斉藤を見た。 「酷い顔。寝てないからって以上にやばいですよ、その顔」  斉藤は口角だけを上げて笑う。 「ミスなんてよくあることじゃないですか。あれですか?本宮さんにまで手伝わせたのが情けないとか?失望させてしまったとか?嫌われたらどうしようって?」  本宮さんの名前が出て、俺の顔は更に強張った。斉藤は俺の心中をどんどんと言い当てる。  俯く俺を見て、斉藤は嘲るようにふっと息を吐いた。 「もともと本宮さんは漆原さんに期待なんてしてませんよ。本宮さんのことは全ては漆原さんの独りよがりなんですからね」  ああ、もう駄目だ。 「……るさい…」  俺は震える声で呟き、顔を上げて斉藤を睨んだ。 「うるさい!解ってるんだよ、独りよがりだよどうせ!俺が勝手に思い込んで浮かれてただけだ!付け焼刃みたいに服とか選んだり、仕事できるみたいに振舞ったって…そんなことで本宮さんの隣に並べるなんて、そんなの無理なのに…っ思いあがってただけだよ……!」  解っていたんだ、本当は。今まで必死に否定してきたけど、今の俺にはもう違うと言うだけの気力も何もなかった。  本宮さんの優しさに勘違いして、恋人気取って。思い返せば本宮さんから俺を求めてくれたことなんてなかった。デートの約束だって、俺が言いだしたもの。キスだってすべて俺が求めていたから、可愛らしい中学生みたいなそれをしてくれただけ。  ほんの二週間ちょっと、俺は夢を見ていたのだ。夢は醒めるもの。俺は現実に返ってきただけだ。  斉藤は目を丸くしていた。こんな驚いた顔は初めて見た。変な顔だと笑い飛ばしてやりたいところだが、気持ちが乗らない。  そのうちに、斉藤の顔はそれは愉しそうな笑顔に変わった。 「はは、なんだ、解ってたんですね」 「うるさい、さっさと行くぞ。早く終わらせたいんだ俺は」  俺は再び前を向き、歩き出した。ホテルなら駅の近くにでもあるだろうが、こんな会社近くのホテルなんて誰に見られるか解らない。遠くを目指そうとタクシーを探した。 「いやいや、ムードを大切にしましょうよ。まずは食事から」  追いかけてきた斉藤がそんなことを言う。  俺はムードなんていらない。むしろ殺伐としたまま淡々と終わってほしいのだ。 「食事なんかいらん!さっさとホテルに行ってやることやるぞ!」  なので、振り向きざま怒鳴るようにそう言った。  そして、その瞬間固まった。 「どこへ行って何をやるって?」  俺のものでも斉藤のものでもない、澄んだテノールの声。  斉藤も弾かれたように振り返った。 「本宮さん…」  呟いたのは斉藤だった。俺は驚きのあまり言葉も出せない。なぜ、本宮さんがいるのだろう。  本宮さんはスーツ姿だった。いつものラフな格好とは違う、しっかりとした正装。細身のスーツは、手足の長い本宮さんによく似合っていた。きっと、会議に出るためのスーツだ。  そうだ、本宮さんは今頃、浅見さんやT社の人たちと打ち上げをしているはずなのだ。  斉藤の表情がさっと曇った。 「本宮さん…まだ出張中じゃなかったんですか?」 「戻ってきたんだよ。ハルちゃんに会いに」  はっきりと本宮さんは言った。俺に会いに、と。 「え、え…?」  しかし言われた意味を、真っ白な頭は理解してくれない。 「それで?どこに行くって?」  問い詰めてくる本宮さんの声は今まで聞いたことがないくらい、硬くて低い。  間違いなく、怒っている。――なんで。 「……ホテルですよ。今から、俺と漆原さんはホテルに行くんです。では、失礼します」  斉藤が答え、俺の肩を抱く。そのまま押され、俺はふらっと足を踏み出した。  違うって言わないと。いや、でも違わないか。俺は今からこいつとホテルに行くのだから。 「っ!?」  がしっと腕を掴まれ、引っ張られた。振り返ると間近に本宮さんの顔があった。柳眉は寄せられ、かなり不機嫌だ。いや、不機嫌なんてものじゃない。怖い。こんな顔、初めて見た。 「どういうこと?ハルちゃんは俺のこと好きなんじゃなかった?斉藤が好きなの?」  鋭さを増した切れ長の瞳に射抜かれ、俺は無意識のうちに言葉を紡いでいた。 「す…好きです…本宮さんが好きです…本宮さんだけが、好きです…」  ぽそぽそと、蚊の鳴くような声だったが、本宮さんにはちゃんと聞こえていたみたいだ。ふっと和らいだ本宮さんの表情に、俺の心もほっと温かくなる。 「わっ!」  急に腕を引く力が強くなった。大きく傾いだ俺の体は斉藤から離れ、そのまま本宮さんの方へと倒れ込む。 「うっ、え、え…!」  本宮さんはどもりまくりの俺を両手でしっかりと支えてくれ、斉藤に向けて綺麗な笑顔を放った。 「それじゃ。斉藤は一人で帰ってね」  そう言うや否や、俺をずりずりと引きずりながら歩き出す。俺は訳が解らなくて、促されるまま本宮さんにくっついて歩いた。  すぐ側の縁石まで連れて行かれ、そこに停まっていたタクシーに押し込まれる。たぶん、本宮さんが乗ってきたタクシーなのだろう、座席にはバッグが置いてあった。 「ちょっ…何勝手なこと言ってるんですか!」  斉藤が慌てて追いかけてきたが、それより早く本宮さんは俺の隣に乗りこんできた。 「いいですか?」  運転手がバックミラー越しに視線を送ってくる。本宮さんは平静とした様子でそれに応えた。 「いいです、出して」  かくして、斉藤の目の前でタクシーの扉は閉まり、走り出してしまったのだった。呆然と突っ立っている斉藤の姿が、暫くサイドミラーに映っていた。  これは、一体どういう状況なのだろうか。本宮さんは一言もしゃべらず、その沈黙がなんだか怖い。そちらを向くことすらできず、俺はただただ俯き自分の膝ばかりを見つめていた。  行き先はすでに告げてあったようで、運転手も無言のままタクシーは迷いなく道を進んでいく。  せめてラジオとかつけてくれればいいのに。そんな栓ないことを思いながら十五分。耐えきれなくなった俺は、勇気を出して口を開こうとした。 「あの…、も…」 「はい、つきましたよー」  畜生!空気読めよ!!  振り返る運転主に本宮さんはさっと代金を渡し、降りていく。俺も慌てて後を追った。 「あの、本宮さん…」 「こっち」  戸建とマンションが立ち並ぶ住宅街は、来たことない場所だった。すいすいと進んでいく本宮さんは振り返らない。俺には黙って着いていくという選択肢しかなかった。  やがて一つのマンションに着くと、エレベーターに乗り込む。二人を乗せた狭い箱は、五階まで昇っていった。  もしかして、ここは本宮さんの家なのかもしれない。そんな簡単なことに気付いたのは、本宮さんが一つの扉を鍵で開けた時だった。 「入って」 「あ、はい…おじゃま…します…」  声だけに促され、俺も部屋の中に足を踏み入れた。初めての本宮さんのプライベートスペースに興奮する余裕もなく、とぼとぼと廊下を歩く。すぐに広めのリビングがあり、本宮さんは床に鞄を放り投げると、やっと振り返った。 「さ、どういうことか説明してもらおうか」  リビングの中央にはローテーブルと三人掛けのソファが置いてある。本宮さんはソファの端に座ると、隣をぽんぽんと叩く。俺も座れということだろう。  俺は恐々としながら、革張りのソファに腰を下ろした。できるだけ本宮さんから距離を取って。  本宮さんが説明しろと言っているのは、やはり先ほどの斉藤とのやりとりのことだろう。なんでよりにもよって、あんなところを本宮さんに見られてしまったのだ。 「聞きたいことがたくさんあるんだけど…まずは、さっきの。なんで斉藤とホテルに行くの?」 「それは……」  責めるような言葉に、萎縮してしまうのと同時にほのかに喜びが湧き上がってくる。これはまるで、嫉妬をしているかのようだ。  それだと、本宮さんは俺のことが好きみたいじゃないか。それに、さっきも、俺に会うために戻ってきたって言ってくれていた。 「さっき言ったよね、俺のことが好きだって。それともなに?斉藤のことも好きで、実はホテルに行く仲なの?」 「ちがっ…違います!あれは…!」  本宮さんに対する畏怖と、かすかな喜びに、俺は慌てて言葉を紡いだ。しかし、否定したはいいがその先の言葉が続かない。  本宮さんの瞳は隣に座る俺をじっと見据えていて、説明を求めている。  卑怯にもIDを借りたなんて、しかもそのためにあんな馬鹿な取引をしただなんて、知られたくない。だけど、言い訳も思い浮かばないし、なにより本宮さんに対して嘘をつきたくなかった。 「あ、あいつの…斉藤のIDを…借りたから……」  本宮さんからは目を逸らし、じっと膝の上に置いた両手を見つめながら俺は説明した。斉藤を頼ったこと。交換条件を出されたこと。それに応じて、規定に反してIDを借りたこと。上手く説明できない。なんだかふわふわとして、言葉は俺の意識を通らずに痞え痞え出ていった。  なんとか全てを話し終えると、真横から大きな溜め息が聞こえ、俺の体は跳ねあがった。 「――検証結果なんて、別にないならないでいいって言ってたよね」 「……っ」 「そんなことでなんで自分を犠牲にすんの。あのミスはハルちゃんだけのせいじゃないだろ。輝だって抜けてたし、ダブルチェックが足りてなかった俺にも責任の一端はあるんだし」  怒り半分、呆れ半分の本宮さんの声が降ってきて、恥ずかしさと情けなさで俺はますます背を丸めた。やっぱり失望させた。 「すみません…」  謝ると、もう一度溜め息が聞こえた。それと同時に、肩を掴まれ無理やり顔を上げさせられた。すぐ側にある本宮さんの顔はもう怒ってはいなかったけれど、それと解るほど呆れている。 「斉藤とホテルには行かないこと。いい?」  すぐにはいと応えるべきなのだろうが、相手がいくら斉藤とはいえ、契約違反は気がとがめた。代替案を考えていると、そんな俺の心中をあっさり読み、本宮さんはさらに付け加えた。 「俺が何とかするから」 「え、そんな…」  そこまで本宮さんに世話になるわけにはいかない。こんなにおんぶにだっこでは、流石に俺のプライドも傷つく。  しかし、じっとこちらを見つめてくる真っ直ぐな視線はまた剣呑さを含んでいて、俺は頷くしかできなかった。 「お、お願いします…」  俺の返事に本宮さんはふっと息を吐き、肩を掴んでいた手は剥がされた。

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