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一部 忘れたこと 兄とマウラ-1
淳哉はスコーンを黙々と食べている。
もぐもぐと口を動かし、一つ食べ終わるとすぐ次を口に運ぶ。飛行機でも食事を取っていたのに、疲れて腹が減ったのか、それともマウラのスコーンがとびきりおいしいのか。
だが表情は変わらない。
病院で目覚めて以来、ずっと呆けたような顔をして、あまり声も出さないのが気になっていた。
弾けるような元気な声で笑った淳哉の、眩しいほどの笑顔を、いったいどれくらい見ていないだろう。
そう考えながら、幸哉はまず、戻って来たマウラに右手を差し出した。
「初めまして、クローチェ・ジョンソン夫人。ユキヤ・アネサキ。タカオ・アネサキの息子です」
夫人も握手を返してくれたが、幸哉を見る視線は厳しい。
「ようこそ。……あなたを歓迎するかどうかはこの後の話によるわね」
なぜ厳しい顔になるのか。それは淳哉が怪我をしているからだろう。
頭部は包帯に包まれ、顔面にもまだ癒えぬものが露わだった。特に目元から鼻へかけての怪我が目立ち、額にも深い傷がある。服に隠れているが、腕や背にも打撲の痕がある。
愛らしい子供のこんな痛々しい姿を見て、心の痛まない者は少ない。しかし皆無では無いのだ……ということを、幸哉は知ってしまったのだが、夫人が険しい顔になるのも当然だと思う。
子供が怪我することを防げなかった自分を恥じて、幸哉は目を伏せ、視線を避けた。
「どうぞ座って」
「ありがとう」
声に目を上げたが、変わらぬ視線と冷たい声に、自然と顔が強張る。
なんとか平静を装って席に着くと、夫人はそれきり幸哉へ目を向けずにココアを作る。笑みと優しい声を向けながらマグカップを子供の前に置くと、淳哉は無表情に彼女を見上げた。夫人は優しい笑みで見下ろして、頭を撫でようとしたが手はためらうように止まり、指先だけで少し撫でた。包帯に触れるのを躊躇したのだろう。
おもむろにカップを取った淳哉は、少し息を吹きかけただけでコクンと飲んだ。熱くないのかな、と考えながら戻ってきた夫人に向き直る。
「今回は急なことで申し訳ありません。父があなたなら任せられると言ったので、甘えさせて頂きました」
「前置きは良いわ。まず必要な情報を下さるかしら。依頼を受けたのだから、私は私のするべきことをします。けれど私がミスタ・アネサキから聞いてるのは、六歳の子供をひとり引き受けてくれ、ってことだけなの」
クローチェ・ジョンソン夫人は、児童保護の施設と学校を運営している女性で、彼女の夫は州議員だ。父が訪米中に知り合い、今回の事態に当たって相談したらしい。
……ということしか幸哉は聞いていない。時間が無かったからだ。
だが彼女はあくまで子供を保護する者であり、傷ついた子供の周りにいる大人を敵と見なしてしまうようだった。苛立ちを隠さぬまま、彼女は続ける。
「詳しいことはなにも知らないのよ。これでは必要な助力ができない可能性が高い。けれどミスタ・アネサキは付き添いの者が伝える、としか言わなかった。……それがあなたよね?」
「そうです」
幸哉は頷いたが、続きを口にしようとして、どうしても逡巡の出てしまう顔を少し俯けた。
移動中に何度も考えて、受け入れてくれる人には全てを話すべきだと結論を出していた。そうしなければ淳哉を守れない。
なのに、今更考えてもしょうがないと分かっていても、まだ口に出すのを躊躇ってしまう。
しかし当の父がここに連れていけと言ったのだ。今すぐ、急げ、と。
「実は少々……複雑な事情があります」
幸哉はようやく顔を上げて告げたが、顔は少し強張ったままになっていた。
「そうでしょうね」
突き放すように言う夫人の顔は、厳しいままだ。気後れして噤んでしまいそうな口を、意志の力で開く。
「……端的に言うと、家庭内のくだらない争いなんですが……」
「争いなんて、たいていがくだらないものじゃなくて? あえて言うことかしら」
夫人がそう言って幸哉をきつい目で見つめた時、ぐぅ、と妙な音がした。
なんだ? と目をやると、淳哉が真っ青になって口を押さえている。思わず椅子を蹴って立った。
テーブルに山盛りだったスコーンが半分以上無くなっていた。いくら何でも食べ過ぎだ。幸哉は駆け寄ったが、手が届く前に、淳哉は吹き出すように嘔吐した。
背をさすりながら「大丈夫か淳哉」声をかけたが、子供はひたすら吐くだけでなにも言わず、とても苦しそうなのに、助けてやりたいのに、どうしてやればよいか分からない。すると飛んできた夫人が、「ぜんぶ出してしまいなさい」と言いながら、容赦なく喉に指をつっこんだ。
ギョッとして「なにをしてるんです!」と叫んだ幸哉に「舌を噛んだら大変でしょう!」と叫び返した彼女は「水を! それとペーパータオルを持ってきて!」と続けたので慌てて従った。
夫人の手で水を飲まされ、身をひくつかせながら吐き続けた淳哉は、やがて出すものが無くなったようで、身体全体でふうふうと荒い息をするだけになった。
汚れた服を脱がせ、
「なんてことなの。身体にも怪我が」
と眉間に深い縦皺を刻み呟きながら、夫人は子供をタオルで包み、汚れた手や顔や髪を丁寧に拭っている。幸哉はただ、身体を支えるように抱いていた。
淳哉は真っ青な、呆けたような顔のまま、おとなしくしていたが、やがて電池が切れたようにコトンと眠ってしまった。
そうと気づいて、幸哉は子供を痛まぬ程度の力で子供を抱きしめる。自分はとことん怯懦で無力で、この子が苦しむ姿を見ているしかできない。胸がキリキリと痛み、涙が滲んでくる。
「眠れて良かったわ。可哀想に、緊張していたのね」
痛ましげに夫人が言う声が聞こえ、見下ろすと、顔色は青白いままだが寝顔が安らかに見え、少しホッとする。
病院からずっと、ほとんど口をきかず、移動の車でも飛行機でも眠っていたが、苦しそうに眉を寄せた寝顔がいたましく、幸哉は一睡もしていない。おそらく疲れを癒やすような安らかな眠りではなかったのだろう。
「偉かったわね、ジュン」
そう呟きながら、夫人は淳哉の頬をそっと撫でる。優しい眼差しと手付きだった。目に涙が滲んでいるのに気づき、ギュッと目を閉じる。
「この子はずっと我慢していたのよ」
そう言って幸哉の肩へ手を置き、優しくそこを叩いた。
――――そんな事は知っていた。
幸哉は気づいていて、それでもなにもできずにいたのだ。そして今も、できることなどなにもないのだ。
あらかじめ用意してくれていた部屋へ誘導され、幸哉が抱いて運ぶ。横たわらせて布団を掛ける間も、淳哉はすうすうと眠ったままだった。
湧き上がる自分を責める気持ちを抑えることも出来ず、ただ淳哉が目覚めた時、知らない部屋に一人では恐がるのでは、などと思ってしまい、ベッドサイドから離れることなどできずに、ただ見つめていた。
どれくらいそうしていただろうか。
「ジュンはしばらく目覚めないでしょう。どうぞこちらへいらして」
ひたすら自分を責めていた幸哉は、かけられた声に、ようやくここに何をしに来たか思い出した。夫人と話すべき事があるのだ。そう自分を励まし、目覚める様子のない淳哉を気にしながら、夫人と共にキッチンへ戻る。
先ほど勧められたソファに座ると、夫人はため息混じりに目を伏せた。
「あなたが、……本当にジュンを気遣っているのは分かったわ。あの子もあなたを頼りにしているようだし。……だからあなたが連れてきたのね」
苦く笑いながら、幸哉は首を振った。
「僕はなにもできなかったんです。心配することくらいしか」
「それも必要なことでしょう。責めるようなことを言って悪かったわよ。でも……口の中も火傷してたわ。ココアが熱かったのでしょうけど、熱いとも言わずに飲むなんて、いったいどういうことなの?」
夫人の惑いは当然の事だった。しかし幸哉にも、はっきりしたことは分からない。
「すみません、クローチェ・ジョンソン夫人。実は三ヶ月ほど離れていたので、現在の彼の生活について、詳しくはないのです。とにかく急いで日本を離れる必要があったので、私が病院から連れ出したんですが」
「なんですって!」
信じられない、と身振りで示し、憤慨した語調で続ける。
「六歳の子供の保護を求めておいて、何も知らないですって! いったい……」
憤った勢いのまま言った夫人は、我に返ったように言葉を切ると、眉を寄せたまま「マウラでいいわ」と付け加える。
「ではマウラで」
幸哉が答えると、マウラは溜息を吐いて眉を寄せながら「そうよね」と短く頷いた。
「それなのにあなたが任されたのよね。あなた以上に知る人がいないということなのね。なぜ………ああごめんなさい。お茶はいかが? 冷たいものもあるわ。私はビールを頂くけど」
酷く喉が渇いていたが、疲れてもいた。お茶程度では癒されないなにか。
「では私もビールで」
ため息混じりに幸哉が言うと、マウラは大きな冷蔵庫からバドワイザーの瓶を二本出し、グラスに注いで自分と幸哉の前に置いた。彼女はすぐグラスに口を付け、ひと息に飲み干してから、さあ、と言わんばかりに幸哉を見た。
「まず聞かせてちょうだい。どうしてそんなに急ぐ必要があったの?」
「…………彼に危害を加えようとする、……可能性がありまして」
「誰が?」
「…………母です」
「つまりミスタ・アネサキの奥様が?」
マウラは怪訝な顔で言った。それはそうだろう。息子である自分が保護しようとしているのに……という疑問は当然のことだ。幸哉は歯を食いしばってしまっていた顎の力を意識して緩める。
「……淳哉は僕の弟です。……腹違いの」
「Oh……」
大げさに溜息を吐いたマウラに、幸哉はまっすぐに目を向けた。
父の行状も、母の衝動も、他人に話すのは恥ずべきことばかりだ。しかし彼女には知っておいてもらう必要がある。
幸哉は目を閉じて深呼吸をしてから鞄から書類を取り出し、そこに目を落としながら説明を始めた。
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