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一部 忘れたこと1

 幸哉が彼女――淳哉の母の存在を知ったのは、十九歳の時だった。  偶然見かけた父親に、いやその光景に、言いしれぬ違和感を覚え、思わず立ち止まって凝視してしまった。  若く美しい女性が甘えるように寄り添い、輝くような笑顔で話しかけている。買い物袋をいくつも持った父もなにかを答えている。  幸哉はそれまで、父の笑顔を見た記憶がほとんどなかった。  いつも眉を寄せた気難しげな表情をして、むっつりと最小限の言葉のみをくちにする。笑顔どころか冗談口の一つも叩かない。  妻であっても息子であっても笑いかけることすらしない。幸哉がたわいないことで声をかけても、全てを見透しているかのような眼差しで見つめられる。悪いことをしていなくとも居心地が悪くなる。同じ空間にいると背筋を伸ばさなければと自然に思ってしまい息が詰まる。なのでなるべく接触を避けていた。  当然女性に対しても無いだろうと簡単に推測出来る、いわゆるカタブツ。  なのにその女性と歩いている父は、幸哉が今まで見たことがないような、穏やかな表情をしていた。ときおり笑顔すら浮かべているのだ。ビジネス以外で父が誰かと二人きりで食事なんてありえない。それに父の表情も思いがけなさ過ぎて違和感しか生まず、目が離せなくなっていた。  女性は確かに魅力的だった。  おそらく二十代。ウェーブのかかった黒に近い茶の髪が、波打ちながら背の中程まで覆っている。背が高くほっそりとして、すっきりと手足が長い。身体の線を強調するようなワンピースを纏っていて、豊かな胸のふくらみや細いウエストを惜しげもなく晒している。  あの女性はは何者だ。なぜあんな顔をするのだろう、という悔しいような怒りに似た気持ち。  さらに、いったいどこで知り合ったのだろう、なにをしているのだろう、という好奇心と疑問符に占領され、深い考えも無しに尾行を始めていた。  幸哉の父、姉崎崇雄は、旧財閥の流れをくむ企業体『ANESAKI』の次期代表と言われている男で、祖父である現代表にとっては入り婿だ。  つまり実力ではなく娘である母と結婚したことにより今の地位を得た、といわれていることは息子である幸哉も知っていた。母が日常的にそう言うからだ。  父が主導し、推し進めてきたグローバル展開がここ数年、着実に実を結びつつあった。一つのジャンルで莫大な収益を上げた先般、株主総会でも評価され、次期代表の椅子をほぼ手中にした。  ……と幸哉は母の自慢げな声で聞いている。  華族の流れをくむ姉崎の家と血のつながりの無い者が、代表の椅子に座るなどありえないけれど、「あのひとも努力をしたのね」と語る母は満足げだった。  確かに努力はしたのだろう。家でもどこでも、父の頭には仕事と姉崎家のことしか無い。  息子から見てもそうとしか思えない父が、いったい何をしているんだ。  それからも二人はいくつかの店に入って、出てくる度に増える大きな袋を、すべて父が持っているのを目の当たりにして、幸哉はまた目を疑った。自分の鞄さえ秘書に持たせる父。母ですら父にものを持って貰った事など無いだろう。  やがて二人はタクシーに乗り、さほど離れていない場所で降りて、瀟洒なマンションのエントランスへ消えた。  尾行してきたものの、これからどうしようかと幸哉が物陰で考えていると、父はすぐに出てきて、待たせてあったタクシーで帰ってしまった。  幸哉は自分の乗ってきたタクシーを返してしまっていたので、父を追うことができず、衝動のままマンションのエントランスに入ってオートロックのボタンを押した。「姉崎の家の者です」と言うと、『お間違えじゃないですか』と女性の声が返り、インタフォンは切れる。  幸哉はかたっぱしから部屋番号を押し続け、同じ言葉を言い続けた。そうして一つの番号に繋がった時、ひとことのいらえも無く扉が開いた。幸哉はその部屋番号を記憶して上へあがった。  部屋のベルを押すと扉が開いて、そこにあの女性がいた。幸哉を見た彼女は驚いていたが、中へと戻る彼女について部屋に入ると、彼女はニッコリ笑んだ。 『あなたはアネサキのなに? さっきは意味が分からなかったのだけど』  向けられた言葉は英語だった。幸哉は乏しい英語力をフル回転させる必要を感じつつ答える。 『息子です』  幸哉の言葉に、一瞬目を見開いた彼女は、クスッと笑って『私は彼の恋人よ』と言った。  美しいひとだった。  弓形の眉の下に、切れ長の大きな目が、笑みの形に細まって幸哉を見つめている。腕の良い人形師の手で彫られたような、完璧な目鼻立ち。それを柔らかそうな髪が縁取っている。緩いウェーブのかかった髪は波打ちながら肩と背を覆っていた。囁くような声は少し低めで、はっきりと口を開いて喋る。  煌めくような瞳に見つめられ、吸い込まれるような錯覚を覚えていた。  母とは全く違う、と幸哉は思い、少しだけ、父の気持ちが分かった気がした。母のキンキンとカン高い声が脳裏に浮かぶ。 「私を怒らせたら、お父様があなたをどうなさるか分かってるでしょ? 分かったら言う通りになさって」  それは息子ですら、あまり聞きたいものでは無いのだ。  幸哉は知りたいことがたくさんあったが、ほとんど日本語の通じない彼女と幸哉の乏しい英語力では意思の疎通が難しく、筆談を交えて話をした。  そうして分かったのは、彼女が中国系のアメリカ人であること。父の帰国と共に日本へ来たこと。それから父と食事や買い物をする以外、この部屋からほとんど出ていないこと。  父が三年間の米国生活から戻ったのは昨年のことだった。その間、定期的な帰国以外は行ったきりで、米国での事業を軌道に乗せる為に奔走していた、と聞いている。だがまさか向こうでこんな女性と知り合い、連れて帰ってくるなんて。あまつさえ行動を制限し、ここに閉じこめているなんて。幸哉は父に対して激しい憤りを感じていた。  幸哉の表情をどう見たか、彼女は『お願いよ』と言った。 『内緒にしてくれる? 彼のワイフが私を知ったら、怒るでしょう』  そういう彼女は、切れ長の綺麗な目を笑みの形に細めて、艶然と微笑んでいた。  思わずドキンと心臓を跳ねさせながら、幸哉は内心頷く。確かに、あの母なら激怒するに違いない。 『それでもあなたが生活を制限されるなんておかしい』  そう返した幸哉に、彼女は弓形の眉を少し寄せ、不思議そうに目を見開いた。 『おかしなことを言うのね。私が疎ましくないの?』 『父があなたを連れてきたんでしょう? あなたは悪くない』  幸哉が真剣な目を向けてそう言うと、彼女は『馬鹿ね』と低く呟いた。 『私が連れていってと頼んだのよ。彼と離れたくなかったの』  ふふ、と笑った彼女は、幸哉の頬に手を伸ばす。華奢な手に頬を覆われ、幸哉はただ見返すしかできない。低い囁くような声が耳を打つ。 『恨むなら、私を恨みなさい。お父様ではなく』  笑んだ切れ長の瞳は不思議な光を放って、その時、幸哉の心を捕らえてしまった。

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