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一部 忘れたこと3

 彼女は確かに幸哉の初恋の人だった。  しかしこの親子に対して、いつしか最も近い親戚というような、近しい感覚を覚えるようになっていた。  だから幸哉は彼女に会いに行く為ではなく、淳哉と遊ぶ為に、マンションへ通っていた。  バイト帰りに保育園へ迎えに行って淳哉と一緒に帰宅し、二人で計画したイタズラで彼女に怒られて、互いに罪をなすりつけ合いながら罰として命じられた風呂掃除をしたり。  淳哉に絵本を読み聞かせながらいつの間にか一緒に眠ってしまったり。  遊んで戻ると、彼女に手を洗えと命令され、お手製のお菓子や手料理に舌鼓をうったり。  気を張らず姿勢も正さずに、なんでもない会話を交わす。姉崎の類縁では得られない、暖かい時間。  友人たちの家で見聞きし、ずっとどこか憧れていた家族の会話が、ここでなら自分のものになった。  保育園はマンションから近くはなく、そこで出来た友人とは家で遊べない。なので幸哉は、時間が許す限り、近所の公園へ淳哉を連れていくようにしていた。  驚くほどきれいな顔をしているくせに、見た目に反して淳哉は活発で気の強い子供で、自分の主張が通らないと、相手が年かさで身体の大きい子でも戦いを挑む。その時は英語になってまくしたてる淳哉に子供たちは気後れするのか、結果的に淳哉は自分の思う通りにすることが多かった。  つまり淳哉は遊びの輪に入ると、いつの間にか行動を主導するような子供で、徐々に近所の子供の中に友達ができていったのだが、幸哉の時間がある時しか公園へ来ない為、レアキャラ扱いになっていた。 「お~、じゅんや! ひさしぶりじゃん!」  寄ってきた子供たちに声をかけられ、「じゃ~ん! 登場~!」などとポーズを取って答えている淳哉に、笑い声があがる。周りで見ている母親たちにも笑顔で受け入れられ、お菓子や飲み物を振る舞われる。遠慮の欠片もなくそれを受けて笑顔を返すと、母親たちは眼を細める。  淳哉は、自分の笑顔が他人に与える影響力を自覚しているようだった。 「今日はいっぱいあそべるのか?」 「ん~、五時くらいまで~」 「ごじってなに?」 「Hey, you idiot!」  そんな風に笑い崩れて遊ぶ淳哉を見ると、その度に幸哉はもっと自由をあげたいと感じた。  走り回る淳哉の笑顔は無邪気で、部屋でいつも見せている顔よりずっと輝いていたのだ。母親だけと過ごす閉じた生活は、こんな淳哉の明るさを潰してしまうように感じていた。  徐々に一人で遊びに出るようになったとはいえ、基本的にマンションから出ない親子二人の生活はやはり異様だ。淳哉にもっと子供らしい生活を送らせてやりたい。  それに幸哉には、淳哉を案じる思いと同時に、彼女の世界が淳哉だけになっているのも良くないように思う気持ちもあった。  淳哉の姿が見えないとき、彼女は落ち着かない様子になることがあった。常にではないけれど、居心地の悪さを感じることがあったのだ。  淳哉が保育園から帰る前に幸哉が部屋に行くと、妙に意識されているように感じるときがあり、声をかけるとビクッとしたりする。異性として意識というより、敵を引き入れてしまって怖れている子供のような反応なのだが、それが淳哉の帰宅と共に氷解する。  まったく奇妙なことに、彼女は淳哉と共にいることで精神の安定を保っているようだった。  ゆえに幸哉は保育園へ迎えに行って、共に帰宅するようになったのだが、淳哉もやがて就学年齢を迎える。日本国籍を持つ淳哉には、学校へ通い学ぶ権利があり、彼女にはそれを助ける義務がある。  その時になって拒否反応を示しても遅いのだが、いきなり意識を変えるのは難しそうだ。しかし少しずつでも許容していかなければ、淳哉が小学校に通うとなったとき、彼女自身が困った状態になるのではないか。  幸哉はいろいろと方策を考え、調べた上で、ベストと思える方法を見つけ出したと思った。  保育園の近く、淳哉が通うようになる小学校にも近い位置に、夜間も子供を預かる施設があった。淳哉を預かってくれるかどうかは未確認だが、最初は週に一回程度、そこでお泊りするというのはどうか。淳哉はそこから保育園に通い、友達と遊ぶ。そうして小学校で一緒になる子供と仲良くなれればいい。彼女が懸念する危険に関しては、自分が保育園からの移動に同行することで安心させられるのではないか。  そういった形で徐々に慣れさせていって、週三回ほどお泊りするよう持っていく。淳哉は保育園の近くで友人を作れるし、それで彼女が安定するようなら、小学校に通うくらい問題なくなるのではないか。  彼女はいまだに殆ど外出をしないし、外出する時は顔や体型を念入りに隠す。おそらく母の目に触れることを恐れているのだろうが、そのように警戒心の強い彼女でも、弟のように接してくれる自分であれば、少しは考えてくれるだろう。  だから彼女が安定しているように見えたある日、幸哉は極力何気なく問いを向けてみた。 『一時的にでも、週に何日かだけでもいいから、淳哉を施設などに預けてはどうか』  だが彼女はたちまち顔を強張らせ、妙に光る眼差しを幸哉に向けた。敵意に満ちたその目に、一瞬でこれはまずいと感じ、幸哉は慌てて言葉を連ねる。  最初は週に一度くらいでいい、今のままの閉じこもりがちな状態では友達もできない。淳哉の年頃なら、友達と外で遊んだり触れ合うことが必要じゃないか。あなたも自分の楽しみを見つけるべきだ。父も来なくなっているのだし、閉じこもっている必要はないだろう、仕事をするのも良いし、習い事や買い物に出かけるのもいい。母のことなら気にする必要は無い。自分も及ばずながら協力するから、生活を変えていくべきだ。  そう続けて説得を試みたが、逆効果でしかなかったようで、彼女は幸哉に警戒の目を向けたままキッチンへ走り、包丁を手に戻って刃先を幸哉に向けたのだ。 『私からあの子を奪うの』  低い囁くような声は無意識に出たものだったのだろう。しかし眼差しは危ういほどに美しく脆く見え、初めて彼女から向けられた鋭い敵意に、幸哉は狼狽した。  そうではない、淳哉の為にあなた自身もなにがベストか考えるべきだ。必死に続けたが、彼女は一言も返さずに幸哉に包丁を突き出す。  なんとか身を逸らしてよけたが、あまりに危うい間隔で、少しでも遅かったなら肌を裂かれたに違いなかった。それくらい、その刃先は真剣に幸哉を害しようとしていたのだ。  声もあげず表情は冷めていたが、彼女はひどく興奮して言葉が耳に入らないようだった。どう言えば彼女の興奮を鎮められるか考えたが、突き出される(やいば)は勢いを緩めず、考えはまとまらない。  重ねる言葉は『落ち着いて』『聞いて』と同じ内容ばかりになり、何の効果も無いまま、幸哉は必死に逃げた。  とはいえ、いかに広いマンションであっても逃げ続けるには限界がある。しょうがない、少々乱暴でも彼女を取り押さえ、身動き取れなくしてから落ち着いて話を聞いてもらうしかない、そう考え始めた時、ヘルパーと共に保育園から帰ってきた淳哉が『マミー!』と叫びながら彼女の肘をつかんだ。  まるでネジの飛んだ人形のように彼女の動きが止まる。 『マミー? ぼくだよ。マミー? ぼくがいるよ』  何度も言いながら頬に手を伸ばし、そこを撫で、ひたすら母親の顔を見上げる子供の視線を受け止めてようやく、彼女の目から危うい光が薄れていく。 『マミー? 大丈夫だよ』  淳哉がニッコリと笑って小さな手を精一杯伸ばし抱きしめると、手から刃物が落ち、糸が切れたようにその場にくずおれ膝をつく。そのまま両手で顔を覆う母親の手を外し、ニッコリと顔を覗き込んだ子供は、母親の頬にキスをしながら言った。 『ずっといっしょだよ、ぼくが守るよ。大丈夫だよ』  四歳になったばかりの子供が、母親をあやすように何度も言い、彼女が子供を見返すと、その頃気に入っていた戦隊ヒーローのポーズをして、回し蹴りを披露する。 『ほら! 見て見て! ね? こんなに強いんだよ!』  笑顔でアピールする子供に、ようやく薄い笑みを浮かべた彼女が腕を伸ばす。  抱き締められながら『こわがっちゃダメだよ? ずっと一緒でしょ』と大人びた口を利く淳哉は、幸哉を見てにこっと笑った。 「ユキヤ、お母さんはぼくがいないとダメなんだよ。よわむしだからね」  日本語で言ったその顔は自慢げで、誇らしげでもあった。 「すごいな、淳哉」  呆然としつつ、まだ引かぬ汗を拭いながら言った幸哉に、子供は母親に抱きついたまま言った。 「ひとりぼっちだと、お母さんときどきこわくなっちゃうの。だから守るの」 「そうか、守るのか。偉いな」 「男だからね」  そう言って淳哉は母親をなだめるように背を撫で、頬にキスを繰り返す。 「守ったら大丈夫なの。だから強くなるの」 「大きくなったら強くなるんだね」 「違うよ!」  淳哉は母親から離れ、またヒーローのポーズをしてから、足を高く上げて回し蹴りをした。 「ね? キックじょうずでしょ」  確かに子供とは思えない身ごなしだ。 「……すごいな、練習したのか」  輝くような笑顔で淳哉は「うん!」と頷きながら、母親の傍に戻り抱き締めた。 「走るのも速いよ! ぼく今すぐ強くなるの!」 「……淳哉は強い男なんだな」  幸哉が手を伸ばし、頭を撫でると、「うん! ぼく強いんだ!」と偉そうに言った。  彼女が淳哉を抱き締めながら『愛してるわ、ジュン』と何度も言い、淳哉も言われる度に抱き締め返して『分かってる、ぼくも愛してるよ』と返す。  この親子の、尋常じゃなく強い繋がりはなんだろう。  母親が子供に頼りきり、子供はそれを誇りとして、強くあろうとする。子供にとって母親の存在が自己形成の核となり、母親はただ子供と共にあることで精神の安定を得る。  これは支え合っているということなのかと、疑問に思いつつも、笑顔で見つめ合う二人は、ひどく眩しく見えた。  そしてこの二人を引き離すなど、自分にはできないと思った。

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