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一部 忘れたこと5 幸哉

 幸哉が電話で就職を報告すると、彼女は我がことのように喜んでくれて、卒業したときと同様にあのマンションで祝いの席を設けてくれた。そのとき恋人がいることを伝え、彼女も連れて行って良いかと聞くと、彼女は眉を曇らせた。 「ごめんなさい。私達のことは内緒にして」  とはいえ美沙緒は以前から幸哉があの親子に会いに行っているのを知っている。  以前から大学の同期としての付き合いがあり、互いに顔を見知ってから長いのだ。当然、幸哉の生活の一部を占めている行動は皆に知られていた。無論、どこへ行くのかは知らなかっただろうが、幸哉が頻繁に向かう場所があるのだと言うことは周知のことだった。しかし美沙緖が詳細を知ったきっかけは、また別にある。  美沙緒の誕生日にささやかなディナーを楽しんでいたとき、彼女から電話がかかってきたのだ。淳哉が骨折したと半狂乱の声が響いたので『すぐ行く』と伝え、 「ごめん、用事ができた。僕は行かないと」  上の空で言った声は、心配のあまり上擦っていた。 「これ、受け取って」  落ち着き無くプレゼントの入った包みと代金をテーブルに置き席を立つ幸哉に、美沙緒が戸惑うのは当然だった。  特別なことなどしなくて良いと言ったにもかかわらず、「誕生日なんだから」と幸哉が半ば強引にディナーに誘ったのだ。しかも美沙緖には電話から漏れた彼女の叫ぶ声が聞こえていた。 「いったい誰? なにをそんなに慌ててるのよ」   しかしそこに思い及ばず、ただ「急ぐから、ごめん」とだけ言って、幸哉は店を駆け出た。  タクシーを走らせ病院に駆けつけると、淳哉は骨折と言っても腕にひびが入っただけで他に異常はなく、ぴんぴんしている淳哉と二人で彼女をなだめる方が大変だった。  なんとか落ち着いた彼女と淳哉を伴ってマンションへ帰り、 「なぜ父ではなく僕を呼んだの?」  幸哉が尋ねると 「いきなり電話なんてできないわ。彼に迷惑をかけてしまう」  そう薄く笑ったのみだった。 「タカオなんていなくてイイよ! ぼくが守るんだから!」  偉そうに言った淳哉には「なら怪我なんてするな」ときつく叱ったけれど、今日は帰ると伝えてマンションに泊まらず家に帰って、父の帰宅を待った。  出迎えた父は、待ち構えていた幸哉に怪訝な顔をしつつ自室に入り、人払いをした。そこで今日の出来事を父に説明したのだが 「そうか。世話をかけたな」  眉ひとつ動かさず、極力くちも動かさないでおこうとしているかのように、父はそれだけを言った。 「今回はそれほどでも無かったから良かったけど、緊急の時の連絡先くらいちゃんとしておいたらどうですか」 「考えておく」  それだけで部屋に引きこんでしまった父とはそれ以上会話できず、母や兄に知られるわけに行かないと思えば騒ぐこともできない。彼女へ連絡をしたら、父から連絡が来たと嬉しそうに言われ、悶々として一夜を過ごす。頭も心も忙しくて、美沙緖のことを思い出さなかった。 「昨日のアレはどういう事? 女の声だったわよね」  なので翌日、幸哉を捕獲した美沙緖から地の底を這うような声で言われ、非常に焦った。  その表情にも心底びびって、「誰にも言わないで欲しいんだけど」と付け加えつつ全てを話してしまった。  その中で、母親や父親より、あの親子の方に親近感を感じている、と言い、 「できることがあるなら、なんでもしてやりたいと思っている」  と言った幸哉に、美沙緒はにんまりと笑って言ったのだ。 「なによ。平和ボケのボンボンかと思ってたけど、意外といい男じゃない」  その時幸哉は、この女には一生勝てないだろう、という予感を覚え、同時に生涯そばにいるのはこの人なのだろう、とも思った。  予感通り、それ以降も交際は順調に継続し、幸哉は就職が決まってANESAKIに入れという攻撃が止んでから美沙緖にプロポーズした。 「これからもぼくの傍にいて欲しい。結婚してくれる?」  緊張しながら指輪を差し出した幸哉に「もちろん」と即答してくれた美沙緒の手を握り、死ぬまで一緒にいようと誓い合い、非常な喜びと深い安心感を抱いた。  とはいえ障害が無かったわけではない。  親族と母から、美沙緒では家の格が合わないと何度も翻意を促され、幸哉には見合いの話が何度も持ち込まれた。しかし頑として受け付けずに、幸哉は美沙緒の両親に会いに行き、迷惑をかける可能性も説明して「美沙緒さんと結婚させて下さい」と頭を下げた。  その一方で、幸哉は母や祖父母、親族を根気よく説き伏せ、顔合わせなど面倒な手続きを経ることを厭わなかった。そうして昨年ようやく結婚式を挙げたのだが、家の兼ね合いもあり、盛大なものとするしかなかった。  そういった事情で式の準備には酷く手間がかかり、それに加えて始めたばかりの仕事も覚えるべきことが満載で忙しく、親子には全く会いに行けなかった。  淳哉の五歳の誕生日に、マンションでささやかなパーティーを開くと連絡が来たが、どうしても時間が取れず、幸哉は行けなくて済まないというメッセージと共にプレゼントを贈った。以前から欲しがっていた、子供用のグローブだ。大喜びではしゃぐ写真付きで、お礼のメッセージは受け取っていたが、それに返信するのが精一杯で、幸哉から連絡することはほとんどできなかった。  プロポーズの直後から、一緒にあのマンションへ行こうと常々美沙緒と話していたが、式の前は多忙すぎ、結婚以降も親族の目が煩わしいのと互いの仕事の休みが合わず、つい延び延びになっていた。  メールや写真のやり取りこそ継続していたものの、顔を出す機会は減って、なかなか淳哉と遊んでやれなくなっていた。  けれど先日、美沙緒が懐妊していることが分かった。深い悦びと共に父母や親族に報告すると、それまで美沙緒に対してはいささか不満げだった彼らも祝福してくれた。  幸哉はあの親子にも早く伝えたいと思い、美沙緒にもあの親子と早く逢ってもらいたい、と焦る気持ちが湧いた。  以前、美沙緒を連れていくことを聞いたときには拒否されたが、結婚し子供が出来たのだから以前とは違うのではないかとも思えた。  ただ急がなければ、という気持ちが、その頃幸哉を責め立てていた。  なぜかは分からない。  幸哉はなんとか時間を作り、あの日、久しぶりに彼女と淳哉のマンションへ遊びに行った。  後に幸哉は、何度も考えて自分を責めたのだが、美沙緖にもあの親子との繋がりを、どうしても知って欲しかったのだ。実の家族には決して言えないことだったからこそ、なおさら妻や子供には分かって欲しいと思ったのはワガママだったのだろうか。  あれは何かの巡り合わせだったのか。  あるいは幸哉を補足して狙っていた何者かがいたのか。  それは分からないことだし、(あば)いてはいけないことのように思ってしまうのだけれど。

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