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一部 忘れたこと6 グローブ

 マンションへ行くと、彼女は『久しぶりね』と笑顔で迎えてくれ、幸哉も笑顔で無沙汰を詫びる。  招かれてソファに腰を落ち着け、紅茶とお手製のクッキーを饗されて礼を言いつつ、美沙緒の懐妊と逢いたいと言っていることを告げると、彼女は深い笑みと共に心のこもったハグをした。 『ユキヤもお父さんになるのね。私もその人に逢いたい。ぜひいらしてとお伝えして』  幸哉は安心して、美沙緒も喜ぶと伝えた。  そのまま近況など談笑していると淳哉が保育園から帰ってきて、顔を見るなり「ユキヤ!」と満面の笑顔で飛びついてきてくれた。 『ダメよジュン、まず手を洗って』 『OK、分かってるって』  淳哉はそう言って大人びた仕草で肩を竦め、首を振った。 「ユキヤ待ってて。お母さん、うるさいの」  幸哉は思わず吹き出してしまった。仕草は妙に大人びているのに、日本語は幼かったからだ。  手を洗って戻って来た淳哉が『マミー、ココア!』などと偉そうに言うなりクッキーに手を伸ばし『行儀悪いわよ』と怒られるのを微笑ましく見つめる。やはりこの親子を見ていると、幸せな気分になった。  会話を聞いていると、英語で交わされるそれは、まるで対等な大人同士のようだった。内容だけ聞いていると、淳哉がまだ五歳であることを忘れそうになるほどだ。しばらく会わないうちに背もかなり伸びたし、ずいぶん大人びた口を利くようになった、と幸哉は思った。  彼女が理解出来ないので、会話は英語なのだが、ときおりわざと内緒話を日本語で幸哉に振る。それは普通に幼児の言葉遣いで、めまぐるしいほどの切り替えようだったし、ずいぶん語彙が増え、日本語の会話がスムーズになっている。 「ずいぶん日本語がうまくなったな」  感心してそう言ったが、当たり前のように返った「だって保育園はぜんぶ日本語だよ?」と笑われた。しかし保育園へ通っていると言っても毎日では無いはずだし、二年ほどでここまで覚えるものなのか。 「凄いな淳哉」  淳哉は自慢げにニッコリ笑い「すごいでしょ」と胸を張った。ほんの幼い頃から妙に偉そうで自信満々だったのが相変わらずで、むしろ安心してしまう。  誕生日に贈ったグローブはどうだと水を向けると、うまく使えない、と悔しそうにする。 「じゃあ教えてやろうか」  と言ってやると目を輝かせた。それにまた笑ってしまいつつ、彼女の了承を得て外へ出た。  いつもマンションの壁とキャッチボールしているというので、少し足を伸ばして河原へ行く。淳哉はワクワクとした表情で目を輝かせていて、簡単に球の受け方などを教えてからキャッチボールを始めると、最初こそたどたどしい身振りをしていたが、少しずつコツを教えるとみるみる上手になっていく。  「ざんねん!」「惜しい!」とかけていた声が「いいぞ」になり、「凄いな!」「いい球だ!」と変化していき、次は少し遠くまで投げようと離れた位置に立っても、すぐにコツを掴んだらしく、ちゃんと胸元に玉を返してくる。  幸哉も楽しくなったが、それ以上に淳哉は夢中になったようだった。投げるごとに熱が入る淳哉とは逆に、そろそろ疲れたな、と思って辺りを見ると、夕日も沈みそうな時刻で、空は薄暗くなっていた。 「そろそろ帰ろうか」 「もっとやる!」  と頑張る淳哉に、苦笑しながら言った。 「お母さんが心配するよ。もう帰ろう」  淳哉はハッとしていきなり「早く帰る」と走り出し、振り返って「早く!」と幸哉をせき立てた。その表情は真剣で、微塵も疲労を感じさせない。エネルギッシュな子供のパワーに押される気分を感じながら、二人でマンションまで走った。  部屋に戻ると、淳哉は蹴るように靴を脱いで部屋に駆け入った。慌てた様子を微笑んで見遣りつつ、幸哉は鍵を閉めて、ゆっくり靴を脱いでいた。すると悲鳴のような『お母さん!』という叫び声が聞こえた。  その声に尋常ではないものを感じ、何事かと慌てて部屋に駆け入る。 「淳哉!」  呼ぶ声にいらえは無く、彼女も淳哉もリビングにはいない。だが……ゾッとした。  ついさっきまで、温かい雰囲気に整えられていた部屋が、いつも神経質なくらいきちんとしている彼女とは思えないほど、乱れていた。  テーブルや椅子、ソファなど家具の位置がずれて、食器がいくつか床で割れている。それ以外にも様々なものが床に散乱していた。  なにが起こったのだ?  分からないまま「淳哉!」ともう一度呼んでも答えは無い。  嫌な予感に冷たい汗をかき、「淳哉!」声を上げながら他の部屋を探した。扉が開いたままの寝室に飛び込んだ幸哉は、目に飛び込んだ光景に愕然として声を失った。  ベッドに縋るように倒れている彼女の、胸元から腹部が赤黒く汚れている。閉じた瞼や唇が青白く、頬やくちもとには赤い……血の汚れが……  なんだ、なにが、いったい  わんわんと騒がしく叫ぶような、頭の中に響く音。  なんの意味も無いそれを振り払おうと目をギュッと瞑り、頭を振る。  落ち着け、と自分に言い聞かせる。  目を開けると、彼女の傍に膝をついた淳哉の後ろ姿が、ようやく目に入った。  彼女に片腕を伸ばした形のまま、手首から先が力を失ったようにだらんと下がる、その手は赤く染まっている。目がこぼれ落ちそうなほど見開いて、唇が小刻みに震え、膝がジリジリと前へ動き、そして怯えたように元に戻る。  自失していた自分を恥じながら、幸哉もその横に膝をつく。 「……淳哉」  くちから出たのは、それだけだった。  いや、自分まで呆然としていてはいけないと自分に叱咤しながら、幸哉はおずおずと彼女に触れた。少し揺すってみても、うめき声一つあげず全く動かないけれど、身体には温もりがあり、細く呼吸もしているようなので、死んではいないと自分に言い聞かせ、まず救急車を呼んだ。住所を伝えると詳細を聞かれたが、血がどこから流れているのかも分からず、幸哉は狼狽する自分に落ち着けと言い聞かせながら、帰宅したら部屋が乱れて寝室で倒れていて、胸や腹から血が、としか伝えられなかった。  美沙緒に電話すると「私も行く、場所を教えて」と言われたが、来る必要はないと言った。こんな物騒な場所へ、身重の美沙緒を来させたくはなかった。  父には連絡が取れず、いつもそばにいる秘書に電話して連絡をよこすように伝言を伝えることしかできなかった。  それを終えて幸哉は、淳哉が倒れた母親を見つめたさっきの姿勢のまま、微動だにしていないのにやっと気づいた。眼球が飛び出そうな程見開いた目は、まばたきひとつしない。  今更かと思いつつ、子供の目を閉じさせ、手で覆った。  こんなもの、子供が見てはいけない。それだけがハッキリと意識にあった。ひどい喉の渇きを感じながら、子供を抱き締める。  狼狽して、子供を気遣うことが出来なかった自分が悔しかった。  救急車が来るまで、ひたすら抱き締めて声をかけた。それは「大丈夫だ」とか「えらいぞ」とか「大丈夫か」とか、意味のあるとは思えない言葉ばかりだったけれど、そうでもしないと幸哉自身がおかしくなりそうだった。  しかし淳哉の子どもらしく体温の高い身体は、いくら抱き締めても声をかけても、微塵も動かなかった。それでも、淳哉を抱き締めることで、その怖ろしく速い鼓動を感じることで、幸哉はなんとか正気を保っていた。

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