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一部 忘れたこと7

 救急隊員が到着し、彼女を取り囲んでも、なすすべ無く淳哉を抱き締めて、聞かれたことにひたすら「分かりません」と答えていた。  彼女はすぐに運ばれて救急車に乗せられ、動かない淳哉を抱いたままそれに乗って病院まで来る間、怪我は刃物によるもので内臓に達している可能性があり、出血も多いため危険な状態と聞かされる。  これ以上の感情の動きは無いと思っていたのに、また愕然とする。  移動式のベッドに乗せられた彼女が手術室へ運ばれるのを、小走りになりつつ淳哉の手を引いてついていった。淳哉は足を動かしていたけれど、瞼を半ば閉じて声も出さなかった。  ベッドが吸い込まれたドアが閉じて『手術中』のライトが点灯し、呆然とそれを見上げ、そのまま立っていると、看護師に親族待合いの部屋があると言われた。しかし淳哉は手術中のライトを見上げたまま頑として動かない。握ったままの手は、汗ばんだ自分の手に包まれているのに冷え切っていて、真っ青な無表情がこの子らしくなく、それにも幸哉は怯えた。 「せめて座って待とう」  何度もそう言って手を引いたが動かない。しかたなく淳哉を抱えたが、子供は抗うでもなく、少し離れたベンチへ抱いたまま座ると、ようやくもがいて隣に座り、手術中のライトを見上げた。  無機質な明かりの下、静まりかえった廊下は生命を感じさせない冷たさに思え、ライトを見上げる子供の横顔も作り物のように白い。動いたと思って一瞬安心したが、座った淳哉は床に付かない足を揺らすこともなく、膝の上で小さな拳を握り締めて動かなくなった。拳にも肩にも強い力が入っていて、まったく緩まない。  淳哉は、母親の姿を見て叫んで以来、声を発していない。救急車の中でも、何度話しかけても、淳哉は真っ青な顔で唇を噛み締めるのみだった。  ずいぶん前に、母親を守ると誇らしげに言っていた顔を思い出して切なさのあまり胸が痛くなり、涙が滲みそうになって目を瞬きながら俯き、子供をい視界から遠ざける。  どれだけショックなのだろう、ものも言えなくなるくらいの衝撃であるのだろうとは思う。  なんとかしてやりたい。  それは激情に近い強さでわき上がった思いだが、どうしてやればいいのか分からない。  空調は完備しているのだろうが、自分のふがいなさに指先がかじかんだように痺れている。このままではいけないと思うが、ただ隣に座って、それだけなのか?  親子のためになんでもしてやりたいと、そう思っていた自分はどこにいった?  暖かい家庭を持つのなら、その家族を守れなくてどうする? 「大丈夫だよ」  必死に自分を励まして、なんとか発した声は震えてしまっていた。  子供が耐えているのに自分が耐えられなくてどうする、そう自分を励まして 「大丈夫だ、たぶん」  もう一度声をかけたが、やはり子供は動かなかった。  正直、幸哉自身も叫びだしたい気分だった。  彼女を救うことも少しでも楽にするようなことも、なにもできずにここにいる自分が、歯がゆくてたまらないのは事実だが、それだけではない。救急車で聞いた言葉が頭から離れないのだ。  刃物で刺された、ということは、誰かが侵入して彼女に危害を加えたのだろうか。今日、自分が行かなければ、こんなことは起こらなかったのだろうか。けれど遊びに連れて出なければ、淳哉まで被害に遭っていた可能性だって……そうだ自分は間違っていない。  問題は、その先だった。  誰がこんなことを、と考えが進み、そこで浮かぶ一人の顔に、その度ごとに戦慄してしまうのだ。  なぜならそのとき浮かぶのは、――――母の顔だったから。  いや、まさか。狼狽(うろた)えて首を振る。  全く無関係な物盗りかも知れないだろう。彼女が美しいがゆえに、危ない男に目を付けられたのかも知れない。親子のことが母にばれたなど聞いていないし、そもそも発覚していたとして、あの母がそんなことをするだろうか。いや、ありえない、と幸哉はまた首を振る。何でも人任せなあの母が、自ら手を汚すなど…………  ――まさか  ――ひとを雇った?  ゾッと背筋が凍り、いやいやと首を振ってみても懸念は消えない。  頭を駆け巡るのは、そんなことばかりで  だからふと、微かな音に気づいて視線を動かしたときも、幸哉にはまったく余裕など無く、それがなにか気づいて激しく自分を恥じた。  少しずつ吐き出し、ヒュッと吸い込む……それは微かな呼吸。  膝の上で関節が白くなるほど握られた拳が目に入る。  こんな子供を気遣う余裕もなく、自分の考えに没頭していたなんて。今更のように肩に手を回すと、小さな身体は小刻みに震えていた。 「ぼく強いんだよ」「ぼくが守るの」  引き離すことなど出来ないと思ったほどの強い繋がり。母親が全て。  そんなこの子から母親が奪われてしまったなら。  動揺している場合では無いと自分に言い聞かせ、身震いしてしまうのを抑えようと努力しながら淳哉の肩を撫でる。  すると体がピクリと痙攣したように動き、子供は深く息を吐き出した。その息に乗るように、微かな音が聞こえた。 『ぼくが……』  英語だった。  母親が倒れるのを発見してから、初めて聞いた、泣いているように震えた、蚊の鳴くように細い、淳哉の声。  いつもの元気な声とはまるで違っている。そうだ、この子がどんなにショックか考えなくとも分かるだろうに、自分は何をしている。 『ぼくが、守る……』  幸哉は慌てて顔を覗き込んだ。  いつもきらきらと輝いている瞳が、何も映さないかのように虚ろで、瞼が半分落ちている。顔色は真っ青で、きつく眉を寄せていた。幸哉は心臓と胃を鷲掴みされたような感覚にきつく眉を寄せ、息を吐き出した。淳哉の肩にある手に、おのずと力が籠もる。  震える息を吐き、泣きそうに顔を歪めているのに、淳哉は涙を流してはいなかった。こんな時まで頑張る子供が辛くて、幸哉は震えそうになる声を抑えながら声をかける。 『……泣いていいよ』  そっと言ったのに、淳哉はゆっくりと頭を振る。 『ぼくが泣くと、お母さんも泣く』 「……淳哉…」 『ぼくは、守る。お母さんを、守る』  幸哉は目頭が熱くなってくるのを堪えるのが難しかった。しかし子供が耐えているのに自分が泣くわけにはいかない、と必死に耐える。 『怖いなら、泣いてもいいんだ。大丈夫、僕の他は誰も見ていない。お母さんも見てない』  歯を食いしばりながらそう言うと、子供はゆっくりと幸哉を見上げた。  精一杯の笑顔で、日本語で、幸哉は言った。 「泣いていいんだよ、淳哉。お母さんは居ない」  頭を撫でると、噛み締めていた子供の唇が歪んで、ようやく表情が変わった。  ぽろり、と大粒の涙がこぼれる。 「そうだ。いっぱい泣けよ。お母さんも頑張ってるんだ。帰ってきたときに笑ってあげれば良い」  次々と雫が溢れる。  あっという間に淳哉の顔は涙まみれになった。呼吸が荒くなり、肩が痙攣様に動く。なのに泣き声はいっさい漏らさない。 「我慢するな。泣いていいって言っただろ」  そう言った幸哉の方が、涙声になっていた。 「いやだ」  けれど返った幼い声は、震えてはいたけれど、子供とは思えないほど、強い声だった。

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