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一部 兄とマウラ-5

「彼女は命を取り留めたけれど、入院が必要でした。淳哉は手術が終わるまで、ろくに口も利かなかったけれど、手術が終わり、もう大丈夫と医師に言われて安心したのか、その場でコトンと眠って」  幸哉は溜息を吐いた。マウラも誘われたように息を吐く。 「夜中になってようやく父が来ました。美沙緒に病院を聞いた、仕事が、と言い訳を始めそうだったので僕は聞きたくないと言いました。『淳哉をどうする』と言った、その言い方があまりに事務的で他人事(ひとごと)で、私は自分が預かると言いました。結婚してから僕は実家を離れていたので都合が良いのもあったし、父になにもできやしないことも分かっていた。実際、そう言うとホッとしてましたしね」  そう言って幸哉は苦く笑い、カップを手にとって口を湿した。コーヒーはもう冷めていたが、一気に飲み干す。 「あなたの懸念について、お父様には話さなかったの?」 「言いませんでした。おそらく、父も思いついていたでしょうから」  マウラは眉間に皺を刻んだまま、無言で頷いた。 「私は眠ったままの淳哉を抱いて家に戻り、やっと目を開けた淳哉に美沙緒を紹介しました。美沙緒は淳哉を抱き締めて、自己紹介をしてから食事を取らせ、一緒に入浴して眠らせた。美沙緒がいてくれて、本当に助かったと思いました。  夜のうちに二人で話し合い、淳哉を保育園に通わせることはできないと結論を出しました。どこに危険があるか分からないと考えると、保育園はあまりに脆弱(ぜいじゃく)だ。他の子供に危険が及ぶ可能性もある」 「なるほどね。……だから急いだのね。その必要があると感じたのね。そんなことがあったから……」  ため息混じりに呟く声に、幸哉は声無く頷いて続ける。 「淳哉は……強い子なんです。翌朝目覚めた時はもうニコニコして、元気に振る舞っていた。けれど元気そうにしても、実は違うだろうというのは考えなくても分かる。  そんな子供を部屋に一人でいさせるなんて可哀想だ、そう話し合って美沙緒と交替で休みを取り、常にどちらかが一緒にいるようにしました。美沙緖は産休を早めにとって家にいてくれるようになったんですが、それでもなるべく家に居るように心がけました。  正直、美沙緒と淳哉だけの家に何者かが来たら、と思うと、仕事なんて手につかなかった。ですがしばらくして、淳哉はもっと強くなると言いだしたんです」  マウラが怪訝な眼差しを幸哉に向ける。幸哉は苦笑して続けた。 「もっと強くなって母親を守らなければならない。淳哉は私ではなく、美沙緒にそう言って、強くなる練習をしたいとせがんだそうです」 「……そう」 「いう通りにしてやることで淳哉が楽になるなら、と考えて、美沙緒は淳哉の希望通りに付き合ってやった。二人で色んな道場やジムを訪問し、淳哉は合気道を習い始めました。空手やボクシングだと、強い大人に勝てるまで時間がかかる。合気道は女性や子供でも大人の男に勝てる。そう言われて決めたそうです。私は習い始めてからそう聞かされました」 「なぜあなたに言わなかったのかしら……」  マウラの疑問に、幸哉は苦笑を返した。 「美沙緒は聞かれたそうです。『ミサオはユキヤの奥さんだから、ユキヤの味方?』美沙緒が『私は私自身の味方よ』と答えたら、淳哉は安心したように話し始めたと言っていました」 「あなたを疑っていたということ?」 「私が遊びに行って、グローブの話をしたから出かけてしまった。その隙に母親が襲われた。だから自分が守れなかった。そう考えていたようです。私が彼女を襲った犯人と繋がりがあるのではないか、と。……淳哉も必死に考えたんでしょう」  やりきれない、といった表情で首を振り、マウラは額に手を当てた。 「……ねえ、犯人は…」 「三日後に逮捕されました。近所で彼女を見かけて尾行し、住まいを確認した。彼女をイイ女だと言い、自分のものにしようと考えたが、抵抗したので刺した。犯人はそう供述したと聞いています。信じてはいませんがね。彼女は驚くほど慎重だった。ゴミ出しでさえ自分ではしなかったんです。淳哉を身ごもってからは、父と外出する時でも顔や身体の線を隠していたと聞いている。通りすがりの男がそんな彼女を見つけられるわけがない」  マウラは深い溜息を吐いて、幸哉に促す眼差しを向けた。 「意識を取り戻してから、彼女が精神的に追い詰められた状態であることが判明しました。鬱の症状も顕著で、子供と二人では自宅療養も難しい。そもそもあの部屋は危険だが、この状態で生活環境を新たに築くのは無理だ。そういった事情もあったので、私が入院費を負担するということで話をつけ、怪我が治っても入院は継続されることになりました。厳重に管理されたフロアの特別室へ移して、お母さんは病院にいる限り安全だと伝えると、淳哉も納得したようでした。不満そうではありましたけどね。もっとも、母親の前でそんな顔は一切見せなかった」 「本当に、ジュンは頑張っていたのね」 「ええ。……淳哉はいつだってニコニコと元気そうに振る舞っていた。ただ、美沙緒の前では弱音を吐くこともあったようです。泣いたりはしなかったようですが。……美沙緒も、詳しくは話してくれないので」 「あなたは素晴らしい配偶者を手に入れたようね。心から祝福するわ」  幸哉は嬉しそうに笑んで頷き返す。 「ありがとう。私もそう思っています。美沙緒は私には過ぎたひとだ」 「過ぎた、ですって?」  マウラは肩を竦めて両手を広げ、眉を寄せて頭を振る。 「彼女を誇るなら、その人に選ばれたあなたも自分を誇るべきよ。ミサオもそれを望んでいるはず」 「ですが日本ではよく使う言い回しです。……それに私には、自分を誇ることなんてできません」 「なぜ?」 「……迂闊で、弱くて、愚かだからです」  幸哉は苦笑して言った。  マウラは眉を寄せ、小さく溜息をついてから先を促した。

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