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一部 忘れたこと8

 保育園に通わなくなった淳哉は、美沙緒と二人で道場へ行く以外、外に出ない。母親を見舞うことすら避けるようにした。  あの日、暴漢がマンションに押し入ったのは、もしかしたら幸哉を尾行したのではないか、と考えられたからだ。であれば今も幸哉の家を見張っている者がいるかもしれない。ここから彼女の病院へ通うことで居場所を特定されれば、また襲われるかも知れない。 「お母さんに会いたい」  そう言う子供に、母親を守る為だと説明すると、悔しげな顔をしながらも頷いたが、納得はしていないようだった。  その代わりのように、淳哉はトレーニングめいたことを家の中でするようになった。  習い始めの合気道の型を練習していたかと思うと、いきなり部屋中を走り回る。驚いてなにごとかと聞くと 「ランニング」  なにをふざけてるのかと思い、しかめ面で注意する。 「うちの中でそんなに走り回ると危ないよ」  なのに淳哉は大真面目な顔で返した。 「だって、外でないと弱くなっちゃう」  面くらったが、本気で言っていることは分かった。  けれど新婚生活を過ごすために借りた新居は2LDKで、さほど広くなかったのだ。走り回れば家具などにぶつかり怪我をしたし、色々落としたり蹴っ飛ばしたりして部屋がめちゃくちゃになってしまう。  とうとう幸哉はランニングマシーンを購入した。  ベビーベッドなど、子供の為の家具を揃えた家の中に、でんと存在感を主張するそれには違和感があったが、淳哉はそれで走るようになり、追いかけて部屋を片付ける必要は無くなった。  それ以降は型の練習をしたり、マシンで走りながら英語のチャンネルでアニメやドラマを見ることで、殆どの時間を過ごしていると美沙緒から聞いた。  実際、幸哉が帰宅すると淳哉はたいてい走っていて、ほうっておくとずっと走り続けている。汗びっしょりになると水分をとって、着替えもせずにまた走る。  いいかげん休ませようとして、 「もう疲れただろう、今日は終わりにしよう」  声をかけても、ニッと無理の見える笑い方をして「平気」と言うだけで黙々と走り続けている。  時々インターバルを取る方が効果的だと言ってみても聞く耳を持たない。なんとか休ませたくて「僕もトレーニングをするからどけろ」と言っても「いやだ」と首を振るばかりで、真剣な表情には鬼気迫るものすら感じた。  本当は抱き上げてでも強制的にやめさせたかった。  しかし一度、実際に抱き上げた時、淳哉はむちゃくちゃに暴れて奇声を上げ、それでも離さないでいると、裏返った声で叫んだ。 「ぼくにさわるなっ!」  驚いて取り落とした幸哉に敵意に満ちた目を向けて、裏返った声でまた叫ぶ。 「力強いからって、ばかにするな!」  子供が自分の非力を憎んでいるのではないかと思えば、大人の力を行使するのが忍びなく、それ以来、幸哉は力任せに抑えることができなくなった。  淳哉はかつて言っていたのだ。 『ぼく今すぐ強くなるの』  あの時の誇らしげな顔を思い浮かべ、まさしく今、この子供は少しでも強くなりたいと頑張っているのだろうと察すれば、いじらしくて涙が出そうになるだけだった。  幸哉は、そんなに焦るな、と言ってやりたかった。焦らなくてもいい、少しずつ強くなればいい。それまでは守られていても良いんだ。  言わなかったのは、鍛えたがっていることは美沙緒と淳哉の間の秘密で、幸哉は知らないことになっていたからだ。余計なことを口にして、美沙緒と淳哉の信頼関係を壊すのはまずいと感じていた。今、淳哉が少しでも心を開いているのは美沙緒だけなのだ。その唯一を奪いたくない。  かといってそのままにはできず、幸哉は仕方なく強い語調で言うしかなかった。 「誰が買ったと思ってるんだ。これは僕のものだから僕が使う。分かったらそこをどけろ」  それでようやく淳哉は、しぶしぶながら場所を譲る。そうして幸哉が走ることで淳哉を休ませるしかなかった。  幸哉が汗を流す間も、子供は次は自分だとばかりにじっと見ている。けれど待っている間に美沙緖から飲み物や食事を与えられ、風呂に入ると身体を洗う間も待てずにコトンと眠ってしまう。  日がな一日、子供には過重な運動をしているのだ。くたくたに疲れ切っているに違いなかった。  淳哉が眠って、幸哉はやっと自主的ではなかった運動を切り上げることができた。死んだように眠る淳哉を布団へ運ぶと、朝までぐっすりと眠っている。  その時だけは安らかに見える寝顔が切なかった。  そんな風に張り詰めた気を発散する子供との生活も、三ヶ月を過ぎれば、正直きつくなっていた。美沙緒の体調も気になったが、妻は「あら、大丈夫よ」と笑って教えてくれた。  美沙緒がお腹をさすりながら「赤ちゃんがお兄ちゃんを心配してるよ」というと、淳哉は素直に従うのだそうだ。 「お兄ちゃんがご飯食べないと、赤ちゃんも心配で困るって」 「お兄ちゃん、お風呂に入らないと、赤ちゃんに臭いって言われるよ」  そんなバリエーションを使って、美沙緒は淳哉を操縦しているようだった。 「お兄ちゃんって言われると弱いみたいね」  と美沙緒が笑っているので、どうやら淳哉は自分にだけ反抗するらしいと分かったけれど、幸哉は安心しつつも寂しさを感じ、そして後ろめたい気持ちが湧いてきた。  自分が最も淳哉を分かっていると思っていたのに、自分を受け入れない。それは子供の鋭い感覚で、幸哉の醜い心を見通したからではないか。  幸哉は最近、なにを言っても「いやだ」と反抗する淳哉が、疎ましくなってきていた。  本当なら美沙緒と二人、生まれてくる子供を楽しみに、最後の二人きりの時間を過ごすことができたはずなのだ。仕事も多忙であったし、家に帰ったらリラックスしたかった。  もちろん、淳哉には何の責任もないと分かっている。うちで預かると父に言ったのも自分自身だ。自分で選んだことなのだから、淳哉に苛立ちを覚えるのは間違っている。  けれど頭で分かっていても、湧いてくる感情を抑えるだけで精一杯になっていた。

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