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一部 忘れたこと9

 日ごと大きくなる美沙緒のお腹を、淳哉はしきりと触れたがった。 「早く出ておいで、赤ちゃん」  語りかけながらお腹を撫でる淳哉は、とても優しい笑みを浮かべていた。  美沙緖に呼ばれて幸哉が一緒に撫でても、そのときは淳哉も無理の見えない笑顔で幸哉を見る。  それに幸哉も美沙緖も、救われたような気分になった。  やがて美沙緒は出産し、元気な男の子の誕生に幸哉は深い悦びと感動を味わった。  そして淳哉も、出産に立ち会った。部屋に一人で置いておくことなど出来なかったし、病院内で放置することもできなかったからだ。  そのため幸哉と共に陣痛室へも分娩室へも入り、出産の一部始終を見届けて、何かを感じたようだった。  臍の緒を切って、赤ん坊が産声を上げるのを、眩しいような目で見つめていた淳哉は、 「ミサオはすごいね。あんなに痛そうだったのに」  呆けたような顔で呟いた。 「そんなことない。いっぱい騒いじゃったし」  まだ汗も引かない美沙緖は、疲れ切った顔に笑みを浮かべて首を振る。 「だから、私がすごいなら、お母さんはみんなすごいんだよ。淳哉のお母さんもね」 「……そう…かぁ。お母さんも、ぼくを産んでくれたんだ。……あんなふうに……?」 「そうよ。だから子供はみんなお母さんが大好きなの」 「……うん」  ニッコリと笑んでいる美沙緒の汗を拭いながら、幸哉は淳哉を見つめていた。 「……そうかあ……」  声を漏らしつつ、清められて乳児用ベッドに置かれた赤ん坊を、ビックリしたように見ていた淳哉に 「撫でてごらん」  美沙緖が声をかけると、おずおずと手を伸ばし、そっと頬をつつく。  後処理を終えた美沙緖と赤ん坊が病室へ運ばれ、しばらく握られたままの指をゆらして、別の指で頬をつついた。  病室に移動して、「眠い」と言った美沙緖に「眠りなよ、見てるから」と言って眠らせ、淳哉と二人、ベッド脇に椅子を並べて座った。  淳哉は手を伸ばし、赤ん坊の小さな手に触れる。玩具のような手が指を握ると、目を見開いて指を揺らし、いつのまにか自然な笑みを浮かべていた。  その顔は、以前良く見せていた元気なニコニコ顔ではなく、このところ幸哉に見せる無理した笑いでもなく、少し眼を細めた優しい笑みだった。  美沙緖は淳哉の母親が入院している病院で出産した。  全くの偶然なのだが、自宅の近くの総合病院に美沙緖は通っており、救急車もそこに彼女を運んだのだ。  なので美沙緒と赤ん坊を見舞うと、ついでに母親の病室へも顔を出した。  久しぶりに逢えた母親に、淳哉は赤ん坊について熱心に話し、彼女は目を細めて聞いている。  いつも身ぎれいにしていた彼女の、髪も乱れやつれた様子には心が痛んだ。それでも淳哉がいるせいか、嬉しそうに話を聞いている。 『赤ちゃんは可愛い?』 『ううん。なんか真っ赤で皺っぽくて、あんまり可愛くない』 『そう。でもすぐ可愛くなるわよ。ジュンもそうだったもの』  微笑んだ母親に、ハッとした顔を向けて、すぐニッコリ笑い、淳哉は言った。 『お母さん、ぼくを産んでくれてありがとう。とっても大事だし愛してる』  そう言って母親をハグし、頬にキスをすると、彼女も抱き締めて声無く涙を零す。  涙に気づいて手でそれを拭いながら、淳哉は悔しげに言った。 『お母さんはぼくが守る。……まだ弱くてごめんなさい』  首を振る母親の頬にキスをして、子供は囁いた。 『強くなる練習してるんだよ。もっと頑張って守れるようになるから、もう少し待って』 『ありがとう、ジュン。あなたを愛してる。信じるわ』  また涙をこぼした彼女の涙を手のひらで拭い、目元に、鼻先に、キスを重ねながら、淳哉はクスクス笑う。 『ほんとに泣き虫なんだから。せっかく逢えたのにダメだよ?』 『そうね、ジュン。もう泣かないわ』 『本当に? ひとりになったら、また泣くんじゃないの?』 『泣かないわ』 『うん、がんばって泣かないでね? ぼくも頑張るから、約束だよ』 『約束するわ』  それはまるで恋人の語らいのようだった。  誰も入り込めない、夢のように美しかった親子は、一人はやつれ、一人は疲れた顔をしていたけれど、やはり二人きりの世界に入り込んでいるようで。  その場にいた幸哉の姿など、二人の視界には映っていないようだった。  幸哉は子供に稀哉(まれや)と命名した。ラテン語で海を意味するmare(マレ)に、姉崎の男なので哉の字を付けたのだ。  その稀哉を出産してから、美沙緒は母から呼び出され、言い含められていた。 「息子を産んだことで、あなたもきちんと姉崎の家の者になったのだから、家の為になることを心がけて頂かなくてはならないわ。幸哉は素直で良い子だったのに、いつのまにか良くないものに触れているようなの。あなたからも言って聞かせてちょうだい。そして何か分かったら全て私に報告なさい」 「お母様にそう言われたの。ねえ、どうするのが一番都合良い? なにを仰いますやら、ってつっぱねた方が良い? それとも従ったフリして二重スパイでもする?」 「面白がるなよ」 「面白がらなくてどうしろっていうの? 真剣に考えてたらお乳の出が悪くなっちゃうわ」  申し訳なく思いながら、「ほうっておけよ」と幸哉は言ったが、美沙緒は実質的に二重スパイめいた役割を負うことになってしまった。といっても積極的に動いたわけでは無い。孫の顔を見せに来いと頻繁に呼び出されるのだ。  行けないというと、何故だとしつこく問われた上、「では、私がそちらに行きましょう」と逆に言われるので、それを断る方が骨が折れる。淳哉を一人にするのが心配ではあったが、美沙緒は厳重に戸締まりをし、絶対にドアを開けないように淳哉に言い含めて実家へ行き、母や祖母と時間を過ごした。  しかし二人がかりで洗脳めいた話を聞かされ続け、美沙緒は淳哉が眠ってから癇癪(かんしゃく)を起こすようになった。 「あの人たちは私をただの道具としか思ってないのよ。肝心なことは全て“あなたは知らなくても良いこと”なんて言って教えないのに、淳哉やあの人のことは根掘り葉掘り聞いてくるの。なにも知らないと答えてるけど、たぶん、淳哉がうちにいることは知ってるのよね」 「たぶんね。……美沙緒、もう行かなくて良いよ。君がそんなだと稀哉にも良くない」 「……そうね」  美沙緒は息子に授乳をしながら、溜息を吐いた。 「ごめん。母には僕から言うから」 「そうしてくれると助かるわ。私こそごめんなさい」  互いに謝り合って、顔を見合わせ、二人同時に吹き出してしまった。  そうだ、自分にはこうして美沙緒が、稀哉がそばにいてくれる。  僕はもっと、淳哉に優しくしてやろう。あの子にはいま、誰もいないのだ。

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