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一部 兄とマウラ-6
「やがて淳哉は病院で寝起きしたいと言い出しました。母親の病室が特別室で、補助ベッドを入れても充分な広さがある、それなら一緒にいたい、そう言うのです。もちろん、母親のそばに行きたいという気持ちも強かったでしょう。けれど、うちにいることで、あの子なりに感じるものがあったとしてもおかしくない。五ヶ月経って、私は淳哉に対して感情を隠せなくなっていました」
マウラはため息をついて幸也を見た。
「あなたは始めて間もない仕事を一日やって、家に帰ればジュンを心配し、ミサオのこともマレヤのことも気になって、そのうえ実家のお母様とも話さなければならなかったのでしょう?」
幸哉は唇を噛んで首を振ったが、マウラは優しい笑みで続ける。
「疲れるのも当然よ」
しかし幸哉は眉を寄せて顔を俯ける。
「あんな子供が、くたくたになるまで頑張っているのに、私はすぐに耐えられなくなった。……私は自分の弱さに言い訳ばかりしていた。反吐 が出そうだ」
「それは違うわよ」
しかし幸哉は顔を俯けたまま、動かずに続けた。
「淳哉は聡い子です。私たちの家に母が来たがっていたんです。母はクリスマスの祝いを私たちの家でやりたいと言っていた。美沙緒の料理が楽しみだとプレッシャーもかけてきていた。このまま淳哉を置いておくのは難しいと二人で話しているのを聞いたのかも知れない。
もちろん、淳哉が気を遣ったのだろうとは思いました。けれどもう、私たちの家で匿うのも限界だったんです。病院側が特別室のセキュリティは万全だというので、むしろ安全かも知れないとも思いました。いずれにしても淳哉はもうすぐ六歳で、春から小学校に通うことになる。学区が決まる前に住所を確定しておく必要もあった。それがうちであるのは、かなりまずい」
幸哉はそう言って唇を噛んだ。マウラははっきりとした語調で言った。
「それは正しい判断よ。誰も貴方たちを責めはしないわ」
「ええ、そうですね、誰も。……私たち以外は」
マウラは溜息を吐いて、「コーヒーのおかわりは?」と聞いた。幸哉が首を振ると自分のカップにコーヒーを注ぎ、「ねえ、ユキヤ」と、初めて名前で呼んだ。
幸哉が驚いた表情で見返すと、柔らかい笑みを向けられる。
「気持ちは分かるわ。私も自分の無力を悔やんだことが数限りないほどある。けれどこれだけは言わせて」
言葉を切って、マウラは真正面から幸哉と目を合わせた。
「あなたは、誰よりも自分の妻と子のことを考えるべきなの。あなたはジュンとその母親の為にできる限りのことをした。けれどその為に自分の家族を犠牲にしてはいけない。愛ある家庭を築くことがあなたの望みなんでしょう? ならそれを第一に考えるべきよ」
「けれど、そこで、病院で、淳哉達は襲われた」
幸哉は拳を握り締める。それは小刻みに震えていた。
「二人とも酷い暴力を受けて、彼女は淳哉を抱いて窓から飛び降りたんです。……落下の衝撃があったのに、淳哉を守るように抱き締めたまま、命が尽きても淳哉を自分の身体で守ったんです!」
握り締めた拳をバンとテーブルに打ち付けると、コーヒーのカップとスプーンがソーサーにぶつかってカチャンと音を立てた。
「うがって考えれば、母が執拗に私たちの家に来ようとしたのも、淳哉を病院へ行かせる為だったのかも知れない。その上で病院側に圧力をかけて、暴漢を侵入させたとも考えられるんです。そこまで考えられなかった。そんな風には、考えていなかった……!」
「当然よ!」
被さるようなマウラの叫びが、幸哉の声を遮った。眉間に深い縦皺を刻んだまま、幸哉はマウラを見る。
「その人は、あなたのお母さんでしょう! 母親を疑うことができなかったのは当たり前なのよ!」
その眼差しは刺すように鋭かったが、幸哉は怖ろしいとは感じなかった。鋭さの奥に、深い慈愛の色が見えたからだ。
「ジュンは私が責任を持って預かります。怪我や症状について教えて下さる? その書類、日本語の部分があるわね。それの翻訳をお願い」
言葉を無くして、呆然と見返す幸哉に、マウラは深い微笑みを向けた。
「そしてあなたは、あなたの家族の元に戻りなさい。そうそう、ミサオに私の言葉を伝えて下さる?」
「……なんでしょう」
怪訝な顔で問い返した幸哉に、マウラはニッコリと笑いかけた。
「あなたは夫を誇るべきだ、と。素晴らしい配偶者と出会えたことを祝福する。そう伝えて」
幸哉は呆けたように口を半開きにして、マウラの言葉を受け止めた。
そして顔をくしゃっと歪める。「……それは…」首を振りながら、ククッと笑う。
「……無理です。あなたは日本人のメンタリティをなんだと思ってるんですか。そんなこと、自分の口から言えるわけがない」
「ではボイスレコーダーでも使おうかしら。どうしてもあなたのワイフに私はそれを言いたいのよ」
「……無茶を言うひとだな」
口許を歪めて笑いながら、漏れた声は僅かに震え、幸哉は片手で目を覆った。
「では、いつか……」
次いで漏れた声は、涙の気配を滲ませてさらに震えていた。
「……いつか、美沙緒と稀哉も一緒に、またお会いましょう。その時に、あなたの口から伝えて下さい」
「ええ、必ずお会いしましょうね。約束よ」
マウラは深い微笑みと共に言った。その声は低く柔らかく、包み込むように優しかった。
幸哉は手を目に当てたまま、その場で立って、ゆっくりと深く頭を下げる。
「…どうか、淳哉をお願いします。楽しく生活できるようにしてやって下さい」
「任せてちょうだい」
マウラはそう言って、ハンカチを幸哉に渡した。
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