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一部 忘れたこと4 幸哉
大学を卒業したとき、マンションに呼ばれて訪れた幸哉にまず渡されたのは、淳哉が作った紙の勲章だった。
『ユキヤは頑張ってたくさん勉強したから』
それはお世辞にも器用と言えない出来だったが、だからこそ幸哉の胸を熱くした。
淳哉は幸哉以上にはしゃいでいて、勲章を胸に付けて、顔をくしゃくしゃにして礼を言うと、手を引いてご馳走の並んだテーブルを自慢げに披露する。
二人で作ったと誇らしげに出されたパウンドケーキの美味を褒め称え、料理の一つ一つに舌鼓を打ち、特別に取り寄せたというシャンパンを三人で分け合った。二人の笑顔は親族が催してくれたホテルでのパーティーより、よほど感激的だった。
おそらく一般家庭では日常的にある幸福な時間を、幸哉はこの部屋では感じることができる。いまさらながら二人と出会えたことに感謝し、楽しい時間を過ごした。
いったん卒業資格を得た後、幸哉は大学院に進み心理学や言語学など興味の向くものを履修することにした。一族のプレッシャーを厭ったからだ。
親族は一様に兄の克哉と同様、幸哉もANESAKIグループへ身を置くと思い込んでいた。それを厭う気持ちが強くなっていたことが、そう決めた理由のひとつである。
しばらく就職せずに学業を修める、多くを学びゆくゆくは兄を助けると言えばみな納得したし、プレッシャーの一翼を担う母も「好きになさい」と満足げに笑んでいた。
姉崎家は古くから豪商としてならした家で、明治からは華族となった。そのためか今時信じられない慣習やしがらみがごまんとある。
元華族の誇りを維持しようとする母親や祖父母。周りの期待に応えようと邁進する兄。家では口を噤む入り婿の父。
そんな環境が普通ではないと気づいてはいたが、それまで自分が離れることなど毛ほども考えていなかった。堅苦しくはあってもその中で育った幸哉には自然なことであったし、確かに恵まれた環境を与えられているのだ。自分を育んでくれた家庭環境を全否定する気は今でも無い。
ただ、幸哉は中学くらいから『普通の』友人の家を訪れることが多くなっていた。
彼らの家庭を目にし、家族の話を聞けば、自分の家との差異を大きく感じた。その場では曖昧に笑んで流したけれど、無意識に暖かい家庭というものに憧れを抱いていたのだろう。
幸哉は幼稚舎から高校まで、今とは別の大学系列で学んでいて、幼い頃から共に育った仲間がいた。彼らはそれぞれ、それなりな家庭に育っていて、皆一様に用心深く、邪 な意欲を持って割り入って来ようとするような輩 を排除するのが日常であり、自分たちが他とは違うという意識を持っていた。
そんな、かなり排他的な集団の中で、幸哉は常に「ガードが甘い」と言われていた。
とはいえ幸哉には『普通の』家庭に育った友人が多かったし、そんな友人たちを大切に思っていたのだ。彼らと自分に差違など無い、ゆえに自分を特別な位置に置くなど考えたこともない。それが「ガードが甘い」ということなのだろうと理解はしていたが、それを実感したのは大学に進んでからだった。
幼稚舎から学んだ場とは別の系統の大学に進学したのも、親しい『普通の』友人たちと共に勉強したかったからだ。
幸哉にとって、あの親子と共に過ごす暖かい家庭のような空間が大切なものだった。それを手放したくないという想いは日増しに強くなっていたのだが、あくまで無意識なモヤモヤしたものでしかなかった。
そして無自覚にせめぎ合う葛藤を引き出し、自覚させてくれたのは、堀口美沙緖という大学の同期だった。
別系統の大学に進んだので幼稚舎からの交友はいったん途絶えたが、元々穏やかな好青年である幸哉には新たな友人が多くできた。サークル活動も始めれば、そこでも交友は広まったが、同時に『ANESAKI』総帥の息子というステータスもいつの間にか広まっていた。そしてやはり、ここでも良からぬ意識で近づこうとする輩を引き寄せた。
別に隠しもしていなかったけれど、あえて口にしたことも無かった幸哉は、そのことに気付くのに後れを取り、何度となく不快な状況に陥った。それを目にした新たな友人たちは、自然と無防備な幸哉をガードするようになっていた。
そんな友人の中に美沙緖もいたのだ。
「ちゃんと自覚した方がよくない? 別に排他的にならなくてもいいけど、近づいてくる人には用心した方がいいと思う」
「そんな必要ないよ」
幸哉はたいてい、笑って返していた。
彼女はさばさばした性格で、ハッキリものを言う。時に独善的なほど断ずることがあったけれど、誤りを認めれば即刻謝罪するような女性だった。そのせいか同性にも異性にも隔てなく好かれていて、幸哉も友人として好感を持っていた。
その意識が変わったのは、美沙緖が危うい目に遭ってからだ。
学部で、食堂で、サークルで、そして学外で食事をしているときなど、しつこく話しかけてくる女性がいた。声をかけては「遊びに行こう」「今度二人で会おう」などと誘いをかけて来る。ガードしようとする友人たちを巧妙にかいくぐるさまは幸哉を監視しているようにしか思えないほどで、さすがにやんわりと拒否の意志を伝えたのだが聞き入れない。どころか、
「恥ずかしがらなくていいわよ。楽しいことしましょう」
などと秋波を送って来るので、ぞっとした。やんわり言っても聞かないけれど、こういう女性をきつく拒否するのはなんとなく怖かった。もう無視するしかないと考え始めていた頃。
「ちょっとあなた、みっともないからやめなさいよ」
横からくちを出したのが美沙緖だった。
「あなたに関係ないでしょ」
「見てて不愉快。受け容れられる可能性があるかないかくらい、自分で考えなさいよ。姉崎くん、あなたもハッキリしなさい」
そのときは曖昧に笑って流したのだが、その日の夜、その女性は親しい男性を使って、美沙緖を襲おうとしたのだ。
通りがかった人により通報され、被害は未然に防げたが、それを知った幸哉が強い態度で疑いをくちにしても、その女性はしらばっくれて態度を変えなかった。
そこで幸哉は初めて、自分の甘さを反省した。
兄に相談して、裁判所から接近を禁じる通達が出され、大学にも話を通した。女性は大学を辞めることになり、学内で見かけることはなくなったが、逆に幸哉は心配になった。美沙緖が逆恨みされるのではないか、と思ったのだ。
その心配を共有した友人たちと共に、美沙緖が一人にならないよう気遣うようになった。
下手な男よりよっぽど男らしいサバサバした気性の美沙緖が、そのときはさすがに恐れているようだったのだ。すべて自分の甘さが招いた結果と思えば、幸哉は『美紗緒を守らなければ』と思った。幸哉は率先して彼女の送り迎えをしたので、必然的に共に過ごす時間が増えた。接する機会が多くなったせいだろう、このころから美紗緒は、穏やかな笑顔の裏に隠していた幸哉の葛藤を見抜いていたようだ。
歩きながら、公園のベンチでアイスを囓りながら、少しずつ根気よく、幸哉の中にあるものを言葉にして引き出す手伝いをしてくれた。
自分の家族に対する否定的な意識を言葉にして自覚し、それでも家族への親愛の情を捨てきれなくて、さらに悩みを深くした幸哉に、美沙緖はにっこり笑った。
「そっかあ、難しいねえ。でもさ、どうすれば後悔しないかが、きっと一番大事なとこだよ。私も一緒に考えてあげるからさ、きみはちゃんと考えなきゃね」
いつしか美沙緖は、幸哉にとって必要な人になっていた。
交際を申し込んで受け容れられ、あの親子の元に通い、……幸せな時間は、やがて幸哉に『自分自身が美沙緖と共に暖かい家庭を作る』という希望を見いださせた。
愛に溢れた家庭こそが幸哉の理想という自覚と共に、社会的な成功など不要だと断ずる。家庭を問題無く維持できる稼ぎさえあれば、それで良い。ならば一族の思惑にスポイルされるわけにはいかない。ANESAKIに所属しててしまえば親族や社員の重圧がのしかかり、今まで以上にプレッシャーを感じて、自分は身動きできなくなるだろう。
自分は暖かい家庭を手に入れ、子供を慈しんで育てるのだ。エゴイストといわば言え、将来的にも絶対ANESAKIへは入らない。姉崎の家を維持することは兄に任せてしまうことにする。本人もその気だし、問題無いだろう。
そう考えを定めてしばらくの間は、学問を修めるのだと見せて注意深く行動し、外資系の自動車ディーラーに就職を決めた。親族の力が及ばない海外資本に自分を置くことに成功したのだ。
当然彼らは何故だと責めたてたが、『父や祖父の力の及ばない所で自分の力を試したい』と言うと納得した。
ANESAKIから離れるなど考えられないという彼らにとっての常識は、幸哉も同じであると当然のように思わせてくれたようだった。いずれ力をつけ、兄と共に会社を盛り立てるのだろうと勝手に思い込んでくれたので、ニッコリ笑って放置した。
たとえ彼らの思い込みが勝手な誤解だとしても、自分が導いたものではない。
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