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二部 知らないこと1
マウラ・フランチェスカ・パオリーナ・クローチェ・ジョンソン。
放棄、或いは虐待されている児童を保護する施設と、それに付随する学校を運営している女性である。
大人の暴力や無関心から子供を救い、教育を受け友人を作る機会を与えるために始めた事業だが、現在はそれだけで無く、全寮制の学校も経営している。
プリスクールからエレメンタリースクール、ジュニアハイ、シニアハイまでが一貫して学べる施設なので、六歳から十八歳までの子供が集っており、子供の情緒を健全に伸ばすと評価を得て、入学希望も順調に増え、いくつかの州に展開している特別支援学校も順調に伸びを見せていて、事業は安定しつつある。
夫は州の議員で彼女の事業に理解があり、とうに成人した子供たちも手伝ってくれていて、少なからず居る卒業した子供たちの中の成功した者たちも、彼女の事業を支援してくれている。
子供たちの健全な成長を守るため、誇りを持ってこの仕事を続ける彼女は人格者としての評価も得ていた。彼女の事業は社会的にも経済的にも順調だ。
だが今日、彼女は珍しいことに、その表情に隠さず苛立ちを上せていた。
呼び出してから二週間以上経過してやっと顔を見せた保護者に対しているのだが、かかった時間を問題にしているわけではない。
保護者に事情があるのは良くあることだからだ。
悲しいことに、どうしても子供を愛せない親が、相当数いる事も知っている。
たとえば親自身が未熟で不安しか持てない時。
たとえば生活を維持するのに精一杯になってしまった時。
様々な理由で子供に愛情を向ける余力がない親は存在する。
そんな保護者を刺激しすぎてはいけないということは、経験則で知っている。むしろ子供を第一に考えない親より、自分が保護する方が子供にとって幸せとしか思えないことも少なくないのだ。
変にこじれさせる必要は無いが、あえて子供を保護する立場を貫き、親に不足している部分を厳しく問うようにしている。
もちろん子供を守りたいゆえにそうするのだが、そのとき親の負担を減殺すれば、いつか余裕を取り戻し、子供への愛を思い出すのでは、と信じる心があることも否定しない。そのまま子供を忘れ去る親がいることも知っているけれど。
人はさまざまで複雑だ。
一見類型的に見えたとしても、生を受けた数だけ異なる形がある。ありがちなパターンなど、ひとつも存在しない。
とはいえ、ビジネスとして効率を考えれば、ある程度のパターンを踏襲していかなければやっていけないのだが。
そういった現実を、いやというほど見てきた彼女だが、今回はどうしても納得が行かなかった。保護者には厳しい顔で対するのは彼女の方針だが、今この顔を向けているのは、それだけが理由ではない。
この、預かって四ヶ月になる子供の保護者が、自らの責任によって子供を守ることが不可能とは思えなかったからだ。
有り余るほどの財力があり、それにより行使できる相応の力を持っている。自らが多忙でもビジネス上必要であれば、秘書なりを使って密 に連絡を取る事が可能なはずで、事実今まで彼はそうしていた。
少なくとも出資者としての彼は分別と常識を保ち、慇懃なほど礼を尽くす理性的な人物、信頼できると判断していた。だからこそ、彼からこの事業に出資したいと申し出があった際は喜んで受けたのだ。
なのに彼はそういった努力を一切せず、事前の連絡も無く唐突に現れたのだ。その落ち着き払った顔は、それまで彼女が見知っていた顔と寸分違わず、それがさらに彼女の苛立ちを増していた。子供は彼の依頼により預かっているのだから、マウラにとってこれはビジネスなのだ。なのにこれは礼を失してはいないか。
そして彼の子供の状態を目の当たりにした時、ビジネスマンとしての彼と家庭人としての彼の落差をそこに見た想いが失望を誘発したことは否めない。誰にも言ってはいないが。
ゆえに彼女は、常なら表に出さない苛立ちを隠そうとはせず、むしろ本人にはっきり告げるべきと考えていた。
子供の状態を説明している間、表情を変えず、なんの返答も無いまま聞いていた彼に、マウラは一拍置いて、先ほどより厳しい声を向けた。
「ミスタ・アネサキ。念のために伺いますが」
彼女は抑制の利いた笑顔を向けて、それでも若干の揶揄も含めて問うた。
「この事業に出資していただけたのは、ジュンのことがあったからですか?」
しかしその日本人は、彼女以上に抑制された表情で、つまりほとんど無表情に問い返す。
「ミセス・ジョンソン。それはどういう意味ですかな?」
動じない彼に、マウラはつい、感情の乗った声を出してしまう。
「そのままの意味ですわ。あの子が困窮した時に使えると考えて出資を決めて頂けたのかしら、……と思ったものですから」
そうであったら良い、という願いが、そこに出てしまっていた。この落ち着き払った日本人が、子供に対する愛情ゆえに少ないとは言えない金を使ったのだと、そう思いたい。しかし彼はにこりともせずに言った。
「持って回った言い方をしなくても良い、マウラ。私は自分が良い親ではないことを知っている。だが出資したのは、くだらない個人的な思惑からではなく、あなたの夫の助力が欲しかったからだ。もちろん、事業の有用性と意義も感じ取ったからでもある」
「……そう、ですわね」
自覚せずに、落胆の現れた声が出てしまった。
彼が子供をよろしく頼むと言うなどとは思っていなかったが、少しでも表情を変えるなり、恥じる様子を見せたなら、彼女の中にくすぶる苛立ちは軽減されただろうに。
しかしコレはビジネスである。マウラは顔を上げて声を励ました。
「正しい判断だと思いますわ。今のお話はお忘れになって?」
「よろしい。忘れましょう」
鷹揚に頷いたタカオ・アネサキは、日本人である。
マウラの夫、ウィリアム・マシュー・ジョンソンJr は、産業革命の頃に財を築き今も莫大な資産を誇る家系の長男で、現在は州議員を務めており、アメリカの社交界では知られた人物であり、イタリア系のマウラは、夫の力がなければWASPが大勢を占める社交界へ顔を出すことも無かっただろう。今でこそ、自らの事業が功を奏してマウラ自身の価値も認められるようになったが、新大陸と呼ばれてから三世紀近くを経たこの国にも、欧州ほど顕著ではないにしろ、そういったものは確実にあるのだ。日本人であるアネサキがこの国で地歩を固めるのに、夫の助力が役に立ったであろうことは想像に難くない。
日本人にしては高身長で端正な容貌。今年五十六歳になると聞いているが、年令より若々しく、しかし見合った威厳を漂わせている。
常に冷静で抑制した表情しか見せないこの男に対して、夫は『何を考えているか分からないが、仕事の上では信頼できる』という評価を与えていた。
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