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二部 知らないこと2

「それで今回、私にここまで来るよう強制なさったのは、どういった要件ですかな?」  あくまで落ち着いた態度を崩さない彼に、マウラも気を取り直して感情の抑制を取り戻し、経営者の顔を向けた。 「これは世間話ですが。十日ほど前、ジュンのいる施設に良からぬ者が入り込もうとしていた形跡がありました。不審者が入り込むことは無かったのですが」 「……ほう。それは大変ですな」 「我々は虐待を受けた子供なども受け入れておりますので、セキュリティにはかなり気を使っております。現在、調査を進めているところですが、ターゲットとなりうる子供はそう多くないので」  言葉を切ると、彼は片眉を少し動かした。 「少なくとも、淳哉に関しては問題ないと申し上げておきましょう」  幸哉から聞いた話から、彼の息子が狙われた可能性を捨てきれなかったのだが、どうやら彼なりに手段を講じているようだ。 「分かりました。それなら安心ですわね」  こういった場合、親の言うことを頭から信用することは危険なのだが、ひとまず懸念を伝えたところで、マウラは本題に入る。  今回彼を呼び出したのは、自分の経営する施設だけでは補えないものを、子供に与えられる可能性があったからである。 「保護者の判断を仰ぎたい状況が発生しましたの」  事務的な表情と声で言いながら、マウラは一冊のファイルを彼に差し出した。 「ジュンの知能テスト結果です。体力テストの結果もごらんになって」 「……マウラ、申し訳ないが、こういう数字に私は疎い。意味を教えて頂けるか」  ファイルを受け取りはしたが開こうともせず、さほど興味を示さない彼へ、強い視線を向けて続ける。 「知能指数がかなりのレベルです。運動能力も高い。こういう子供はより良い環境に置いて、能力を伸ばす機会を与えるべきです」  彼はわずかに眉を動かす。 「淳哉の能力が高いと?」  その眼差しに初めて興味の光がわずかに過ぎった。 「そうです。もちろんこれは単なるデータであり、将来を確実に決定できるものではありません。けれどジュンには大きな可能性がある。ユキヤの話によると、2歳ですでに絵本を読み込み、世界観を理解していたと考えられます。素晴らしいことですわ。ここに来てから2ヶ月ですが、驚くべき理解力と記憶力を見せてくれています」  マウラは淳哉をとりあえず自宅で保護したが、怪我の治癒を見た1ヶ月後、この保護施設へ移した。同年代の子供が集まる環境を与えたかったからだ。  淳哉はたちまち子供達の人気者になった。  物怖じせず誰にでも話しかけ、アクティブに動き回るかと思えば、憑かれたように本の世界へ没頭する。愛らしい外見をしているし、いつもニコニコ笑っている明るさがあるけれど、それだけではないなにかが、親に見放された子供達を引きつけるようだった。  幼い子供が淳哉は大好きらしく、抱きしめたりキスしたりと猫かわいがりする。年かさの子供には可愛がられるだけでなく色々問いかけ知識を増やす。図書室から本を次々借りて、瞬く間に子供用の蔵書を制覇してしまうと、職員などが読む教育関係の書籍にも手を出し、職員に質問を繰り返す。  けれど本ばかり読んでいるわけではなく、身体を使った遊びも難なくこなした。ときどき型の練習と言って一人で行動したがることはあるが、そんな時でも淳哉の周りには常に子供達が誰かいて、淳哉を鑑賞していた。この子供の笑顔を得ようと、子供達も職員も心を砕く。  そんな職員の一人が、試みに偏差知能指数(DIQ)の検査を受けさせたところ、驚嘆すべき結果が出たとマウラに報告したのだ。  そう伝えると、彼はマウラに返そうとして動きを止めていた手を引き戻した。探るような視線をマウラへ投げてからファイルに目を落とすと、ページをめくって視線を走らせる。  その眼差しは、まるで株価の変動を見極めるような、事業の収益率を確認するような、そんな冷静で事務的なものだった。そうしてしばしの間、内容を精査する眼差しを走らせていたが、感情の動きは全く見えなかった。しかしやがて目を上げた彼と再び視線を合わせた時、そこには強い光が宿っていた。  今度こそマウラにファイルを返しながら、彼は口を開いた。 「それで私になにをしろと?」 「彼の安全の確保と、能力を伸ばす環境。この二つを満たす施設があります。破格の費用がかかりますが、そこで過ごすことで、彼は多くの知識と知恵、そして他では得難い友人を得ることができるでしょう」 「得難い友人?」 「我が国には富裕層の子弟や優秀な子供などが集まる教育機関があります。あなたも聞いたことがあるかも知れません。そのひとつに、私の夫は縁故があります。そこであれば、不審者が簡単に子供に近づくことはできないでしょう」  そう言いながらマウラは別の資料を示した。男はそれを手に取り、チラリと見ただけでマウラに返す。 「なるほど。あなたの夫のようなハイソサエティにコネクションを作る事ができる、というわけですな」  ロボットのようなその顔に、僅かな納得の色を浮かべて彼は頷いた。 「よろしい。費用については了承した。あれをそこで学ばせる為の助力を請おう。そして私は、生活面でも他の子供に侮られないものを与えましょう」 「ご理解頂きありがとうございます。ですが条件をふたつ出させて頂きます」 「条件? あなたが私に?」  彼は不審げな、不愉快を感じたような表情を(ひらめ)かせる。それは、その視線だけで人を従わせてきたのだろうと、容易に想像させる態度だったが、マウラは背筋を伸ばして顎を上げ、強い目で見つめ返す。 「失礼ですが、コネクションがなければ如何(いか)にアネサキ・ファミリーでも、そこには入学はできませんのよ。その部分をお考え頂きたいの」  実際はそこまで厳密ではない。この自由の国では、能力さえあればチャンスは与えられるし、彼の息子にはその能力がある。しかしマウラは敢えてそう言って、強い眼差しを向けた。  アネサキは先ほど見せた表情を消した。落ち着いた顔ながら、マウラに向ける思慮深そうなその瞳は、探るような色を僅かに浮かべていたが、それも用心深く消し去ると、彼はゆっくりと頷いた。 「……なるほど。この件に関しては、お任せするより他無いようだ」  マウラは表情に出さないように気をつけながら、内心で安堵の息を吐いた。 「それであなたは、私になにをさせたいのです」  アネサキは不審を感じたかも知れない。それでも頷いたからには、この場は勝ったと言えるだろう。とりあえずはそれで充分だった。 「まず、この学校へ行くことに関して、あなた自身でジュンにお伝え頂きたいのです。そして最低でも年に一回は、あの子にお会いになってくださいません?」 「私があれに会うことが、どういう効果をもたらすと?」 「分かりません。ですが、無視されるよりは、きっと良い結果が出るはずです」 「……なるほど。この件に関してはあなたに従おう。あれを無視はしないことをお約束する。それでよろしいかな?」  あくまで冷静な態度を貫く保護者に、マウラは複雑な笑みを向けた。  子供の明るく愛らしい笑顔が浮かび、それを曇らせたくないという気持ちが、その笑顔を少しだけ歪めていたのだった。

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