30 / 97

二部 Lovers-9

 アタマの中が加熱状態になっている。  透は、ふう、と深い息を吐いた。  冷静にならなければならない。そもそも自分が聞かせろと強要したのだ。誰のせいにもできない。 「なんかいろいろで、喉が渇いたな……」  なので呟きは、ため息混じりになった。 「じゃあ降りよう」  ニッと笑った恋人は、きれいな目を嬉しそうに細めていて、先ほどまでのピリピリした空気は消え去っている。 「飲むもの用意してあるんだ」  誘う声はもう、いつもの調子で、復活したと言ったのは全くの嘘では無いらしい。  少なからず、演技している部分もあるだろうが、などと思いつつ頷くと、タオル地のガウンを着せかけられたので、素直に羽織った。  マッサージの効果か、なんとか立ち上がれたので、ゆっくりとドアへ向かうと、いきなり腕が足裏と背にかかり抱き上げようとする。 「やめろ、歩ける」 「ええ~? いいじゃない、抱っこしてあげるって」 「うるさい」 「強情だなあ。そういうトコも可愛いけどさ」 「うるさい。可愛い言うな」  断固拒否して階段に向かう。 「はい透さん、これ飲んで待ってて」  降りてまず淳哉が冷蔵庫から持ってきたのは緑のビン、ペリエだ。「おう」と言いながら受け取る透の頬も緩む。  淳哉は家でも常に、これを冷蔵庫に入れている。ここにまで持ってくると思わなかったが、これを用意する淳哉が嬉しいのは、かつて透が言った「うまい」の一言を覚えてくれていると思うからだ。  透がペリエを持ってソファに座ると、淳哉は暖炉の前にしゃがみ込んで、脇に置いてある(まき)を組み、火を(おこ)し始めた。 「いいな、暖炉に火が入るのって、なんか金持ちの家って感じだ」 「だってここ金持ちの家だもの。兄のだけど」 「お兄さんが金持ちなら、おまえも金持ちなんじゃないのか」 「それは関係無いよ。僕はただの英語教師だし、少なくとも兄は関係無い」  冷めた声で言う背中に苦笑を向けながら、透は座り心地の良いソファに体を預けた。見上げると吹き抜けの天井には、花がいくつも連なったようなの形のガラス照明が暖色の光を落とし、その両脇にプロペラのような羽根が一対(いっつい)、ゆっくりと回っている。  大きく切られた窓から、部屋の明かりを受けた木立が見える。壁は白っぽい塗り壁で、大胆に海と太陽を抽象化した絵が淡いオレンジ色で描かれている。木張りの床が暖かみを感じさせる部屋に家具は少ない。  暖炉横には金属製のラックがあり、薪が積まれている。白っぽい布地のソファと暖炉の間には木製のテーブルやソファと同じ素材のスツールがあって、壁際にソファやテーブルと同じテイストのチェストが2つ。どれもシンプルだがどっしりとした佇まいで、この部屋の雰囲気に合っていた。  ペリエを一口飲むと、激しい運動をしてさんざん声を上げ、入浴してマッサージまで受けた喉には、微かな炭酸が快く染みる。自然に深いため息が出た。 「……うまいな」  声を聞いてチラッと振り返った淳哉が嬉しそうに言った。 「透さんホントにペリエ好きだよね」 「まあな」  そう返してテーブルに緑のビンを置くと、その向こうに炎の立ち始めた暖炉、その前で作業する恋人の背中が見える。いつも背筋を伸ばしている背中が丸まって、広い肩と細い腰が強調されていた。ぼうっとそれを眺めていると、柔らかな暖気が徐々に透の身を包んだ。 「よし、イイ感じ」  暖炉の炎に満足したのか、淳哉が立ちあがって、部屋の隅に置いたままのスーツケースへ向かい、開いて中を探しはじめた。ごそごそと探りながら「あれー?」と声を漏らす恋人に、透はククッと笑いを漏らす。おそらく適当に放り込んだだけで整理もなにもしていないのだろうと推理できたからだ。  何日も前から、こいつは楽しそうに荷造りしていた。  どんどん増える荷物に『おい二泊三日だろ。そんなに何を持ってくんだ?』と透は聞いたが、淳哉はまったく気にせずに、『まあまあ』と笑うだけで、最終的に海外旅行で使うような大きなスーツケースへ荷物を詰め込んでいた。  その中に二人分のスーツやもろもろが入っていたのは分かったが、それにしたって大荷物すぎる。なにが入ってるんだろう、とぼんやり考えているのは、とても平和な気分で、ふと、幸せだな、と透は思う。  学問に夢中になっていた頃を除けば、自分を幸せだなどと思ったこともなかったが、淳哉の話を聞いて、自分は恵まれているのだな、と自然に思えた。それはもちろん、家族や友人、そしてこの恋人の存在があるからだが、今ここで思えたのはこの部屋の雰囲気もあるかも知れない、と透は考える。  二人の部屋では、淳哉がなにかする度に「こら片付けろ」などと意見してしまう透だが、ここではそれでも良いと許容できるからだ。……などと、どんな時も理詰めになるのは透の良くない癖だった。  淳哉が「あったあった」と声を上げ嬉々として取りだしたのはI・Wハーパーのビンだった。これは淳哉が好きなバーボンだ。さらにブランデーのビンも取り出すのを見て透は呆れた。 「そんなのまで持ってきたのか」 「だって好きなの飲みたいじゃない」  淳哉はほぼ毎日酒を飲む。なので同居を始めてから、透も少しだけ酒の名前を覚えた。淳哉の好きなビールとかウイスキーとか。それでもブランデーは分からない。 「これはねえ、最高にうまいやつなんだ。今日は特別だからさ」  当然のように言って、淳哉は酒の準備をする。  楽しげに冷蔵庫とテーブルを何度も往復しているのを、まあいいかと眺めていた透の眉が、徐々に寄ってしまったのは、しかし無意識だった。  コンビニで買った氷とグラスを持ってきて、袋を適当な手付きで破り、氷を一かけ取りだしてグラスへ放り込むと、袋はテーブルに置いたままにした。ナッツやチーズといったつまみも次々に持ってくるのだが、どれもパッケージを破って放置するだけなので、せっかく雰囲気ある風景が、あっという間に大学生の合宿みたいになってしまった。  まったく、とため息が出た透が、特にマメなわけではないと思う。淳哉よりはましというレベルに過ぎないし、むしろ淳哉と同居するまで、見てくれなど気にしたことはなかった。まあ掃除くらいは普通にしたが。  だが暖炉の火を眺めながら寛ぐのだ。滅多にない体験なのだから、いい雰囲気を壊したくないと思い、しょうがなく腰を上げた。  棚からアイスペールを探し出し、それに氷を入れて、マイセンで統一されている食器から皿を選び、つまみをそこに盛った。アロマキャンドルらしいものも見つけたので、それに火を入れてテーブルに置く。 「すごい! ちゃんとした感じだね! さすが透さん!」  大げさに賛美する様子に、透は「はいはい」とおざなりに返事をした。  こういう、どうでもいいことで大げさなのはいつものことで、最初こそいちいち照れたりしていたが、あまりに日常的にしょっちゅうやるので透も慣れた。  おそらくアメリカ育ちなのとこいつがお調子者なのと、そのミックスだろうと思いつつ、キッチンに立ったついでに湯を沸かした。  紅茶をいれようと思ったのだ。

ともだちにシェアしよう!