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二部 最初の学校5

 マウラはとても多忙で、このごろはメールでのやり取りのみになっていたので、顔を合わせたのは一年ぶりだった。  保護者などと面会するための部屋のドアを開くと「まあ!」特大の声と共に、大柄なマウラが両手を広げていた。 「どこのプリンスかと思ったわ!」 「プリンスって……?」  思わず問い返した淳哉をパワフルなハグで拘束し、マウラはしげしげと顔を眺めながら満面の笑顔になった。 「あなたの年頃に、とても美しく変化する子供はいるものなのよ。けれどあなたは小さい頃から特別愛らしかったのですもの、当然よね。ああジュン、今のうちに写真を撮らせてちょうだい。十六歳くらいになったら、普通の男の子にしか見えなくなってしまうものなのよ、もったいないわよね」  ほくほく顔でカメラを構えるマウラに呆れながらも、ノリノリで写真撮影に応じる。 「久しぶりマウラ! 元気そうで良かった」  変わらず大きくて大げさで、とても明るくポジティブなマウラに、淳哉は嬉しくなってしっかりハグを返す。  そうしてようやく「今日はなに?」と尋ね、本題に入ったのだが、淳哉は首を傾げた。  別の学校へ移る話を進めたい、と言われたのだ。 「お父様も賛成して下さっているわ」 「ええ? 面倒くさいよ、それって必要なのかな?」  しかし笑みを深めたマウラが「学校を移れば合気道を習える」と言ったので、一転「マジで!」と勢い込んだ。 「行くよ、行く行く!」 「良い返事ね! けれどいい話というものには、必ず応じた責任が付いてくるものよ」  マウラはニッコリ笑って条件を口にした。  “好成績を維持する”  “品行方正に振る舞う”  “問題を起こさない”の三つだ。 「必ずトップとか言わないなら成績は可能。だけど他は無理な気がする」  実際、この学校で淳哉は良くも悪くも孤高を保っていた。良識だの誠実だのを大切にする口うるさい輩は、淳哉を危険視して近寄ってこないので、ある意味楽だと思っていたくらいなのだ。  よい子の演技をすることも、上級生や先生に(おもね)るために自分を偽る気も、まして嘘で固めることも、もう二度としないと淳哉は決めていた。  しかしマウラは、やっぱりポジティブで自信満々だった。 「そう思っている限り無理でしょうね。けれどチャレンジするべきよ。私は今回、あなたの為にかなりの好条件を勝ち得ることができた。それに値する役務が課されるのは当然だと考えなさい」  合気道道場へ通う。  これは淳哉にとって何よりも優先したいことで、いままで何度も父やマウラに要望として伝えていた。  しかし危険を回避するべきという言葉ひとつで出歩くことを禁じられていて、ゆえに道場へ通うことを許されなかった。しかしどうしてもやりたかった淳哉は、危険がどこにある? などと反論していたのだが、実際町へ出て身体の大きな男に話しかけられたりすると滅茶苦茶緊張して大汗をかいてしまい、ビビって動けなくなる自分もいたので、強く出られずにいた。  それでも、どうにかして合気道の道場に通いたくて、淳哉は可能と考えられる方策を提案したりしていた。  なぜそんな衝動があるのか分からない。衝動が起こる理由を考えた事もなかったのだけれど、これから行くことを示唆されている学校は、敷地内に道場があるというのだ。  そこであれば好きなだけ習うことができる。それは淳哉にとって非常に嬉しいことだった。  しかし続けて告げられた“好条件”には首を傾げた。  つまり、  今の学校に納めている学費の倍額以上の寄付  個人的に雇う家庭教師  生活費等の増加  この三つだ。 「マウラ、道場にだけ通えればそれでいい、どこにでも行くよ。けど他は必要無い」 「いいえ、どれも必要よ。今言った条件があるから、ミスタ・アネサキはあなたが高みを目指していると認識するのだから、それに付随する物として許可されたの。道場の許可だけなら、おそらく受け入れられることはないでしょう」  マウラは相変わらずはっきりモノを言う。  淳哉が父に対して素直でなくともマウラは態度を変えず、むしろその反抗心を(くすぐ)って尻を叩いてくる。操縦されたと気づいた時は悔しいが、こういう方法があるのだな、と淳哉は知ることができた。  そのように作戦を立てて要望を叶える術を、そこから淳哉は学び、今ではかなり実践できるようになっていた。寮の部屋で、教室で、淳哉に従う連中は、この手段で手中に収めることができたのだ。この他にもマウラには学ぶべきところがたくさんあり、その頃もやはり、最も信頼できる一人であることは変わらなかった。 「それと服装! なんですそのジャンクないでたちは」  しかしマウラは淳哉の格好を見て、くっきりと眉間に縦皺を刻んだ大げさな表情と身振りで言う。  オールドロックのヴィンテージTシャツと、ダメージの入ったこれもヴィンテージのジーンズ、人気メーカーのスニーカーという組み合わせはその頃のお気に入りで、どれも手に入れるのにけっこう苦労したものだ。 「ダメよジュン、それでは正しいジェントルマンにはなれない。そのまま正しい感覚を持たずにいるのは良くないわね」 (大好きだよマウラ。ただひとつ、口やかましいことを除けば、だけど)  そう思いながら、淳哉はニッと笑って肩を竦めた。 「けどマウラ、これってかなり高いんだよ。すごくお洒落なんだ。分からないかもしれないけど……」 「そうだわ! これからスーツを作りに行きましょう。正しいスーツの着方を知ることは、ジェントルマンの基本ですからね」  大変良いことを思い付いた、と言わんばかりのマウラは、淳哉の声を気持ちいいほど無視した。  それでも、常に揺るぎなくポジティブな期待を寄せるマウラが、やはり好きだと思った。

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