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三部 ジュニア・ハイ-3

 いかに学業優秀を(うた)われているといっても、ここはアメリカ合衆国の学校なので、勉強以外の活動が奨励されている。この国では勉強だけ出来ても、よっぽど優秀でなければ認められない。それだけの人間ではないということをアピールしなければならない。  スポーツやボランティア活動をやった上で、学習面でも評価されるような、人間的な幅広さを手に入れてようやく優秀な生徒だという認識を勝ちとることができるのだが、それは自分の努力が正当に評価されることに他ならない。  権利には必ず義務がつき従い、義務の履行が権利獲得に通じる。それこそがアメリカ合衆国の国民に与えられる自由だ。淳哉はそう、マウラに教え込まれていた。普通の子供以上に、そういった感覚は強い。  といっても淳哉はあくまで日本人なのだが、六歳からマウラにたたき込まれた米国市民としての権利と義務に対する考え方は、すっかり淳哉自身のものとなっていた。  マウラがそう教え込んだのには理由があった。  淳哉が成人したのちも米国で生活していく為に、必要不可欠な考え方を持たせるべきと考えていたのだ。  渡米直前に淳哉のパスポートを取得する際、親権者である母親が死亡していたため、取得に時間がかかりそうだったのだが、とにかく急ぐ必要があったため、ひとまず大急ぎで認知をして姉崎崇雄の息子という身分で淳哉は入国した。とはいえ母親がアメリカ国民なのだから、後に二重国籍と判明すれば滞在に不自由はないはずだった。  それゆえに緊急避難先として米国を選んだにもかかわらず、淳哉の母が所持していたパスポートの人物は実在していなかったのだ。マウラがあらゆる伝手を使って調べたが、最終的に彼女の米国籍を確認することはできなかった。  現在はマウラが淳哉の保護者となって、生活全般に責任を持っているのだが、いずれ淳哉は自分自身で、米国にとって有益な人材だと認識されることが必要だと考えた。そうすればグリーンカードの取得も可能となり、日本国籍であっても胸を張って米国で生活できるようになる。  淳哉はと言うと、マウラ仕込みの権利意識と義務の自覚をもって、自分自身の意思で能動的に行動し、自分自身について決定できる状態をエキサイティングだと感じていた。大威張りで権利を享受する為に義務を遂行し、努力を重ねることは、淳哉にとってとても楽しいことだった。  転入したての馬鹿げた噂が笑い話に落ち着いた頃、淳哉はすっかり学校に馴染んでいた。  困ったように笑うだけだった少年が、「違う違う、ぜんっぜん違うよ」と答えるようになって、中身はよく笑う元気な少年だと認知された。  それに今は、淳哉にも六歳からの歴史があるのだ。計算したり考えを巡らせたりせず、思うまま伝えられるというのは、前の学校に入ったばかりの頃と比べるまでも無く、楽だった。  噂が消えても淳哉の容姿が変わるわけでは無いし、スーツでは無くTシャツとジーンズで過ごすようになり、むしろ好感を持たれるようになり、遠巻きにされていた当初より声をかけられることは多くなっている。  さっそく通い始めた道場で、同じ畳の上で鍛錬を重ねる同士という連帯感からか、合気道以外の武道をやっている連中とも親しくなれた。上下関係ではない対等な友人との時間は、とても楽しいものだった。  そして淳哉は道場の外でも熱心に鍛練を重ねた。  一刻も早く強くなりたい、という気持ちは消えることなく強いまま、淳哉の中にあり続けたのだ。  道場仲間の馬鹿げた体力に敗北を認めざるを得ず、筋力トレーニングを始めた。毎日稽古をつけてもらえるようになって、基礎体力不足を痛感し、ランニングやジムトレーニングを増やした。もっと大きくなる必要があるから、身長も伸ばしたい。  実のところ、淳哉があまり外出しないのは、マウラにうるさく言われる以外にも理由があった。  体格の良い男性が近くに来ると、ひどくイヤな気分になり、動機が激しくなってしまうのだ。これはおそらく、もう記憶に無いなにかが影響しているんだろうと推測はしていたが、だとしたら自分自身が体格の良い男性になってしまえば平気になると考えは進んだ。  だから牛乳をたくさん飲んで、カルシウム剤も飲んだ。球技などチームスポーツはあまり好きでは無いのだが、バスケットボールを良くやるのは、コレにより身長が伸びると考えたからだ。  もちろん勉強も手を抜けない。やることがたくさんあり過ぎて時間がもったいないから食事は素早く。風呂も身繕いも手早くやってしまえば、空いた時間を勉強やトレーニングに充てられる。  もっと頑張って、もっと強く、もっと大きく、もっと賢く。  学校生活は楽しくなったけれど、淳哉は自分自身に、まったく満足していなかった。  そんな中、同じ道場に通う一人の少年が話しかけてきたのは、合気道の練習時間が終わり、道場を出て汗を拭いていた時だった。 「やあ、君は日本人なんだって? いま話いい?」  金縁の眼鏡をかけた少年は、身長が淳哉より少し高く、がっちりとした体つきで、金髪に水色の瞳、神経質そうな細い鼻梁と薄い唇を持っていた。今まで話しかけてきたことがあったっけ、などと考えつつ、淳哉も右手を差し出す。 「もちろん! 僕は…」  握手を返しながら、彼は薄く笑った。 「知ってる、ジュン・アネサキ。君は有名人だからな。僕はフランツ・ヴィーラント。ドイツからの留学生だ」 「よろしくフランツ。君は空手をやってるの? それとも柔道?」  そう聞いたのは、彼が白い道着を着ていたからだ。 「空手だよ。なあ、僕は日本が大好きなんだ。君の国について教えてくれないか」  薄い笑いのままドイツ訛りで淡々と語る彼は、けれど淳哉が「そうなんだ」ニッコリと笑みを返し、 「でもゴメン。僕は日本のこと、あまり知らないんだ」  と続けた言葉に、「嘘だろう」と少年は眉を寄せた。 「日本から来たんだろう。なんでも良いんだ、教えてくれよ」 「とても小さいときにこっちに来て、日本には一度も行ってないんだよ。だから本当に知らないんだ」  肩をすくめて言うと、フランツはあからさまにがっかりとした色を水色の瞳に乗せた。 「……そうなのか。いや、いいんだ。少しでも日本のことを知りたかっただけなんだ。悪かった」  そう言って身を翻したフランツを「なんだあれ」と見送った淳哉は、それきり彼を忘れた。  そんな風に一方的に話しかけてくる者はそれなりにいて、それをぜんぶ記憶しておく必要を感じなかった淳哉は、人の顔と名前を覚えることに熱心ではなかった。それよりもっと覚えるべき事がたくさんあるからだ。脳の容量はそちらに使いたいと考えていた。

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