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三部 ジュニア・ハイ-2
まだスーツしか着るものの無かった、つまり悪目立ち中だった頃、専属家庭教師がやってくるらしい、といった噂が一気に広まったのは当然のことだった。
これは十二歳で転入と同時に個室持ちとなった淳哉だからこそ可能だったことで、さらに言えば、この学校に転入出来たということは、プリスクールから在籍している生徒とは違い、間違いなく優秀である証明でもあったので、そんな淳哉にあえてつけられる家庭教師も、よほど優秀に違いない、などと憶測だけの噂である。
ゆえに詳細を尋ねる者は後を絶たなかったが、「詳しくは知らないんだ。僕の意志じゃ無いし」などとアルカイックな笑みで答えるのみの少年に、また更なる噂が巻き起こったりしたのだが、それは本人の与り知らぬことであった。
それはともかく、淳哉はその日、朝から憂鬱だった。もちろん、顔にも態度にも現しはしなかったけれど。
まえの学校では、勉強法を正すべきだとさんざん言われていたので、またアレをやられるのでは無いかと考えていたからだ。
つまり淳哉のやり方は、尋常では無い記憶力に裏打ちされた暗記に偏った、かなり特殊なもので、かなり執拗に勉強法を改めろと言われ続けて閉口した経験があったからだ。
正しい勉強法を身につけさせようという動きは、確かに親切な申し出であったのだが、ただの親切心から出たものでも無かった。
前の学校へ入った経緯から、淳哉は定期的に知能指数を計測されていた。幼少時に高い数値を出しても、成長と共に凡人となる子供が少なくなかったからだ。
しかし淳哉の数値は下がることが無く、一定の結果を返し続けていた。それゆえにさらなる高みへ至るべきだと、正しい勉強法を身につけさせようとしたのは、学校側としては当然の考えだったし、自らの指導力を誇示したい一部の教師は何度拒否しても諦めようとしなかったのだ。
かなりウザかったため、マウラを通して厳重に抗議し、なんとかその動きは収束した。それまでの方法でかなりの好成績を維持していたし、淳哉には誰かの自尊心の道具になるつもりは無かったので、その教師たちの顔を見るのも嫌になっていたのだった。
だから週に二回やってくる家庭教師が、自尊心を満足させる道具として自分を見るかも知れないと考え、そうならマウラ相手に説得する必要があると考え気が重かったのだ。もちろんマウラを信頼してはいたけれど、彼女は淳哉のそばにいるわけでは無い。
しかしノックをして部屋へ入ってきた家庭教師の、片側の頬を少し歪めた笑みを見た淳哉から、そんな気持ちは一瞬で吹き飛んだ。
「やあジュン、久しぶり」
皮肉にも見える、腹の裡が読めない表情。
「……え」
それはかつて淳哉が所属した寮の寮長。
「もしかして、ジャス?」
「大きくなったなあ……」
そう言って握手を求めて来た家庭教師と親愛のハグを交わした。ひょろりと背が高いと思っていた寮長が、自分より少し高い程度だったのに気づいて、自分が成長したのだとしみじみ実感する。
ジャスが寮長だったのは淳哉が六歳だった一年間だけで、翌年卒業して以来会っていない。あれから十四インチ(三十五センチ)は伸びているのだ。その実感は、じわじわと喜びを運んできた。あの頃より、自分は成長している。負けるしか無かったあの頃より、少しは良くなっているのだと、そう思えた。
「ところでその格好、どうした?」
グレンチェックのスーツに臙脂のタイを締めた格好を指摘され、淳哉は顔を顰めた。
「しょうがないんだ。持ってた服ぜんぶ捨てられて、今スーツしかない。シャツは下着だからジャケットも着なきゃってNG出されててさ」
「でも、タイまで締めて……」
「しょうがなく着てるなんてバレたらかっこ悪いだろ」
「……なんか大変なんだな」
ジャスはボストン大学で教職課程を取り、実習も終えて教師をしていたが、現在はロースクールに通いながらアルバイトで生活していた。
『東洋のプリンス家庭教師求む・教師課程履修中、あるいは履修済みの者に限る』
という求人があると聞いて、ギャラも良いし面白そうだと応募したら、面接で出てきたマウラがジャスを覚えていて、プリンスがジュンだと言ったので驚いた、と笑った。
「なんでこの学校に? コンコードの方はどうした」
「色々あって、今年からこっちに転入したんだ。ていうか誰がプリンスだって? マウラのやつ……」
チッと舌打ちすると、ジャスは「ヘ~イ、下品なプリンスだな」と笑う。それは柔和な感じの表情で、昔ジャスに感じていた、食えないやつという雰囲気はそこに無かった。
「なんか、感じ変わったよね」
そう言った淳哉に、ジャスは苦笑した。
「あのときは人生で一番テンパってたからね。寮長に選ばれた以上、あの連中に問題を起こさせないように見ている必要があったんだけど、本当はとても嫌だったんだよ。彼らと一緒に居る時間はストレスのカタマリだった」
なるほど、そういうコトだったのか。奴らに腹の裡を読ませないために、あんな感じになってたんだと納得し、淳哉はジャスの印象を改めた。
ともあれ、転入の際に決められた事項のうち、最も憂鬱だった家庭教師がジャスだったことで、淳哉の気分は一気に軽くなった。そしてますますマウラへの信頼を深めたのだった。
それに合気道の道場に通えるようになったのが、なにより嬉しかったので、その他の些細な事などすぐ吹き飛んだ。
畳敷きの道場は合気道だけではなく、柔道や空手、柔術なども行われていて、時間割で練習時間が決まっていた。そうは言っても、合気道は畳みで無くても練習出来る。柔道が道場を使っている間、外や体育館での稽古もあると説明を受けた。
毎日稽古出来るんだと嬉しくなりつつ、まず型の練習から始めると、なぜか基本の動作は身体が覚えていた。それまで何も考えずに日々トレーニングとしてやっていた動きが、合気道の基本だったのだ。
「おまえは経験者か」
指導の先生は聞いたけど、正直覚えてない淳哉は曖昧に笑って誤魔化し、筋が良いと褒められたのでラッキーだと喜んだ。
そのときは少し不思議に思ったが、深く考えようとすると酷い頭痛と悪寒に襲われた幼い頃を思い出すので、物事すべてあまり考えないようにする癖がついていたし、それに疑問を持ってなかった。
だってその方が毎日楽しいし、思い出せない事なんて、結局思い出す必要のないものなのだ。
ここの学習スタイルは、とにかく詰め込みだった。多くのことを覚え、それを元にすることで深くまで考えを進めることこそ重要と考えられているからだ。
オリジナリティ溢れる思索を完結させるには、リベラルで偏らない多くの知識が必要だ、という考え方は淳哉に合っていた。
ジャスの方針は淳哉が学ぶことに悦びを覚える方向を探すことだったので、二人で勉強を進めるのは淳哉にとって楽しい時間になった。
最初に自分の勉強法を話すと、ジャスは「すごいな……」と呟いた後、笑って「なるほど。了解した。任せろ」と請け合ってくれのだ。そこから効率的な方法を提案してくれて、時間のやりくりについても助言をくれた。
大学で教職課程を取り、毎年夏期には経済学などさまざまなカリキュラムjを受講していたジャスは、教職が安定していないことに疑問を持ち、ロースクールに通っているのだと言った。
そのように様々な経験と思索を経たジャスの知識は多彩で、なにを問うても凡庸では無い解を示す。風変わりだが独自の思考形態を持つ家庭教師は、淳哉をとても満足させた。
そしてやはり、ジャスを選んだマウラって凄いな、という感慨を深くしたのだった。
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