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三部 ジュニア・ハイ-4

 がっかりと肩を落とした金髪のドイツ人を見送ってから三日程のち。  淳哉は懐かしい訪問者を迎えた。  面会室へ入った淳哉を見て、満面に喜色を上せて椅子から立った東洋人。  鼻筋の通った上品な顔立ち。背が高いし堂々とした、青年と言うには貫禄はあるが、圧迫感を感じさせない柔らかな風情。  それは七年ぶりに淳哉を訪ねてきた兄、幸哉だった。 「淳哉! 大きくなったな!」  といっても正直、兄の顔の記憶は(おぼろ)で、はっきりしない。  妻と子供も一緒にきたとマウラから聞いたから認識できたのだけれど、言う必要はないと考え、おくびにも出さずにニッと笑い返す。 「……幸哉、老けた?」  すると兄も照れたように笑った。目尻に薄く皺が刻まれ、優しい印象が強くなる。 「もう三十三なんだ。歳を取るのは仕方ないだろ? 別れた時はまだ二十六歳だったんだぞ」  兄は親愛を込めた目で淳哉を見つめ、日本語で『大きくなった』と呟いた。淳哉が自分の顔を記憶していることを疑っていないようだ。  面倒だなあ、と思いつつ「そりゃ、僕だって七年分成長するよ」と笑い返す。 『淳哉、久しぶりね。覚えてる?』  そう聞いた美沙緒の言葉は日本語で、淳哉は少し戸惑いつつ『うん』と答えた。彼女もなんとなく存在を覚えているのみだ。 『英語でいい?』  そう言う淳哉に、「いいけど」と答えつつ美沙緒は少し怒った顔をした。 「あなたは日本人なのだから、日本語を忘れてはいけないわ」 「だってしょうがないよ。日本語を聞いたのは七年ぶりだ」  言い訳をしながら、美沙緒と手を繋いでいる子供に目をやると、兄が言った。 「覚えてるか淳哉。稀哉(まれや)だよ」  瞬く間に赤ん坊の顔が浮かんだ。 「ワオ! あの赤ちゃんが、こんなに大きく?」  淳哉はしゃがみ込んで子供と目を合わせた。淳哉がいまだに子供好きなのは、赤ん坊だったこの子が大好きだったからだ。 「ヘイ、ボーイ! 何歳だ?」  しかし子供は少し頭を傾げただけだった。美沙緒が『稀哉、何歳か聞いているのよ』と言うと、淳哉を見て『八歳』と答えた。 「八歳! すごいな!」  すっかり嬉しくなって、ニコニコと見つめてしまう。  美沙緒と同じ二重の大きな目、鼻や口許は幸哉に似ているように思った。いろいろはっきりしない記憶の中で、赤ん坊の顔だけは、なぜかはっきりと思い出せる。淳哉の指を握っていた赤ん坊の面影が目の前の子供に残っているのを発見し、さらに嬉しくなってギュッとハグすると、子供は身体を硬くした。 「マレヤ、相変わらず可愛いな。僕は君が生まれた時を覚えてるよ」 『あなたが生まれた時、このお兄さんもいたのよ。淳哉お兄さん』  稀哉は不思議そうに淳哉を見上げ『……お兄さん?』と聞いた。 『…あ~、ぼくは淳哉。名前で、いいよ』  うろ覚えの日本語をひねり出して言うと、稀哉はあからさまにホッとした顔をした。  とはいえ日本語では間が持たない。淳哉は甥っ子の頭を撫でてから立ちあがって、兄に顔を向ける。 「いきなり来るからビックリしたよ。今日はどうしたの」 「ドイツへ異動が決まってね。引っ越しにかこつけて十日間の休みをもぎ取った。……おまえに会いに来たんだよ」 「僕に?」  問い返した淳哉に、兄は口を引き結んで頷いた。 「そうだ。本当はすぐにでも、何度でも逢いに来たかった。連絡だって取りたかった。……しかしできなかった。すまない」  淳哉はニッと笑って首を傾げた。 「謝る必要はないよ。僕はけっこう愉しくやってる」  すると兄は苦笑を浮かべ、しげしげと淳哉を見つめながら「……おまえは変わらないな」と言った。 「そう?」  笑い返したが、淳哉にとって七年ぶりに会う兄とその家族に対して語るべきものはほとんど無く、それきり話題に詰まってしまった。どうしたものかと考えを巡らせて、ふと一つの顔が()ぎる。人の顔はあまり覚えない淳哉だが、さすがに三日前のことは覚えていた。  その手があった、と思わず頬を緩め、兄に顔を向けた。 「幸哉、ドイツからの留学生がいて、日本のことを知りたがってるんだ。時間があるなら会ってみてくれないかな」 「……かまわないが」  戸惑ったような兄へニッと笑い、「こっち」と案内しながら、もしかしたら兄は自分が感激して抱きつくとでも思っていたのだろうか、と考える。 (だとしたら勘違いもいいとこだよ)  だいたい兄のことは本当に断片的に、ほんの僅かなことしか覚えていない。なにを話せばいいのかも分からないのだ。  道場まで彼らを連れていき、フランツに声をかけた。 「ヘイ! 日本から親戚が来たんだ。紹介するよ」  水色の瞳を輝かせ、「本当に? いいのか?」と問い返した留学生は、兄と家族を紹介すると、興奮気味に日本語で話し出した。おそらく片言なのだろうが、淳哉よりよほど会話ができている。  美沙緒がフランツの質問に笑顔で答え、フランツは声を上げてさらに興奮した様子だ。とりあえず間が持つな、とホッとしつつ見ていると、兄がそっと声をかけてきた。 「淳哉。実はこれをどうしても渡したくて、今日は来たんだ」  そう言って差し出した封筒を受け取って中を見ると、写真が一枚、入っていた。きれいな女の人が笑っている。  怪訝に思いながら「誰?」と聞くと、兄は口を噤み、鉛を呑み込むように喉仏を上下させた。  その顔を見るのがなんか嫌な感じで、写真に目を落とす。マズイこと言ったかなあ、と考えていると、しばらく黙っていた兄の、押し殺した声が聞こえた。 「………お母さんだよ、おまえの」 「え」  思わず目を上げると、痛みに耐えるような兄の顔があった。気まずくなって写真に目を戻し、しげしげと見る。 (これがお母さん? なんか、違うような気が……)  違和感を感じながら写真を見つめていると、兄の手が肩に乗った。 「この一枚しか残ってないんだ。……済まない、淳哉……」  その声の沈痛さに驚いて目を上げた。兄は眉を寄せて唇を噛み締め、「………本当に申し訳無い……」と絞り出すような声で言う。  なんか困ったな、と思いながらまた写真を見る。やはり違和感しかない。淳哉の記憶に残っている母らしき人は、こんなにきれいじゃない。  すると沈痛な声音のまま、兄が言った。 「おまえに会ったら、まず謝ろうと思っていた。話そうと思っていたこともたくさんあった。だがマウラに、おまえは殆ど覚えていないと聞いた。信じられなかったが、………本当なんだな。おまえ俺の顔も覚えてないんじゃないのか」  嘘をつくのが嫌なので、淳哉は笑って肩を竦めた。すると兄は悩ましげに溜息を吐く。淳哉はまた(困ったな)と思いつつ、話が盛り上がっている様子のフランツと美沙緒を見た。 (なに話してんだろ。日本語だからよく分からないや。でもいいなあ、話すことあって)  こっちもつい、ため息が出てしまう。兄はますます低くなった声で続けた。 「俺は、ぜんぶ忘れて良いわけが無いと思った。最低限のことは知る必要があると思っていたが、おまえに会ったら分からなくなった。だから俺はおまえが聞きたいと思うことに答えよう。なんでも聞いてくれ」  淳哉は兄を見上げて首を振った。 「誰を気遣う必要も無い。知りたいと思うことは無いか」  重ねて聞かれ、その必死に見える瞳に笑い返しながら、淳哉は肩を竦めた。 「なにも無いよ幸哉。言ったろ? 僕はけっこう愉しくやってるんだ」 「……そうか」  あからさまに気落ちして呟く兄に、もう一度肩を竦めつつ、それでも淳哉は写真を丁寧に封筒へ戻し、ニッと笑い返す。 「幸哉、僕は毎日愉しんでる。なんだって愉しんだモン勝ちだろ? 思い出せないことは、必要無いことなんだよ。今は快適でまったく問題無いんだ。分かる?」 「……ああ、分かる。そうか、おまえはそうして頑張ってきたんだな。……済まなかった」 「だからどうして謝るのさ? 僕は……」  言い終えぬうちに兄は淳哉の肩をつかんで引き寄せ、息が詰まるかと思うほどきつく抱き締めた。 「なにかあったら、……なにも無くとも連絡をくれ」 「ヘイ、幸哉、どしたの」 「その封筒に、俺のアドレスを入れて置いた。遅いかも知れないが、これから俺は償いをしたい。おまえが必要無いと思っているのは分かった。だが、なにかしたいのは俺の勝手な思い込みだ。済まないが、俺のわがままを聞いてくれ。連絡をくれ、淳哉」 「分かったよ、連絡するから、苦しいって…」 「少し我慢しろ。ずっとこうしたかったんだ。七年分、抱き締めさせろ」  噛み締めるような、苦しげな声で囁かれ、淳哉は身体の力を抜いた。  こんな風に抱き締められたのは、いつぶりなのか思い出せないなあ、と思いながら。

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