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三部 Lovers-16

 朝食後、誘われて別荘を出た。  ゆっくりと山の緑を眺めながら、二人で山道を歩く。道は整備されていて、普通の服装でも歩きやすい。  いかにも都会の若者なくせに、淳哉は意外にも山歩きに慣れていて、透はいろいろ教えてもらった。聞けばマンチェスターの学校にいた頃、よくみんなで山歩きをしたのだそうだ。その時の楽しい話を聞かされ、透は歩きながら息が苦しくなるほど笑った。  昨夜星を眺めた場所へ到着すると、そこは緑のパノラマだった。こんな場所が家から一時間強の場所にあるなんて、と驚きを覚えつつ、景観を楽しむ。  夜星を見た時は二人きりだったが、日中はそれなりに人の来る場所のようで、行き交う見知らぬ同士で挨拶を交わしつつ、今度は沢まで降りた。木々の葉を通した涼しげな光に満たされたそこには清流が流れており、釣りもできるのだと教えられた。淳哉は身軽に石を踏んで、無造作に生えている草を抜き、透に差し出した。 「クレソンだよ。フレッシュだからおいしいよ」  野菜嫌いの透は、あまり生野菜を食べない。淳哉が作ってくれるドレッシングで()えれば、少しは食べられるようになったが、こんな川ばたに生えているようなものを食べた事など、あるわけがない。無理だと尻込みする透に、淳哉は何度も大丈夫だと言い、期待に満ちた笑みに押されるように恐る恐る口にした。  確かにあまり青臭くはないし、苦みも感じない。みずみずしさはあり食えないことはないが、やはり美味には思えない。 「悪くはないけど、そこまでうまくはないぞ」 「よーし、じゃあ絶対うまいと言わせる!」  眉寄せる透に、なぜかやる気をみなぎらせた淳哉は、大量にクレソンを採取した。 「どうすんだよそれ」 「任せてって」  言い合いながら別荘へ戻った。  淳哉はキッチンへ直行し、取ってきたクレソンになにやら手を加えている。見に行っても「ダメ、秘密!」などと言われるので、「いいだろ、見せろよ」とちょっかいを出しているうちに空腹を感じ、時間を確認すると昼をとうに過ぎていた。  背中を殴りながら「腹減った」と言うと、車で山間にあるログハウスの店へ連れていかれた。遅めの昼食は、手打ちのうどんを食べた。見た感じは洒落たカフェなのに、メニューは田舎のおばあちゃんの得意料理という感じで少し可笑しいとこっそり言い合いつつ、食後に透はハーブティー、淳哉はコーヒーを頼む。  飲み物を楽しみながら、窓から見える緑の木々を眺め、あれこれと話をした。  透が過去のことに話を向けても、今日の淳哉はなんの逡巡もなく、語り口も軽かった。 「僕は知らなかったんだけど、アメリカに行く前に父が僕のこと認知したんで、父の奥さんが怒っちゃって、僕を孤立させようとしてたんだって。兄は生まれたばかりの子供と妻を守りたいと思って、怒り狂う人に逆らわず、僕に連絡しなかった。それで何度も謝ってたんだけど、そんなの知らないからさ、困っちゃうよね」  この兄とその奥さんは、いつだって優しいんだよ、と笑みを向ける淳哉は、透に言い訳をしているようにも見えた。 「しばらくして兄の奥さんがアニメのDVDを送ってきたんだよね。お礼の電話したら『子供が日本語を覚えるなら、アニメが一番良い、たくさん見なさい』って言うんだよ。そういうもんかなあ、とか思いながらフランツ呼んで一緒に見たんだけど、フランツが大興奮でさ。選択がかなりマニアックだったんだって。後で聞いたけど、彼女、ちょっとオタク系だったみたいで。気が合うはずだよな、フランツも日本のアニメ大好きだったんだ」  それからは、兄一家がドイツから度々訪ねてきたのだという。兄一人で来ることもあり、マウラと三人で食事もした。  夏の休暇やクリスマス休暇など、それまでは帰省する友人達を見送って、ガランとした寮で過ごしていた淳哉を、兄はドイツに呼び寄せ、一緒にバカンスやクリスマスを過ごしたのだそうだ。兄一家と一緒に日本へ帰ることもあったという。  その時に奥さんからアニメの感想を聞かれるので、ちゃんと見ていないとマズイと感じたことや、甥っ子が『淳哉』と呼び捨てにする度に、兄が叱って親子喧嘩になるのを笑って見ていたこと、酔っ払った兄が愚痴のように淳哉の幼い頃のことを切れ切れに語って謝る、というエンドレスな状態を、奥さんや甥が断ち切ってくれたことなど、それらの話は暖かく透の心に染みて、安心させてくれた。  暖かい家族の温もりを感じることが、コイツにもあったのだ。 「まあともかく、定期的に送ってくるアニメ真剣に見まくったから日本語の語彙は増えたしフランツとも仲良くなった。ていうか彼女、かなり強引でさ、フランツに日本のことを教われとか言うんだよ。まあ確かにフランツの方がいろいろ詳しかったけど、あいつ偏ってるのにさあ」  学校でも親しい仲間が増えて、山歩きに出かけたりサイクリングで遠出したり、バスケットやフットボールの試合を応援したり、冬は友人に招待されたカナダまで行ってスキーをした、などと語る表情から、寮生活を楽しんでいたことも伺えた。その中で自然に早食いになった、と聞いて「なんでだ?」と尋ねた透に、淳哉はニッと笑った。 「そこも前の学校も、食堂ってバイキング形式なわけ。日本みたいにトレイに一式乗って“はいどうぞ”って感じじゃなくて、好きなのを好きなだけ取って食べるんだよ。そこに早く食べるメリットが生まれるんだ」  そう言うとアピールするように右手を挙げて、得意げな表情で人差し指を立てる。 「まずひとつめ。おっさんが目を光らせてて、山盛りに取っちゃいけないんだけど、早く食べれば堂々と人気のおかずをおかわりできる。二つめ。ホテルのバイキングと違って無くなったら終わりだから、早く食べればたくさん食べられる。いつだって僕は腹ぺこだったからね。三つめ。早く食べ終えれば、残りの時間は好きに使えるから、勉強したり、野球したりできる。良いことずくめでしょ」 「なるほどな」  時間を無駄にするとイライラするというこいつが、その時間に勉強、という言葉を入れたことに納得した。おそらく成績を下げずに皆と遊ぶ為、そういった時間を有効に使ったのだろう。 「最初はフランツと二人でDVD見てたんだけど、そのうち他の連中も僕の部屋に集まるようになってさ。ホラ、僕だけ個室だったから、都合良くて。もちろんアニメとか映画とか見てたんだけど、そのうちみんな秘蔵のDVDとか持ち寄って……もちろんエロいやつね。で、上映会、なんて感じになっちゃって。もうそっから猥談の嵐だよ。十三歳とか十四歳とかだから、みんな経験無いし、妄想で凄いことになっちゃって。鼻血出すやつとかいてさ、もう大変」  愉快そうに笑う淳哉を笑みで見ながら、少し羨ましく思う。  透はその年頃ピアノ三昧で、練習ばかりしていたので、同年代の子供と遊んだ記憶があまりない。あの日々を悔やんだことなど無いが、猥談した経験がないのは、そのせいか、とも思う。そもそも淡泊だった透に、そういった興味が薄かったとも言えるだろうが。 「そういえばおまえ、初体験十四歳とか言ってたな」  ふと思い出して言うと、淳哉は嬉しそうに笑みを深めた。 「なに、透さんも猥談したくなった?」 「ばか」  睨んでやっても、嬉しげな笑みは深まるばかりだ。 「じゃあ、ここだとマズイから、帰ろっか」  早速伝票をつかんで席を立つ男に「おいこら」と呆れた声を向けつつ、やれやれと透も立ち上がり、後を追った。 「いらないからな、そういう話は」 「またまた」  会計を済ませた淳哉と車へ向かいながら、内容の噛み合わない不毛なやり取りが続いたのだった。

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