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四部 シニア・ハイ-5

 バカンスの時期になれば、兄一家が迎えに来て、一緒に日本へ行く予定になっている。  実家を訪れる兄たちとは別行動で、淳哉はホテルに泊まり合気道の道場へ通う。一週間ほど日本で過ごした後ギリシャへ飛び、ヨーロッパを回りながら、ドイツの兄の家まで行く、という予定表だ。つまりそれまで待てば夏をやり過ごせる。新学期の始まる九月まで時間をおけば、ほとぼりも冷めると考えられた。  そういうわけで、兄が迎えに来るまでの期間、問題を起こさないように過ごさなければならない。  この夏はフランツやキースと一緒に、ボストンでサマースクールを受ける予定だった。もちろん、カリキュラムに興味を覚えたのだが、敢えてボストンに行こうと思ったのは、知己のいない町のホテルに仲間で宿泊するなら、遊び放題だと考えていたからだ。  しかしそれは取りやめざるを得ないと考えた。 「やっぱり学校に残ることにした」  フランツとキース言うと、彼らも行かないと言った。  いつも酒を買っていたマンチェスターにある個人経営のドラッグストア。  緩いだろうと見てそこに行ったのだが、案の定、気の良いコリア系の店主は、渋々金を出す演技をしたフランツにID提示を求めず、「アンタも大変だね」と酒を売ってくれた。それで味を占め、二人は何度かそこで酒を買っている。  フランツが又聞きした話だと、その店で店主が馴染みの客と話していたらしい。 「探してるって写真持って来たんだよ。そういえば金髪と東洋人の二人組がうちにも何度か来てたよなあ、あれはどこの誰なんだろう」  それを聞いた奴は「金髪と東洋人の二人組っておまえとジュンみたいだな」と笑っていたそうだ。もちろん、フランツが酒を買いに行ったなど思いも寄らなかったから、本人にそう言ったのだろう。  写真を持って探していたというのは、いったい誰なのか、なんの目的で店主に問うたのか、そもそも探しているのは自分なのかフランツなのか。  なにもかも不明だが、誰かがどこかから自分たちを見ていたのかも、と思えば不気味だし、今は目立つ行動を控えた方が良いだろう。法を犯したことが露見すれば、ほぼ確実に日本へ送還されてしまうのだ。  淳哉には日本で過ごした記憶が無く、何度行ってもそこが母国という実感が湧かない。 (そんな国でなにをしろって? 日本語だって覚束(おぼつか)ないし、帰りたいなんて感覚無い。遊びに行くくらいなら良いけど、むしろあんなとこで生活なんてありえない)  それにここで得た仲間との繋がりは、淳哉にとって、なにより大切で代え難いものだった。背に腹は代えられない。失いたくないと思えば自粛するしかなかった。  とはいえ、酒を買うときに、わずかでも自分に繋がる情報を漏らすなど、そんな迂闊なことは絶対にやってない。法に反しているという自覚があるのだから当然だ。  それに、身分が割れていないからこそ、写真では無く特徴で聞き込んでいたのだろう。なら、今はおとなしくして、バカンスに行ってしまえば良い。  学内では遊ばないと決めている淳哉とフランツにとって、出かけない=セックスができない、だった。自慰をバカにしていた手前、禁欲を余儀なくされることになる。  そう頭では納得したものの、我慢することを知らない若い身体は、自覚している以上にわがままだった。  性欲を抑えることを一切せず、週に二回は女性の体内で精を吐き出していた十六歳に、いきなり禁欲生活を強いても、十日と待たずに限界が見えた。じっとしていると、体内に(とどこお)った熱が放出を熱望してハリケーンのように吹き荒れ、目を閉じ口を噤んでも毛穴からなにか飛び出してきそうだ。  クラスでも自室でも集中できなくなり、いつもならスッと頭に入ってくるものが、まったく記憶できない。そのことにイライラしつつ、表には出すまいと、なんとか自分を律してはいたものの、とうとう合気道の稽古中に『余計なことを考えているようだ。集中できないなら帰りなさい』と師範に叱責されてしまった。  ハッとして己の不甲斐なさに唇を噛んだ淳哉は、師範と道場に礼だけすると、そこから飛び出した。  今までなにがあっても集中力を欠いたことなど無い。ましてなにより大切な稽古中に集中しないなんて、ありえない。  集中すれば周りが目に入らなくなり、物音も聞こえなくなって、自分の世界に簡単に入れた。それが普通だったし、そうなってしまえば面白いように記憶できる。これこそが自分の最大の長所だと自負していた。それができないなど、腹立たしいにも程がある。  我慢という訓練をしてきていないということに思い及びもせず、現状を打破するに、ただ耐えるしかない自分自身を殴りたいような感情しか、そこには無かった。歯を食いしばり拳を握り締め、ひたすら走る。  こんなとき、全身を覆うのは、荒れ狂った大海へなにもかも(さら)っていく大波のように、淳哉から意欲を奪っていく無力感だった。 『今の自分には力が無い』  そう痛感することが、幼い頃から幾度となくあり、その度に淳哉は自分を責め苛んで、力を持つ為になにをすべきか考え、実行してきた。こんな気分になるのは大嫌いだからだ。  だからこそ勉強や合気道に精進してきた。全ては一瞬でも早く、腕力だけではない、自分を自由にする力を手に入れる為に。 (大人の言う事をよく聞いて? よい子だと褒められるために? そんなの糞喰らえだ! 僕は自分で満足出来る自分になる!)  ほんの幼い頃にそう考えて、努力はしてきたつもりだった。それにより自分は成長したはずだった。  もうデカい男におびえたりしない。女性経験も積んで、望むように人を操作する術も身に付けた。それどころか優等生の仮面をうまくかぶって、大人や偉そうにしてる奴らを欺いている。酒を買うのだってなんだって、全部その為だ。  今はもう、無力な子供ではない。少しは力を持った。そう思っていたのに。 (満足できる自分に変わっている、はずなのに)  まるでダメだ、という内なる声が淳哉の脳内を駆け巡る。  叫び出してその声を打ち消したくなるのを、口を真一文字に引き結んで(こら)え、ただ早く一人になりたいと駆ける足は速度を増した。  道着のまま部屋に飛び込んだ淳哉はベッドに倒れ込み、余計なことを考えまいと股間に手を伸ばす。道着を緩め、熱を持った状態になっているモノを下着から取りだしてギュッと握る。  じん、と快感が生じ、無自覚に、ほう、と息が漏れた。自慰をバカにしていたことなど忘れ、そのまま手を上下に強く擦ると、熱が放出を求めて荒れ狂い、もう止まらなくなった。手の動きが激しくなり、夢中になって自らを追い上げていく。久しぶりの快感に目を閉じ、自慰行為に没頭した。  そうして一旦入り込むと、多少の物音は聞こえなくなるほどの集中力を、淳哉は発揮する。  心拍が上がり、呼吸が荒くなる。最短距離で頂上を目指し、手の上下運動を続けながら先端を親指で撫でると、溢れた先走りがぬるりとした感触を与え、一気に迫り上がった快感を受け入れる。  小さなうめき声と共に瞬間的な恍惚を甘受し、射精した。 「……ふう」  吐き出してしまえば急降下だ。一気に脱力感と虚しさに襲われ、(やっちまった)と溜息を吐き、始末をするかと目を開く。  と、動きが止まった。そこには人がいて、淳哉を見ていたのだ。 「え」  一瞬の驚きが過ぎ去って、なんとか理解が脳に降りてくる。ベッドサイドに立ち、淳哉を見下ろしていたのはジャスだった。

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