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四部 シニア・ハイ-17

「ジュン、遅刻だ」  淡々とそう言ったジャスに、やっと今日が家庭教師の日だったことを思い出し、ぼんやりと言った。 「ああ、ゴメン」 「いいよ」  ジャスは笑みで小さく首を振る。 「始めようか。……座って」  続けたジャスに、淳哉はまた「ゴメン」と返した。 「ジャス、僕は、なんか、今日、冷静じゃない。勉強しても頭に入らない気がする」 「……珍しいね」  フッと笑って、ジャスは椅子を示した。 「君がそう言うなら勉強はやめておこう。……まず座って。落ち着いた方が良い」  あくまで淡々と言うジャスの声が、淳哉のヒートアップした脳を、少し冷ましてくれたようだった。  背に手を添えて促され、椅子にトスンと腰を下ろして体の力を抜くと、いきなり走り始める前の感情が蘇る。 「…………っ」  思わず大声を出しそうになり、奥歯を噛み締めて堪えた。  はぁはぁと大きく息を吐き、まるでなにかから逃れようとするように背を丸め頭を抱える。まるで動物のような呻きが堪えきれずに漏れ、力が籠もった指先がガリガリと頭皮をかきむしる。  分からない。なにがあったのか、まったく分からない。  ただ“マズイ”という認識のみが頭を駆け巡り、怯える小鳥のように身を縮ませる。噛み締めた口許から荒い息と唾液が漏れていたが、普段なら絶対に見せない醜態をさらしている自覚はなかった。  なにかが、そっと背に乗った。  それはほんのりと暖かで、柔らかい。しばらくそこを温めていたそれは、やがてトン、トン、と軽く叩くようにした。そのリズムは一定で、ひたすら頭皮を痛めつけていた淳哉に、その感触だけが体感できた。  あくまで同じリズムを刻んでいく、優しい感触。それは徐々に淳哉の指の動きを衰えさせ、やがてぼさぼさになった頭を抱えたまま、指は動きを止めた。  徐々に息が落ち着き、クリアになっていく脳が、ここに至ってようやく、ぼんやりとだが自分がいったいなにをしたのか自覚させる。 「……なんてこった(マイ・ゴッド)」  思わず声が零れた。 「どうしたんだ?」  耳を打った声は、密やかで淡々とした静かなもので、まるで天からの問いかけのように思えた。  だから神への懺悔のように、淳哉は口を開く。 「女の子を殴った」 「どうして」  囁くような天の問いかけが続いた。 「酷いことを言うから」  震える唇から、震えたような声が漏れる。 「ひどいこと?」 「そうだよ、酷い……酷い、こと」  駄々をこねる幼児のように、自分を哀れむような半泣きの声。 「酷いよ、要らない、要らないもの、押し付け……要らない……っ」  小さく叫ぶような淳哉の声は震えていたが、背を叩く手のリズムは変わらず、静まりかえった寮の、二人きりの部屋にあるのは、穏やかで淡々とした声だけだった。 「いらないもの?」  静かに問いかける声は、ただひたすら優しく、自分を攻撃するものでは無いと感じられ…… 「要らない」  零れた声は激しく震えていた。 「要らない、要らない、お父さんっ、なんてっ、家族(ファミリー)つ、そんなものっ」 「……ファミリー?」 「そんなの要らないっ!」  瞬間的に激昂して顔を上げ、叫んだ淳哉の視界に、驚いたような顔をしたジャスがいた。  呆然と見返していると、ジャスはすぐに穏やかな笑みを浮かべ、乱れた淳哉の髪を撫でる。  妙に優しいその手の温もりは、こいつは敵じゃないと、それだけを認識させた。なすすべ無く呆けた顔をさらす淳哉の視界の中で、ジャスは、フッと笑って、「うん」淡々と言った。 「要らないんだね」  なにも言えずにただ頷くと、ジャスは笑みを深め、淳哉の肩に手を置いた。軽く揉むようなそこから、(ぬく)みがじんじんと伝播していき、心のささくれが溶かされていくような感覚に、淳哉はもう一度、呆然と頷いた。 「…………要らない……」 「……そうか」  ジャスはさらに笑みを深めて、おずおずと淳哉の背に腕を回した。ぼうっとしたまま抗わない淳哉の身体を、腕は少しずつ寄せていき、やがてしっかりと胸に抱き留める。  固い胸も腕も、忌まわしい記憶とは無縁のもので、それは淳哉を落ち着かせた。  甘えるようにジャスの胸に頬を押しつけていると、ジャスは淳哉の顔を上げさせる。黙って見返している淳哉にジャスは顔を近づけ、目を細めた。 「そうだね」  言葉と共に額に唇が押しつけられ、為されるがままの淳哉は、また抱き寄せられる。頭を優しく抱えるようにされると、耳が胸に押し付けられ、安定した鼓動が耳に響いてくる。 「そうだね。君はいつだって、貪欲になんでも欲しがっていて、けれどなににも興味が無いようにも見えた」  淡々とした声は、耳を押しつけた胸から響き、それは少しくぐもって、けれど暖かみを感じさせる音だった。ジャスが小さく咳払いをすると、気管を通る空気の音が内臓から響いて、それすらも温みがあった。呆けた淳哉の脳に、それらは自然に染み込んでいく。  目を閉じ、幼い子供が母親に縋るようにジャスの腕をつかむ。 「でも僕は思っていたんだ。きっと本当に欲しいなにかがあるんだろうな、てね。それがなんなのか、ずっと想像していたんだけれど」  背に回った手は、いつのまにか、さっきと同じように軽く一定のリズムを刻んでいた。胸を通して、暖かみのある声と、ゆっくりと落ち着いた鼓動、血管を血液が流れるざぁざぁという音が、耳を穏やかに満たしていく。 「初めて会ったとき、君はまだ六歳で、とても可愛くて、僕は一目で気に入った。君はいつも元気に振る舞っていたけれど、いつだってピリピリと張り詰めて、なにかを怖がっているようにも見えたのに……見えていたのに。無力な自分を責めたよ。僕はなにもしてあげられないまま卒業してしまったし」  耳を潤すそれらは、淳哉が無自覚に抱えていた根源的ななにかを思い出させた。いつしか淳哉は、暖かい闇の中をたゆたう胎児のように、身体から力を抜いていた。 「ここで再会した時、君はずいぶん元気になっていたけれど、週に二回、一緒に時間を過ごす間、少しずつ探っていって、やはり僕は思った。なにか欲しくて欲しくてたまらないものがあるのに、手に入らなくて代償行為に走っているのかな、ってね。ではなにが欲しいのか、考えたけれどやっぱり分からなくて、僕は想像するしかなかったんだけれど」  背を叩くリズムは変わらない。それに安堵して、細く息を吐く。 「君は気づいてなかっただろうけど、そうやって四年以上、僕は君を見ていた。そして、いつしか君を愛しく思うようになってしまった。なりたい自分を掴むために必死な君を心から応援したいと思っていたし、とてもかわいいとも思っていたから……なのかな。理由なんて……」  ふふ、と笑う息が、胸を通すと気管を通るくぐもった雑音になったけれど、それすらも他の何より落ち着く音だった。 「だから君が僕に触れた時、(やま)しい気持ちを悟られてしまったと思って焦ったけれど、そうじゃないことがすぐに分かった。君が僕を欲しがっているわけじゃなかったって、ただ目の前にあるものに手を伸ばしただけだって分かって……正直安心した。けど触れてくれて嬉しかった。僕はそれでよかった」  あくまで淡々と語る声がなんなのか、やっと淳哉は認識した。 (ああ、これは、ジャスだ。家庭教師の声だ) 「ただ、そんなの君は望んでないだろうけど、……それ以前より君を可哀想に思ってしまった」  何を言っているかという理解までは及ばなかった。ただ、その声と包まれる心地よさに浸る。 「君のセックスは、性欲を満足させるためのものじゃなかった。どこをどうすればどうなるか、君は研究しただろう? 君の学習能力を僕は知っていたけれど感心したよ。そうやって有無を言わせず君に溺れさせようと、僕を支配しようとしてたのかな。実際、溺れそうになったけれど君は……僕を欲しいなんて思ってなかった」  淳哉を心地良く包み込んだまま、ジャスは少し笑った。揺れる身体と胸の中を通る呼吸の乱れがそれを感じさせた。 「……君の欲しいものはきっと、形あるものじゃないんだね。きっと、なかなか掴めないものなんだろうな。どんなに高価でも稀少でも、それ以外は君にとって、ただの楽しい玩具(おもちゃ)なんだろう、僕も含めて。手に入らないことを嘆かないための代償行為、なんだろうな。けれどジュン、君、なにを欲しいと思っているか自覚してないだろ?」  フッと笑うような息が髪にかかる。 「君自身が分かってないんだから、僕に分かるわけが無いよな。なのに君は、諦めようとしてない。なんでも手に入れているのに、なにが欲しいのか分かってないのに、それでも欲しがるなんて、どこまで貪欲なんだろうね。そんな君が、僕は愛おしいよ」  淳哉の背を、同じリズムで叩きながら、落ち着いた声のトーンが変わった。 「ただジュン。ひとつだけ、僕にも言える事がある」  ひたすら優しかった声が、家庭教師の声に。 「きちんと自覚しないと、結局なにも手に入らないで終わってしまう可能性が高い。君の欲しがるものは、きっと意識しなければ手に入れることが出来ないだろう。そんなリスクは潰しておかないと。失敗も負けるのも嫌いだろ?」  背を叩くリズムが止まり、淳哉は目を開く。視界にはジャスのシャツがあった。 「それに黙って与えられるのを待つなんて君らしくない。主義じゃない、んだろう?」  そう言ってジャスは、淳哉の肩をつかみ、胸から引きはがした。  心地良いまどろみから無理矢理すくい上げられ、外界の光に晒された赤子のように、ぼうっとジャスの顔を見返す。 「ちゃんと考えるんだ、自分のことを。君はもっと、考えなければいけない」  ジャスは顔を覗き込んで目を細める。 「ああ、もう近くにいられないな」  そう言ってクスッと笑った家庭教師の、あまり特徴のない顔。けれど暗い緑の瞳は、なぜだかとても優しい。  それは淳哉に何も求めていなかった。ただ与えたいという感情、それしか見えない。 「言ってしまったら、僕は欲張りになって……辛くなるのは見えてる」  こんな顔だったっけ、と見ていると、笑顔の眉尻が少し下がる。 「今日で家庭教師は終わりだ、ジュン」  ジャスは低く囁いた。 「実はね、ロースクールは昨年の五月に卒業しているんだ。その時に家庭教師を辞めるべきだと思って、でも週二回、君に会う時間を失いたくなくて、それから一年間、アルバイトで繋いでた。けどもう、終わりだ。だから………ジュン」  ジャスは言葉を切って、顔を近づけてくる。ぼうっとしたままの唇にジャスのそれが重なり、淳哉は目を閉じた。 「愛しているよ」  言葉が、唇のすぐ傍で響いた。そのすぐ後にまた触れた唇は少し震えていた。ずっと安定していた呼吸が乱れて、淳哉は少し不快になる。僅かに眉を寄せたことに自分でも気づかずにいると、ジャスは淳哉から離れた。  本をバッグに放り込む音。そして足音が鳴り、ドアが開閉され、古い寮の廊下を歩き去る足音が響く。  淳哉は目を開いた。  見慣れた寮の部屋は、いつも通りに散らかっていて、そこには誰もいなかった。  それが当たり前なはずなのに、淳哉はひどく寂しいと思った。

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