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四部 シニア・ハイ-16
二人きりになるのは危険な感じだし、余計な見物人は作りたくなかったので、待ち合わせは学外のカフェにした。愁嘆場になったら面倒なので、家庭教師が来る日を指定する。なにを言われようと『家庭教師が待っている』と立ち去る予定だ。
ビジネスマンや大学生の集うカフェは、午後3時だとあまり混んでいない。
強い日差しをシェードで避けたテラス席で、ケイトは手許のPDAを操作しながら、なにかのジュースを飲んでいた。
そこへ行き、「ハイ」と声をかけると、ケイトはPDAから顔を上げ、いつも通りの自信に満ちた笑顔を淳哉に向ける。向かいに座りつつ見ると、飲んでいるジュースはオーガニックのものだった。
どんなときもヘルシーだとか正しいとか、そういうことを重要とするステレオタイプの考え方が、実は淳哉は大嫌いだった。二人で話していた時も、どうやって彼女の弁舌をやり込めようか、そんな事ばかり考えていて、それがエキサイティングだったのだと思い出す。そしてディベートが面倒になったら、子供の頃の話をして黙らせる。そんな繰り返しだった。
それを、会話を楽しんで最後に甘える、と解釈したであろう彼女のおめでたい頭に心底苛立ちつつ、淳哉は飲み物を持たぬまま、向かいの椅子に腰を下ろした。長居する気が無いという意思を込めて、ニッと笑いかける。
「やっと出てきたわね。臆病な子羊さん」
笑顔で言われ、ムッとしたが顔には出さずに無表情を保ちながら、淳哉は煙草を取りだした。
「ああ~、ここじゃ吸えないか」
わざとらしく肩を竦めて、煙草を胸ポケットにしまう。健康的であることを最も重要と考えるケイトのような奴の前でやる、これはデモンストレーションのようなものだ。
「煙草を吸うなんて知らなかったわ」
案の定、ケイトは顔を顰めて指摘した。
「君の前ではカッコつけてたからね」
常に煙草を吸わずにいられない自分をアピールしたくて、時々こうするけれど、実際は部屋で酒盛りする時、たまに吸う程度だ。
「やめるべきよ。有益なことなんて、ひとつも無いでしょう」
「君に従う気はないよ」
これをやるのは、相手の推奨する条件には当てはまらない人間だということを、分かりやすく伝えるのに有効だと考えるからだ。
しかし長い会話をする気はない。淳哉は両手を肩の高さに挙げ、手のひらを向けることで彼女の弁舌を封じ、少し首を傾げて問いを向けた。
「それより重要な話があるって?」
「ええ、そうよ」
ケイトは意味ありげに笑みを深め、声を低めた。
「あなたには本物の家族ができるの。おめでとうと言わせてもらえると思うわ」
また“家族”か。そう思って、淳哉は鼻で笑った。
(まったく、なんだってそんなものに拘るのか、意味分からない)
もうケイトの前で自分を繕う必要を感じない淳哉は、彼女を心の底からバカにしている、と言う態度も露わに言った。
「それを祝福する気分にはなれないけど、具体的になにが言いたいわけ?」
ケイトは一瞬目を伏せ、茶色の瞳に探るような色を乗せて淳哉を見る。
次いで彼女はなにかを言った。
躊躇うように開いた唇から出た言葉は、けれど淳哉の脳を漂白したようにまっ白にさせ、その意味が掴めない。
「……なんだって?」
聞きたくない。その意味するところなど知りたくない。
けれど問う言葉が出たのは条件反射のようなものだった。
「だから」
ケイトは焦れったそうに言葉を継いで、淳哉はそれが出てくる彼女の、薄めの唇を、凝視した。
「あなたはお父さんになるのよ」
ようやく言葉が、脳内に反響する。
「赤ちゃんができたの」
しかしその意味を正確に理解するのには、さらに時間が必要なようだった。
「本当の家族ができるのよ。私と、子供と、あなたと」
聞いてもいないのに次々と言葉を発するその唇から視線を引きはがし、淳哉は席を立った。
とにかく現状を理解しなければならない。
しかしじっとしてなどいられなかった。淳哉は身を翻して足早にそこから離れようとした。
未だに意味を理解しようとしない脳内には、同じ言葉がリフレインを重ねている。
“お父さんになるの”
その言葉の破壊力は凄まじく、思考力を完全に奪われた淳哉は、勝手に動く足に任せてどこへともなく歩いていた。
(とにかくここから離れなきゃ)
それしか考えられない頭は、ただひたすら足を動かす。
やがてなにかが淳哉の腕をつかみ、強い力で動きを止めようとした。反射的にそれを振り払い、さらに進もうとすると、胴になにかが巻き付いて、進むことを阻んだ。
「離せっ!」
小さく叫びながら身悶えする淳哉の耳に、誰かの声が飛び込んで来た。
「落ち着いて! 大丈夫よ、落ち着いて!」
自分は落ち着いている。そう考えて頭を振る。
いや、そうじゃないかも知れないが、落ち着く為にここから離れなければならない。なのに動きを阻むものは胴に巻き付いたまま、力を強めるばかりだ。焦れったさに地団駄を踏み、身体を揺すると背中に柔らかい感触があり、潰れた胸が押しつけられているのだと知覚した。
「落ち着いてジュン! 誰もあなたを傷つけないから!」
まさにたった今、淳哉の思考能力を破壊した声が後ろから聞こえ、淳哉は動きを止めた。
首の後ろに息がかかり、ケイトの声が囁いた。
「落ち着いて 」
どこにリラックスする要素があるんだ、と思った淳哉は、緩んだ腕から脱出し、敵に身体の正面を向けた。背後を取られてはいけない。
「驚いたのよね、ジュン。でも大丈夫よ」
そう言ったケイトは、淳哉の手を取り、手のひらを自分の腹部に当てて、慈愛の籠もった眼差しを向けた。
「ここに、あなたの赤ちゃんがいるの。命があるのよ」
言葉の正確な意味など分からない。
ただ、そこに元凶があるのだ、という事だけが頭を支配した。
視線に険を乗せ、茶色の瞳を見返した淳哉は、ケイトの肩を押さえた。
腰を落とし、肘から下に力を集中させるべく力を溜め、掌底で腹部を強く打つ。ケイトは瞳に驚きを乗せ、淳哉から手を離した。自由になった手は拳を握り、重ねて腹部を殴った。
合気道でも打撃を行うことはある。フランツと、空手の打撃との違いについて語り合ったこともある。だが今、そんなことは頭の片隅にも上らず、ただ握った拳で、何度も腹部に打撃を続けた。
(こいつ鍛えてるから、腹筋があるから)
そう考えると、打撃は徐々に強くなり、ケイトはうめき声を上げた。誰かが淳哉の腕や肩を押さえ、なにかを叫んでいる。ケイトは淳哉から離され、視界から消えた。
そうして、やっと敵が消えたと感じた淳哉は、身体から力を抜いた。
ただ、元凶を消し去ることができたか否かだけが、淳哉の脳内で警鐘を鳴らし続けていて、視界をさまよわせるが、目の前に人たちに遮られ、危険なものは見えなかった。
ひとまず排除した。そんな安心感から暴れるのをやめると、淳哉を抑えていたなにかも力を緩めた。
その一瞬の隙に身をよじって束縛から逃れ、追う手を掴んで足払いをかけ、当て身を喰らわせて走った。
すべてが全くの無意識だった。日々重ねた鍛練は、考える前に身体を動かしたのだ。
走って走って、ひたすら走って、どこに向かっているかの自覚も無く走って、気づくと学校の敷地内に戻っていた。そのまま何も考えずに寮へ向かい、階段を駆け上がって自分の部屋に飛び込むと
そこにはジャスがいた。
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