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五部 Lovers-20

 三日間の休日を楽しんで共に暮らす部屋に戻り、翌日から通常通りの生活に戻ったが、そのあたりから二人の生活は少しばかり変化し始めていた。  透は音楽関連の書籍や音源などを販売、もしくは斡旋する店舗に勤めているのだが、毎日店に通う勤務から週三回程度の不定期勤務に変わった。自宅で仕事する機会が増えたからだ。  もともと音楽大学で助教授をしていた透は国際的な人脈を持っており、欧州をメインに活発に活動していた。しかし発病して大学を辞め、そういった活動の一切から身を引いて、病気療養の傍ら店舗で勤務するのみになった。ごく個人的な依頼を受けてレビューを書いたり評論を寄せたりといった程度のことはしていたけれど、たまにバイトする程度の感覚でしかなかった。  しかし有名誌で賞を受けたことから、海外の知己、かつての人脈の隅々まで透が今も活動していることが知られた。彼らは『もう透は活動しない』『病気療養の邪魔になってはいけない』と考えていたが、活動再開したなら頼みたいことがある、などと声をかけてくるようになったのだ。  そうして来る話は、今までと同じように店舗勤務の傍ら受けるには困難なほどに多かった。  透としては、どん底の時に生きる術を与えてくれた店長に恩義を感じていたため、店に迷惑をかけたくない気持ちが強かった。店の仕事を辞める気はなかったし、勤務日数を減らすくらいなら依頼を一切受けない方が、などと考えていたのだが、そう伝えた店長自身に諫められた。 「透ちゃん、考え違いをしてはダメ。生きてる以上、自分のできる限りの結果を残すことを優先させるべきなんだからね。アタシは透ちゃんがどんなものを残してくれるか、楽しみにしてるのよ」  そして透の体調を考え、店での勤務自体やめて、依頼を受けることを優先させるべきと説いたのだが、透が店に勤務し続けたいと強く願ったので、折衷案として不定期勤務となったのだった。  透としても、音楽関係の依頼が増えた嬉しさはあった。ありがたいと思いつつ、店へ迷惑をかけたくない、ましてしばらく離れていた世界に我が物顔で戻れるものか、できるとしても戻ってよいものか、などと考えてしまっていた。そんな透の背を押したのは、大学の先輩でもある間宮だった。  店長と間宮の説得により透も積極的になり、昔のコネクションを復活させて頻繁に連絡を取るようになった。  そして私立高校の英語教師をしている淳哉は、学校祭で行われる英語劇の監修をすることになり、帰宅時間が遅くなり、休日出勤もせざるを得なくなった。つまり透と過ごす時間が減ったのだ。  そして食事だ。透は殆ど料理をしないので、レンジで温められるように毎食用意しているが、それでは生野菜が取れないのだ。最近は苦手だった野菜もかなり食べてくれるようになって、言いしれぬ達成感を感じていただけに、そこは不愉快だった。  それに栄養とか考えてめちゃくちゃ真剣に食事作っているのに、透はこっそりケーキなんぞ買って食っていたのだ。甘い物が好きなのは知っていたし、以前は淳哉も買ったことはあったが、栄養を優先して最近はスルーしてた。透の希望を無視した感じになっていたことに気づかなかったのは淳哉の負けだし、隠れて買って食うなんて、裏切られたようで不愉快だった。  一緒に風呂に入って髪を洗ってあげる日課も全然できてない。そのことを謝った淳哉に 「なに言ってんだ、そんなの気にするなって」  透はイイ笑顔で言った。 「床屋のおやじと久しぶりに色々話せて楽しかったよ」  信じられないことに、もともと透は二日に一度、床屋へ洗髪しに行っていたのだ。そこに戻ってるらしいのも悔しい。  そして当然だけど、セックスもできない。これは大問題だ。  淳哉が帰宅すると、透はたいてい眠っている。  たたき起こして『やらせて』と言いたいところだが、淳哉も一応気を使って暴挙は控える。透にとって、質の良い睡眠は重要だから、ここは我慢して起きている時にお願いしようと決心しつつ、起こさないよう、そっとベッドに入る。  ちなみにベッドは、かなりでかいダブルベッドだ。  いつもくっついていられるから、という本音を隠した「セミダブルで良いでしょ」という淳哉の意見は却下され、ゆったり眠りたいと主張した透が決めたベッドだ。寝心地を優先した結構高価なものなのだが、実質セミダブル分の面積しか使われていない。淳哉が常に透に抱きついて眠るからなのだが、それはともかく。  起こさないように入ったベッドは透の体温で暖まっていて、寝具の中は透の匂いが充満しているわけで。呼吸するだけで淳哉的に刺激的な香りが胸郭と鼻孔を直撃し、一気に欲情してしまうのだ。いきり立つ股間を我慢させることに慣れていないので、この時点で淳哉は開き直る。 「だってしょうがないよ。別荘からヤってないもん。絶対的に透さん不足だし」  透が聞いていたなら「透さん不足ってなんだ」と呆れるだろうが、ともかく少しでも触れたい、抱き締めたい、できればセックスしたい。そんな煩悩に溢れた状態で、一つ布団の中に目当ての相手が居れば「誰だって耐えられないよ!」と主張したい淳哉である。  抑えがたい衝動のまま透に抱きつき、寝てるから怒られないだろうと甘い事を考えつつ首筋に荒い息を吹きかけ、あちこちキスしながら股間を擦りつけ、射精まで持って行こうとする。のだが、ついつい突っ込みたくなり挿入の準備を始めてしまったりするから当然、途中で起きた透に叱られてベッドから追い出され、浴室で処理することになる。しかも、処理したとはいえベッドに戻れば同じ状態になると想定できるので、ソファで眠ったりしている自分が非常に情けない。 (あ~もう、透さんの中にぶちこみたい。めいっぱい色っぽくさせて縋り付かせたい。でも戻ったらせめて抱っこさせてもらって、感触と匂いだけでも。あ~めっちゃせつない。透さんが足りないよ~)  そういった生理的な問題も大きいが、メンタル的にも淳哉は大ダメージを受けている。  学生時代まではステイツから日本に移動したり、外出に制限がかけられるなど、大人の事情に振り回される感が強かった。だが大人になれば自分のことに自分が決定権を持てる。そうなればもっと全能感を持てると思っていた。  なのに働きはじめてから感じている現実は想像とかなり違った。むしろ自分にできないことがどんどん見えてきて、がむしゃらにやらねばという気分になってくるばかり。  透の病気にとって、ストレスは良くない。逆にストレスを感じなければ良い状態が保たれる可能性が高まる。  そう医者から聞いて、淳哉は日々いろいろと心がけているつもりだったし、その効果は出ていると思えていた。  以前の透はしばしば、わけの分からないマイナス思考へ走っていたのだが、一緒に暮らすようになってから、そういった状態に(おちい)ることが少なくなったように思う。良く笑うようになったし、顔色も良くなったように思えるし、透も体調がよいと言っていて、事実このところ発作も起こしていない。  できることなんて食事やマッサージなどのケア、体温調節なども含め透が無理をし過ぎないように気を配ること、その程度だけれど、透の笑顔を守れていると思えていた。  なのにそれすら多忙で不可能となれば、自分が透にとって取るに足らない無能であるような気分になる。  そして、どうしても気になるのは、透が引きこもってしまっていることだった。  そもそも透は職場と自宅の往復以外、定期的に通院する程度の外出しかしない。以前は『Bar dusk』(ゲイの集まるバーで、二人の出会いの場所だ)へも顔を出していたが、付き合い始めてからはひとりで行かなくなった。淳哉が嫌がるからだ。  つまり出勤することがなくなると、ずっと閉じ籠もって仕事をしている。誘えば食事や買い物に出かけるし、その時は楽しそうにするのだが、誘わなければ殆ど外出しない。それが淳哉には引きこもりとしか思えず、『それはいけない』と強く考えていた。  透の病気にはストレスが良くないし、閉じこもっていてはストレスがたまるに決まっているからだ。  だから淳哉には運動不足の塊にしか見えないPC前で座りっぱなしの透を連れ出して、少しでも運動させたい。しかし多忙になってそういうこともできなくなっている。  なのに透はとても楽しそうで、朝の共に過ごす短い時間にも「忙しい」「締めが迫ってるんだ」「まいるよな、まったく」などと文句を言いつつ瞳はきらきらと輝いているのだ。この現状は喜ぶべきだと分かってはいる。  けれど、スッキリしない。  仕事のことで悩んでいたのを気づかないまま、間宮の助言で問題が解決したことを知らされたのは、全て終わった後だった。その時いかにショックだったか。 (例え透さんが口に出さなくても察して当然だろ! 一緒に暮らしているのはなんの為だ、まったく!)  顔を合わせる時間が少なすぎたという言い訳はできる。透が仕事の上での相談を淳哉ではなく間宮に向けたのが当然だという事は分かっている。間宮を頼りにしていることは悔しいのだが、間宮と同じことができるかと問われれば、できないと答えざるを得ない。仕事に関して淳哉のできることなど、殆ど無いのがくそったれな現実だ。  仕事が充実している今の状態が透にとって良いことは事実で、それをもたらしたのが間宮であるのも、認めたくないが事実なのだ。  反して、できることが生活のケア程度に限られる淳哉は、第一命題である『透さんを守っていくこと』を全うするに自分が圧倒的に力足らずなのではないか、いまだになんの力も無い単なる若僧に過ぎないということを歯軋りと共に認めるしかなかった。今の状態の透を継続させたいと本気で熱望しつつも、自分が手を出せない部分に歯がゆさが強まるばかり。  この状態は淳哉にとって非常にストレスフルだった。  実のところ、透はもともと閉じこもりタイプで、まったくストレスは無かった。大学時代も研究室に閉じこもっていたし、発病して以降も友人との交遊や買い物をネットで済ませているのだ。むしろ通常営業である。  メールや通話で意見を交換したり、新たな文献を入手したり借りたりと活発に行動しているし、それぞれの個室プラス寝室のある3LDKの部屋に、書類などの入った封筒や書籍やCDなどがどんどん増えていることにも、そういた状況は表れているのだが、淳哉はそういったことに気づかない。  淳哉の仕事が忙しくなったことに関しても、疲れはしないかという心配はありつつ、若いんだから仕事頑張れと密かに応援していた。むしろ淳哉が仕事を頑張っていることを喜ばしいと思っているのだが、淳哉には伝わっていないのだった。

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