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五部 Lovers-21

 僕らの住む部屋はやたらハイグレードな3LDKで、部屋を決めたのは透さんだ。全体が防音になっているとかで、やたら家賃が高い。けど透さんが 「俺は荷物も多いし、ピアノもあるし、防音になっていないと家で仕事するとき支障があるんだ。淳哉はそこまで必要ないだろうけど」  と言うから、納得するしかなかった。実際、よく分からないレベルで豪華なオーディオ機器とピアノがリビングの半分を占めてるし、透さんの使う個室の方が僕の個室より広い。寝室は共同だけど、透さんの方が部屋の大半を使っている。 「俺のが部屋も多く使うし、家にいる時間長いし。それと淳哉、運転手としてコキ使うから覚悟しとけよ。車って金かかるんだろ? その分、家賃さっ引いとくからな」  つまり僕の家賃負担は全体の三割ほどでしかない。駐車場代は払ってるけど、気づいたら光熱費は透さんが負担してる。  そこに不満はあるが異論はない。ていうか不満があるのは自分自身の不甲斐なさ。  以前、透さんがひとりで住んでいたところも高そうな2LDKだったし、この生活が当然の透さんに、収入レベルが低い自分に合わせるように頼むなどするべきではない。僕は働き始めて1年ちょっとで、貯金はあるし大丈夫だって主張しても、収入だけで言えばやっと自分で生活できるようになったレベルでしかない。透さんが気を使ってくれてるんだろうって分かるし、貯金で僕が家具とかは買ったから、それで納得するしかなかった。  こういう時、うっかりすると無力感が湧き上がってくるので注意しなければいけない。ネガティブになって良いコトなんてなにも無い。  ていうか透さんが落ち込むきっかけがなんなのか、まったく予測がつかないってことが凄く気になるんだ。  本当ならつぶさに観察して予防措置を講じたいのに、忙しくなって傍で透さんを見守ることができないこの情況は、予測不能な何かを呼び込むような気がして、すごく嫌だ。  ていうかさあ! いつもならストレスを呼ぶことなんか考えないんだよ、僕は!  気に食わなくてもOK、OK、いいんじゃない? なんて感じでスルーして忘れちゃえば愉快に過ごせるんだ。  けど透さんに関してはまるでダメだ。スルーも忘れることもできない。職場でも運転中も、なにをしていても、ついつい透さんのこと考えてしまう。 (晩ご飯ちゃんと食べたかな、薬もちゃんと飲んだかな。ていうかもうこんな時間じゃん。もう風呂入っちゃったよな。今日も髪を洗ってあげられなかった。マッサージも) 「サキちゃんっ! なにボーッとしてんだよっ!」  想いを中断する怒鳴り声に、(頭の中は大忙しなんだよ)と脳内で反論しつつ、厳しい表情を声の方へ向ける。 「ああ? 誰がボーッとだって?」  舞台上で舞台監督をやっている生徒が、憤慨した様子で声を張り上げた。 「だからさっきから言ってンじゃん! ここ! コレじゃ無理だよって!」  どうやら何度も呼ばれていたらしい。没頭すると声が聞こえなくなる癖は、いくつになっても治らない。  なので淳哉は空っとぼけて「声小さかったんじゃない?」と(うそぶ)きつつ立ち上がり、示した本を全力で叩いている舞台監督へと歩を進めた。  問いかけは舞台の一場で使う機材に関してだった。事前に申請していたものでは大きさが合わないことが発覚したのだという。手許のカタログを見ると、希望に合う機材はもともと申請していたものよりレンタル料が高い。それの手配は生徒側でやるが、資金面が心配だという。カタログをつぶさに見て、おそらく通るだろうが、現時点で確答は無理、と伝えつつ手続きはすると約束した後、淳哉は欠伸(あくび)混じりに「面倒だなあ」などと呟きながら椅子へと戻る。 「ちょっ! サキちゃんそれはねえだろっ! それでも顧問かよっ!」  やたら熱くなっている舞台監督にヘラヘラ笑いながら「なんちゃって顧問だから~」と手をヒラヒラ振って座り、腕組みして舞台を見る。再開した練習を見ながら、また考えに嵌っていく。  私立高校というのは毎年新人教師を採用するわけではない。ゆえに二年目になっても僕はぺーぺーのままで、適当に仕事を押しつけられる後輩はまだいない。それどころか適当に仕事を押しつけられてこのざまである。  もちろん盛大に渋ったし、家庭の事情がとかなんとか無いこと無いこと言って抵抗した。けど業務命令の一言で一蹴された。妻帯者ばかりの職員室で家庭の事情を言い立てても「おまえ独身だろう」と言われ分が悪いし、ここは母校で、高校時代から僕の家庭事情や本性を知ってる教師が多いので誤魔化せない。  どんなシチュエーションであっても要領よく立ち回って労力を最小限にすること、得意なんだけどな。母校てのは、なにかとやりにくい。  といっても、彼らは自主的に劇を作り上げている。  ここは都内でも有数の進学校だし、生徒たちは優秀で、あんまり手はかからない。僕の仕事といえば、英語的表現についてのちょっとしたアドバイス、学校の設備を使用する際とか費用の追加が必要な時の申請書類のチェック、そんなものだ。  しめた楽ができる、と思ったのに演劇部の生徒は全員寮生で、敷地から出ないので外出許可は必要無いし、学校行事の練習だから点呼も免除されるしで、就寝時間の十時直前までみっちり練習しやがる。ゆえに学校の設備を深夜まで使用する連中の見張り、もとい監視役……というか夜間に学校設備を使用する際は指導教師の立ち会いが必要、という理由でここにいることを求められているわけ。  彼らが寮へ戻ってから施錠を確認し、職員室に鍵を戻してから、やっと帰宅できる。そして翌日も通常通り朝から勤務。土曜日曜もこのスケジュールなので、このところプライベートタイムはほぼゼロだった。  なんであろうと全力で立ち向かうことに僕は肯定的だし、生徒達が本当に一所懸命で全ての時間を練習に費やしているのを目の当たりにしてるから協力してやりたいと本気で思う。  けど同時に、今すぐ生徒の首根っこをつかんで寮へ叩き込み『さっさとベッドに入れ!』と命じて自分も家に帰りたい、という衝動も常にあるので、のほほんとした顔で座っているが、内心では不毛な闘いが繰り広げられていた。  そんなのは疲れるので、他のことを考えよう。無理やり思考の方向を転換させる。 (劇の練習なんて見てると、思い出すやつがいるよなあ)  マンチェスターで共に学んだキースは、演劇に傾倒したまま大学に上がり、情報処理方面を専攻しつつ演劇のクラスも取っていた。今は映像配信の会社で働いているが、同時に舞台役者としての活動も続けている。  今までは年に二~三回は渡米して、当時の仲間と顔を合わせていた。もちろんチケットを売りつけられたキースの公演に合わせる形だ。その時は全員が集まり、くだらない会話と酒盛りで数日を過ごす。最近はマッチョを目指すと公言したリックを弄るのが楽しい。  けど透さんと付き合ってから日本を離れていないので、ここ一年くらいは一人をのぞいて直に顔を見ていなかった。とはいえ連絡は定期的に来るし、キースの野郎は行けないと言っているのに芝居のチケットを売りつけようとする。まあ買うんだけど。 (うわ~こんな時間だよ。透さんもう寝ちゃったかな。そういえば昨日は髪の匂いが違った。また床屋で洗って貰ったのかな。僕が洗ってあげたいなあ。おやすみのキスもしたい。ていうかもう抱き締めたい)  アメリカ時代の仲間のことを考えていたはずなのに、いつのまにか思考は透さんに流れていた。そうなるとまた物音が聞こえなくなる。集中すると外界に鈍感になるのは、教師という職業にはあまり向いていない癖だ。  とまあ、このように余計なことを考えて意識を逸らすという方法も無効なので、イライラが募るばかり。  なぜこんなにも透さんのことばかり考えてしまうのか。  理由は分かっている。不安なのだ。  何度打ち消しても浮かび上がってくる考え。つまり透さんがいつか目の前から消える、かも知れない、ということ。  それは死によって、なのかも知れないし、そうでは無いかも知れない。僕の方が早く死んでしまう可能性もあるが、それはいい。いっそその方が良い。それなら怖くならずに済むからだ。  そうではなく、なにか別の理解できない理由で、透さん自身が離れることを選ぶかも知れない。  もう二度と透さんから離れたくない。それは透さんを手に入れたと思ってからずっと、強迫観念にも似た執拗さで迫ってくる感情だ。だからそれを阻止しようと、あらゆる方策を講じてきたつもり。力不足を補うべく、透さんに注視して目一杯気遣って。それはまったく負担ではなく、むしろ楽しいことだけれど、いかに努力を重ねても予測のつかないことというのはある。  理解できなければ予測も立てられず、事態をコントロールできない。何が起こるわ分からない状態は怖い。  いつもなら理解できないと思ったらすぐ、意識を逸らして無かったことにする。だけど、透さんについてはそうもいかない。だから考えずに済ますことをせず、正面から問題に取っ組んでいた。これは今までにないことだし、我ながら頑張ってると思う。  もっとも怖れているのは、透さんがよく分からない理由でネガティブスパイラルに落ちてしまうことで、透さんにとって自然なことらしい思考の流れ自体が理解できないし推測も難しいから、難しい問題と捉えているんだけど、透さんの方は、そこを問題視してないようで、それもなんか負けた感じがする。  必要なことなら要望をかなえるべく行動すべき。それは当然すぎるほど当然なことで、なにもせず諦めるなど、僕の辞書には無い概念だ。失敗は失策を犯したということだから、次回は同じ過ちを起こさないよう留意すればいい。なんの努力もせずに諦めるなど、怠惰という罪だ。  諦めるしかないことなど、なにひとつ無い。    * * *   実のところ透にとっては、淳哉が予想外の行動をするのは今に始まったことでない。初めて会話を交わした時から何を考えてるか分からないと怖れ、それゆえに離れるべきと考えたこともあったくらいだったのだ。  それでも愛しいと思えたからこそ淳哉と付き合うことにしたので、理解しようと努めてはいるが理解できなくても問題とは考えていないし、むしろ淳哉の言動を楽しみにしているところすらある。  しかし淳哉は自分の行動は分かりやすいと考えているがゆえに、想像もしていなかった。  透は一度死を覚悟して意識をリセットしているゆえか、いろんな意味で淡泊になっている。  与えられた環境は、望む状態で無いとしても諄々(じゅんじゅん)と受け入れる。自省に落ちて自らを責めることはあっても他人(ひと)にその責を向けることは無い。むしろ感謝の気持ちを持つばかりなのだ。  生きて呼吸していること自体がなにより恵まれた状態だ、と考える透に不満など持ちようもない。  それが淳哉には理解できない。  もう望まない状況を受け入れる時期は越えたと考えているからである。

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