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五部 Lovers-22
なんとか学園祭が終わり、淳哉は英語劇から解放される、はずだった。
演劇部とは違い、英語劇はあくまで学園祭の為のイベントでしかなかったはずで、つまりそれが終われば活動もなくなる。そう聞いていたので渋々でも引き受けた顧問である。
十三時開演の最後の舞台を見て、後片付けを終えたのを見届ければ淳哉の仕事は終わり。もう透の元へまっすぐ帰る毎日に戻れる。
だがとっとと帰りたい気持ちを抑えて、後夜祭に残ったのは、最後まで付き合うと約束したからだ。劇参加の生徒達にそうしろと強く迫られた。常ならスルーする淳哉だが、三ヶ月近くほぼ毎日、しかも長時間付き合ってきた彼らに対して、最低限の礼儀は尽くそうと考えた。
職員室で喫煙してから後夜祭の行われる体育館に入ると、酒も飲んでないのに盛り上がった舞台監督と主演の生徒が、さっそく淳哉のもとに走り寄ってきた。
「ありがとうサキちゃんっ! もうサイコーだったっ!」
「達成感ぱねえっつうか!」
やたらテンションの高い二人が淳哉の手を強制的に取って、交互に熱烈握手を始めたので、「おお、お疲れ」と笑顔を返した。興奮気味の二人は感激したような顔でひたすら淳哉の背を叩き握手を繰り返す。
「めっちゃカタルシスつうか!」
「いっぱい声かけて貰ってさ!」
「良かったな。評判も良かったじゃないか」
これは本心からの言葉だった。本当に彼らは、この劇を成功させる為に真剣な努力を重ねたのだ。
「うん、大好評だった!」
「差し入れとかすげぇ貰ったしっ!」
「会話と対訳、スライドで出したアレ、すんげえ好評でさ!」
「はいはい、良かった良かった」
しかし少しでも早く帰りたい、が本音であるため、おざなりになってしまった返答に、焦れったそうな声が返る。
「つかサキちゃんなんか冷めてえよっ!」
企画から始めたこの二人にとって素晴らしい体験だったことを淳哉は理解しているが、自分にとってはあくまで押しつけられた業務の一環でしかない。しかし不足無い仕事はした。課せられた義務と責任は果たす主義なのだ。
だがいかに早く帰りたいと思っていても、『仕事ですから』で終わらてはいけない空気を感じて、ニコニコと笑い返す。
「いや~、ホラ、それってもう、過去の話でしょ? 人は常に前を見て進むべきだと思うんだよね」
誤魔化しにしても適当過ぎる発言に、しかし二人はパッと顔を輝かせ、同時に「ありがとう!」と言った。
「え?」
「サキちゃん! 俺らこれからも活動するし! マジよろしくっ!」
「もう秒で脚本書くし! また監修よろしくっ!」
「は?」
「ぜんぶサキちゃんのおかげだし!」
「だからまたやろうぜって!」
「次、一緒にやりたいってやつとかいるんだ!」
「はぁ?」
「スライドのアイディアありがとう!」
「生きた英語、つうの、マジ良かったよなっ!」
「シェイクスピアを現代に置きかえっつうアイディアは俺だけどなっ!」
「おうっ! おまえもすげぇ!」
楽しげな声を上げて笑い出した二人を、淳哉は呆然と見返すしかなかった。
帰宅した淳哉を出迎えた透は、玄関先でまず、驚きを隠さずに問うた。
「どうした」
いつも騒がしいほど元気な男は、力ない歩みのまま玄関で立ち尽くしている。
「…………透さん……」
漏らした声は、泣きそうに震えている。呆然としたような、どんよりとした表情。そんな顔を見るのは初めてで、透は慌て、「……どうした」ともう一度聞いた。
しかしそれも当然のことだった。淳哉自身、そんな気分になったのは初めてなのだから。
「ごめん、透さん。僕もうダメかも」
笑みを絶やさない男の無表情は、いつもなら怜悧に見えるのに、今日の彼は呆けたような情けない顔になっている。わけが分からず見つめつつ、透はもう一度言った。
「………どうした?」
クスッと力なく笑った淳哉は、出迎えた透を抱きしめ、―――いや、縋るように抱きついた。
「どうした、淳哉?」
「透さん、ボキャブラリーなさ過ぎ」
「ほっとけ。それよりなにかあったのか」
「ゴメン、僕、透さんになにもしてあげられない。一緒に住んでるのに、迷惑かけるばっかりだ」
髪に押しつけたままの唇から、情けない声が漏れる。
つまりこれは落ち込んでいるのだ、と理解し、透はようやく落ち着いて、抱きついてきた淳哉の背に腕を回す。
「なにを言ってる」
透の穏やかな問いかけに、甘えるように鼻や頬を髪にこすりつけながら「だって僕には力がない」と続けた声はかすかに震えていた。淳哉らしくなく打ちのめされた様子に胸を痛めつつ、透は穏やかな声を保った。
「なにを言ってるんだ」
「マジでボキャブラリーなさ過ぎだって」
ククッと笑いながらの言葉に「うるさい」と返しつつ、恋人の逞しい背をトントンと軽く叩く。
「とにかく入れ。話、聞いてやるから」
そう言っても動こうとしない恋人に、とにかく靴を脱ぐよう命じ、まとわりつかせたまま部屋へ入る。広いリビングには大振りのソファがあり、優しい色合いのファブリックにカーキの布をかぶせてある。そこにでかい図体を引きずっていき、座らせた。
温かい紅茶を入れ、それに淳哉の好きなブランデーと、胃に優しいミルクをたっぷり。それを飲ませながら、幼い子供に対するようにゆっくりと問いかけを重ねる。それにぽつぽつと答える様子は、今までになく自信を失った姿で、しおれた淳哉も可愛いと思いながら話を聞く。
曰く、今日で終わるはずだった英語劇が、これからも続くことになりそうなこと。断ろうとしたのに、教務主任や教頭からも頑張れと言われ、生徒からも頼りにされて、それは嬉しくて断れなかったこと。
それにより、帰宅が遅い状態が続きそうで、透の髪を洗うことも、野菜を食べさせることも、マッサージをすることもできないのが悔しいこと。
間宮にできて、自分にはできないことが多すぎて悔しいこと。
それでも透の為に自分ができることを考えて、できることは少ないけれど、それを全てやりこなそうと決心していたのに、できない現状。自分は半人前で、家賃もまともに等分できないことを歯がゆく感じていること。
いつもポジティブで自分を信じている淳哉が、いつのまにかそんなジレンマを抱えていたことに気づいていなかった透は、別荘での三日間以降、こういう時間を持てていなかったことを反省する。
だからいつもとは逆に、淳哉の頭を胸に抱えるように抱きつつ言った。
「辛いんだな。それは分かった。気づいてやれなくてごめんな。けど淳哉、これはおまえにとって、得難い経験になる」
「……なにそれ」
「世の中にはどうしようもないことってのは、あるんだ、淳哉」
「そんなのは嫌いだ」
「好き嫌いの問題じゃない。だがそうだな、お前の好きそうな言い方に変えるなら、こうだ。『最後に勝つ為に、今負けることも必要だ』」
「…………」
透の言葉を噛み締めつつ、透の胸に押しつけた耳を通して聞こえる、少しくぐもった声に、なぜか安堵する。透の呼吸や血管を流れるザアザアという音が、声と一緒に耳に入る。
それは妙に懐かしい感覚だった。
「おまえは、どうしようもないことなんて無いと言い切ってたよな。失敗は次のステップに繋げる為のテストケース、だったか? だがな淳哉。そういうことはあるんだよ」
なぜ懐かしいと感じるのか分からず、ぼうっと聞いていると、透の手が髪を撫でた。その感触に淳哉は目を閉じる。
「そうだな、たとえば俺の方が年上で、一回り近く若いおまえの方が経験が足りない、なんていうのもそのひとつだ。どうだ、どうしようもないだろ?」
透の手は、片方が髪を撫で、片方は背をゆっくりと撫でている。それはとても心地良かった。
「おまえが負けるのが嫌いなのも、ものごとを前向きに捉える考え方なのも知ってる。だからこそ、知る必要があるんだ。常勝の野球チームが無いように、負け知らずの人生なんて無いってことをな。どうしようもない、自分にはできないこと、人間が生きる上で不可能なことというのは、必ずあるんだよ」
胸に抱かれたまま、淳哉は「そんなのは嫌だよ」と子供のように透の腕に縋った。
「駄々っ子みたいに諦めるのが嫌だというなら、突っ走る前にゆっくり立ち止まって考えろ」
淳哉はしかし、嫌々と首を振った。
「無理だよそんなの」
「上ばかり見て、前へ前へ突っ走るだけじゃ、なにかに躓いた時、まともに転んじまう。だから時々で良い、足元を見ろ。無理じゃない。それも必要な事なんだ、淳哉」
「でも嫌いなんだ。負けるのも弱い僕も」
「大丈夫だよ、淳哉。おまえは強い」
透は少し笑いながらあやすように言い、抱いた肩を軽く叩く。
「俺はおまえが持ってる強さを尊敬してる」
「え……」
思いがけない言葉に、淳哉は抱かれた格好のまま目を見開いた。
「間宮さんを尊敬してるのと同じくらい、いや、それ以上かもな。でもおまえはもっと強くなれる」
「……もっと……?」
それは、淳哉の胸を熱くさせた。抜けていた力がみるみる漲ってくる。透の腕をつかむ力が強くなった。それを感じて透は笑った。
抱えていた頭を解放し、二度、三度、背を叩く。
「時には立ち止まって弱い部分を自覚しろ。足許を見つめろ。おまえに足りないのはきっと、それだよ」
「透さん、それって」
言いながら淳哉は身を起こし、透の顔を見た。
そこには大好きな、柔らかい笑顔があり、淳哉は自然に笑みを浮かべる。すると透は小さく頷いて淳哉の肩を叩いた。
「人間は、いつかかならず死ぬんだ。死を迎える瞬間、自分を誇れるなら、それこそが究極の勝利だと思わないか。それを目指すなら、途中で負けても悔しくはないだろ?」
いつもならこんな説教は右から左に聞き流す。
けれど今日、透から尊敬していると言われた後の言葉は、素直に胸に響いた。
確かに透は淳哉を正しく理解しており、響きやすい言葉を選んで伝えたのだが、けれど伝えた内容に嘘はなかった。
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