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五部 Lovers-23
「でもさあ、バイトするようになっていろんな人と知り合うじゃない?」
淳哉は透の腿に頭を乗せ、足をソファからはみ出させて寝転んでいる。顔をテレビの方へ向けているが、メガネをしていないので実は見ていないだろう。裸眼だとなにも見えないのは知っている。
「そうなるといろいろお誘いも受けるわけ」
「お誘い、か」
透は本を読みながら、腿の上にある髪を適当にかき混ぜていた。コイツの柔らかい癖っ毛は弄っていると気持ちいい。
大ぶりのソファの端に座って伸ばした足をオットマンに乗せる、という怠惰な姿勢なのだが、淳哉の頭がある為に動けないし、甘えてくるのが可愛いので良しとしている。実はちょっと喉が渇いてきたので、お茶でも飲みたいところなのだが。
「で、おまえは避けなかったんだな」
「そりゃあね」
淳哉が腿の上でクスクス笑い、透を見上げる。まったく甘えた態度だ。
「恥かかせちゃ悪いし。使えるマンションもあるし」
「おまえ最低だな。その人が借りてる部屋で浮気したのか」
パシンと頭を叩くと、淳哉は鼻で笑った。
「浮気って。そもそも付き合ってないし」
今はだらけきっているが、少し前まで淳哉は、寝ぼけた顔も、だらしないところも、見せようとしなかった。朝は早く起きて筋トレなどしてシャワーを浴び、朝食の用意をして、透が目覚めるときには髪型や服装までスッキリ整えていた。夜も本を読むか何かしながら、透が寝入るまで起きている。毎日酒を飲んでいるのに泥酔したところを見たことも無かった。
「ていうかその人、奥さんも子供もいるんだよ? どっちが浮気だって話だよね」
甘えた目で見上げつつ、伸びてきた大きな手が透の頬を包む。
「それに月二回くらいしか使わない部屋なんだもん。有効活用しないと」
「なるほどな。おまえは愛人ってわけか」
「う~ん、違うと思うな」
言動は甘えた風なのに朗らかさを保ち続けるあたり、安心しきってないように見えた。一瞬もぼうっとすることなく常になにかの活動をしていて、まるで怠惰に過ごすのを罪だと考えているようでもあり、透はなにを怖がっているのだろうと思っていた。
それがこのところ、こんな風にだらけた面を見せるようになってきている。
「その人が趣味で部屋借りただけでしょ? こっちから頼んだことじゃないよ」
「けどいろいろ、なんだ、プレゼントか。贈ってもらったんだろ」
「だって勝手に買ってきたんだよ? 僕からなにか欲しいって言ったことなんてなかったもん」
「……それでその人って何歳だったんだ?」
問いかけると、嬉しそうな目を向けてくる。
「なんで?」
「なんでって?」
「だからなんでそんなこと知りたいの。やっぱり妬ける?」
「うるさい。質問に答えろよ」
ぺしんと腿に乗っかったままの頭を叩くと、淳哉はクスクス笑った。
「四十五とか四十八とか、だったかな。五十歳にはなってなかったと思う。……で、妬ける?」
「べつに」
そっけなく言うと、ばしんと腿を叩かれ、「痛いっ!」と頭を叩き返す。すると淳哉は気の抜けたような笑い声を上げ、透の腿に頬をこすりつけた。
「もう、わがままだなあ、言ってよ、妬けるんなら妬けるってさ」
透はフッと笑い「つってもな」と声を漏らしつつ、淳哉の髪を撫でる。
「そんな昔の話に妬くほどガキじゃねえし」
淳哉がなぜ緊張を緩めなかったのか、答えはいまだに分からない。だがこんなふうに甘えてくるのは可愛い。今みたいな時間が、しみじみ幸せだ。
「う~わ、それって冷たくない?」
言いながら大きな手が透の肩に伸びる。残る手はソファの背を掴んで顔を持ち上げ、透の唇にキスした。
「もっと僕に夢中になって欲しいんだけどな」
「そんなのとっくだ」
顔をしかめて言うと、間近にある眼鏡のない顔が、嬉しそうに笑んだ。
「知ってる。透さんって、僕のこと大好きだよね」
「分かってるなら聞くな」
ふふ、と笑いながら、触れるだけの軽いキスを何度もしたかと思うとズリズリ下がっていき、透の肩に頬を当てるように抱きついた。でかい図体が透の上でリラックスする。
「重い」
「気持ちいい」
「ばか」
どういう理由かは分からないが、淳哉は甘えながら過去の話をするようになり、透が聞いている、こんな時間が増えた。見えない垣根のようなものが小さくなっていくようで、頑なに閉じていた部分が徐々に融解していくようで、実のところ、透は嬉しさを噛みしめている。
垂れ流される過去はたいてい、ちょっとした行動に誘発されたどうでもいい思い出だ。しかしそのうち、過去の男や女との性行為についての詳細まで、ヘラヘラくちにするようになった。その性遍歴はまったく驚くべきで、よくもそんなに体力が続くものだとあきれ果てた。
だがそれ以上に驚いたのは淳哉の記憶力だ。だいたいの年齢、髪や目の色、どんな身体だったか、どこを刺激してどんな反応がかえったか、結果として楽しめたか否か、そんなことを信じられないほど微細に覚えているのだ。なのに顔や名前は覚えていない。
透はコイツがなにを高く評価しているかが見えてきたように思い、そこから推論を組み立てた。
甘えてみせるのは単なる手管 に過ぎない。あえて自分を甘く見せ、侮らせておいてベッドの中で翻弄し、快感で屈服させる。そんな立場の逆転をこそ楽しんでいるのではないか。
自分が若く美しいことを武器と考え、それを使った誘う技術やセックスのテクニックを磨き、より楽しむことを求めた。自分の中の欠けている部分を補填できず、代償行為として一時的な満足を得る為に性行為を繰り返したのではないか。
だからコイツは自分より弱い女性ではなく、金や力のある年上の男を誘惑する。キーワードは『弱いのも負けるのも嫌い』『早く力を持つ為に』このふたつ。
そして最も長く続いたという男性、高校から大学まで付き合っていたという四十代の男性の話から、その推論が確定したと思った。
そんな推論の根拠となったのは、切れ切れに聞いた生い立ちだ。
まだ幼いころコイツは、こんなふうに甘えたことがあったのだろうか。
母親の記憶はほとんど無いし、父親は甘えを許さぬ人物のようだ。兄は愛情をもって接していたようだが、六歳から十三才くらいまで会っていないと聞いた。その後も年に二回か三回、数えるほどしか会えていない。米国でも日本でも、ビジネスライクに成長を見守る人はいても、無条件な甘えを許す存在はなかったようだ。
そんな環境のなか、わずか六歳で、精神的に自立せざるを得なかった。
普通なら親あるいはそれに代わるような存在によって守られ、愛されながら育つ年頃だ。通常なら、子供は無条件な愛を無自覚に体感し、自然にアイデンティティを確立していく。その過程がコイツにはなかった。或いは忘れたか。
つまり淳哉に欠けている部分とは、無条件に認められること、なのだろう。だからコイツは無条件に自分を認められない。自分自身に実績を求めてしまうから、自分の無力を感じるたび、自分自身に力を誇示する必要があった。
それが思春期に性衝動と混濁した。性交により得られた満足がコイツの認識を定めたのだろう。それからセックスは相手を征服して自分を誇示する手段になっていたのではないか。
そう考えればいろいろと辻褄が合った。女より男のほうが満足感が強いとか、プライドの高そうな男が好みだとか、力の誇示が目的と考えれば、それはとても分かりやすい選択だ。
自覚はないようだが、こいつが求めて居るのは性的快感ではない。人を征服することだ。
現時点で自分の力が足りないと感じるたび、勝てない相手を認識するたび、なんとかしてひれ伏せさせたいと無意識に思うのだろう。そして自分の武器を使って追い落とす。そこにこいつの快感の元がある。
それを踏まえ、淳哉が深く考えず突っ走ろうとするたびに、「考えろ」と強く言うようになった。
「なぜそうしようと思ったのか考えろ。気分で動くな。理由を持っていなければ、反論されても対抗できないぞ」
コイツは無意識で自分の弱点を自覚していて、そこを意識して考えないようにしている。自分自身で負けを認めようとしない。それが成長を止めている。次のステップへ進むには、認めたくないことを認め、考えなければならない。これは淳哉以外の誰にもできない作業だ。
「弱さを見つめろ、淳哉。負けを負けと認めなければ、克服することなどできないんだ」
最初はテコでも認めようとしなかった。しかし繰り返し言い続けるうち、徐々に内省的な部分が生まれはじめ、時々だが透の前で涙を見せるようになった。そして元気でも朗らかでもない、心から笑んだ顔も見せてくれるようになってきた。
誰もが子供の頃に感じる、親や家族から与えられる無償の愛。それを知らなかった淳哉が初めて得たのであろう、なんの虚勢もなく甘えられる場所。自分がその場所になれたように感じて、透には深い喜びがある。
けれど自分の生が他人より短いということはどうしようもない現実で、そこは片時も忘れることができないし、してはいけない。いずれ自分は淳哉を置いていくのだから、その後の淳哉について考えなければならない。
淳哉にはそれからも自分の足で成長し続けて行ってほしいと心から願っている。だから、自分が失われることがコイツにとってどんな結果をもたらすのか、なにをすればよいのか考え続けている。
が、なかなか良い方策は見つけられないでいる。
そして透は、自分が死を怖れなくなっていることに気づいていた。
今までは死ぬことが恐ろしかった。治らぬ病に侵されている事実を考えないようにしようとしても、考えてしまっていた。
眠るたびに二度と目覚めないのではと恐怖にかられ、発作が起きるたびに死を身近に感じていた。ゆえになにごとも積極的になれず、出張や原稿を断ることが多かった。
しかし、この男に出会って変わった。
コイツを成長させる為に自分は産まれ、このタイミングで出会ったのだ、これが運命だと考えるならば。
自分の発病も、人より短い人生も。今まで生きて考え、学んだこと、苦しんだこと、全てが必然だったのだと、そう思えるようになっていた。
そう思わせてくれるこの出会いこそが、透にとって何よりの宝物なのだった。
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