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五部 高校二年-9

 年明けて、1月半ば。  久しぶりの連絡で高そうな中華レストランに呼び出され、淳哉は軽い足取りで個室に入った。  そこには目を細めた兄の幸哉がいる。「ひさしぶり!」声を上げながら両手を広げると、立ち上がって歩み寄ってきた幸哉にガシッとハグして強めに背中を叩かれた。 「去年のクリスマス、ドイツ行って以来じゃない?」 「そうだな。いきなり日本に行くと聞いて心配していたが、うまくやってるようで良かった」 「あたりまえじゃない。僕を誰だと思ってるの」 「そうだな。たいしたやつだよ、おまえは」  幸哉は愉快そうに笑んで頷き、席を勧めたので共に座る。 「好きなだけ食べろ。どうせいつだって腹ペコなんだろう?」 「もちろん!」  テーブルにはすでに運ばれていた料理がいくつかあった。早速箸を取って食べはじめつつ、さらに注文しようとメニューを要求する。 「で、こっちに異動になったとか?」 「ああ、年明けから。クリスマスの時点では誰にも言えなかった。まだ社外秘だったからな」  クリスマスに行われる一族での会食へ出席するよう求められたときは、もちろん嫌だった。けど小間により拒否することを禁じられ、仕方なく行って兄と父以外の姉崎家を初めて見た。結果的に行ってよかったと思っている。  姉崎の親族の雰囲気がつかめたし、小間の言う『立場』を把握できたように思えたからだ。 「あの場で言ったら、うるさいことになっただろうね」 「確かに」  姉崎の親族には、コンコードの学校にいたハイソサエティに似た、いやらしい高慢さがあった。しかもその根拠が血筋のみと言うくだらなさ。でもああいうのって、くだらないけど崩すの難しいんだよね。 「社外秘ってことは、偉くなったんだ?」 「日本支社の専務待遇だよ」 「やったね。これで姉崎もうるさく言わなくなるんじゃない?」  幸哉は『ANESAKI』と関連のない、外資系の自動車メーカーに就職したのだが、親族は力をつけて姉崎に還元するためだと決めつけているようで、『そろそろ戻ってこい』『今こそ兄を助ける時期では?』といった声がことあるごとにかかるらしい。幸哉とはしばしばメールでやり取りしているが、このところそういった親族からの誘いが激しくなってきたと聞いている。 「どうだろうな。兄貴はいまだに戻ってこいとうるさいよ」 「ああ、克哉さん。あのひと僕のこと嫌いだからなあ」  姉崎の長男、克哉は『どこかの私生児』とのみ淳哉を呼び、けして名前をくちにしない。絶対に認めないという意思表示なのだろうが、実のところ、崇雄が小間を使って固めた淳哉の足元はかなり強固で、現在は一族の中にも淳哉を迎え入れる一派が存在する。  そのうえクリスマスの会食で見せたマウラ仕込みの完璧な社交術や、どんな当てこすりを向けられても笑顔を絶やさず、厚顔なほどの発言で煙に巻く淳哉を見て、みどころがあると考える者が増えた。崇雄が入れ込むのなら、それなりの人材なのだろうと期待の声も上がっているらしい。  克哉は次期代表の椅子を望んで必死に地歩を固めていたらしい。そこに現れた淳哉が面白くないのは当然だった。あるいは愛人の子で姉崎の血をひいてないから認めない、と考えているのかもしれない。 「すまないな。悪い人じゃないんだが、ちょっと頑ななんだよ」 「ぜんぜん。ていうか、からかうと面白いし」 「おまえ心臓だな。兄貴をからかうなんて」  ニッと笑って肩を竦めつつ箸の速度を緩めない淳哉に、幸哉も笑みを返す。 「ところで来年は受験だろう? 大学はどうするんだ。アメリカへ戻るのか」 「う~ん、どうしようかなあ」 「まあ、日本の大学は無理だろう。おまえの日本語力じゃ」 「あ、バカにした? 僕を誰だと思ってるの? 転入してからの僕は知らないじゃない」 「メールは全部英語じゃないか。今だってずっと英語だ」 「そりゃ、幸哉なら通じるもん」 『じゃあ賭けるか?』  幸哉はにやにや笑いながら、日本語で言った。 『賭け?』 『ああ、七星大学、法学部に現役合格したら、……そうだな、車をやろう』 「え、車?」  思わずテンションが上がり、英語になった淳哉を笑いながら、幸哉が続ける。 「オールロード・クワトロ。前にアレが欲しいと言っていたよな」 「マジで?」 「新車じゃないぞ、もちろん。それにもう一つ条件がある」 「なんでもイイよ全然! ていうかマジでっ?」 「約束する。だから大学の合否が決まるまで、免許は取るな。いいか?」 「え、なんで」  幸哉は肩をすくめ、眉尻を下げて紹興酒を飲んだ。 「俺が安心したいからだよ」  ハハッと笑い声を上げた淳哉は、また食事を再開したが、きっと達成してやるという意欲に燃えて目をキラリと光らせた。  だがその時はまだ知らなかったのだ。  『シチセイダイガク』が崇雄と幸哉の出身大学であり、その法学部が国内有数の難関であることを。    * * *  この学校が進学率を上げることに必死になってる、てことはみんなの話から聞いてる。  で、僕のことを『海外大学に進学する要員』と思ってるらしい。 『姉崎、どこを狙うつもりだ? スタンフォードか? いやお前の出身ならハーバードか?』 『イギリスはどうだ? オックスフォードかケンブリッジもいけるだろう』 『理系はどうだ、カリフォルニア工科大などは? 地元に戻るならマサチューセッツ工科大だろうが』  でも幸哉と約束したし、『いえ、七星大学に行くつもりです』と答えたんだけど。 『なぜだ? おまえなら海外に進学するべきだろう?』 『海外への進学なら古典を考えに入れずに済むぞ!』  みたいな感じになってて、チョー面倒くさい。あ、この面倒って日本語、ひとことで終わるし便利だよねホント。  で、もう一人面倒なのが寄ってくる。 『姉崎、進学はどうするんだ? 相談に乗るぞ』  生徒会長の田川。  力になる、いつもでも声をかけろ、とか言ってなにかと寄ってくるし、同室の旭にもいろいろ聞いてるらしいし、こいつが小間のスパイなんだろうなと思う。  だってみんな言うんだよ。『田川ってクソまじめだけど、そんな成績良くない』とか『奨学金の出る推薦狙ってんだろうな』とか『奨学生だから、マジメにやんなきゃなんじゃ?』とかね。  奨学生ってことは経済的に厳しいってことじゃない? そういう弱みがあって学内のコネクションがあるやつなんて、小間が目を付けないわけないもん。 『田川さあ、僕困ってるんだよ』 『そうなのか? どうした?』  でもそういうことなら、逆に利用しちゃおう! というわけで。 『僕は七星受けたいのに、先生たちが海外の大学受けろってうるさくて』 『え、海外に戻るんじゃないのか』 『それは分かんないよ。いずれ戻るかも知れないし、こっちで卒業してからあっちで学ぶことだってできるしさ。だとしても、とりあえず今は七星大学に行きたいの』 『とりあえずって』 『ねえ田川、先生たちに言ってくれない? 海外に行く気はとりあえずないみたいです、とかさ』 『なんで俺が』 『だって生徒会長じゃない。そういうことやってくれるんじゃないの?』 『馬鹿か。そんなわけないだろ』 『そうなの? じゃあいいや』  これくらい言っておけば小間に伝わるでしょ。そっちから手を回してもらう方がスムーズな感じじゃない?  それより調べてみたら、七星の法学部ってかなりの難関だったんだ。  英語で受験することもできるみたいだけど、日本語で受けて合格というのが幸哉の出したタスクだろうから、それはできない。僕って記憶力には自信があるし、日本語ももう1年近く経ってるわけだしだいぶ慣れた。少なくとも読むのと話すのはそんな苦労しなくなったから普通の試験なら大丈夫そうだけど、幸哉が条件に出したってことは、七星大学に合格するってそう簡単じゃないんだろう、というのは当然分かってたけどさ。  ていうか、日本って確かに暮らしやすいし、このまま日本で生活ってのも悪くないと思ってるんだよね。  街はきれいだし、ちょっと歩けばそこらじゅうに遊べるとこがある。放課後や昼休みにちょっと出かけて、楽しいことも日本式の遊びもいろいろやった。日本の高校生はおとなしいなあと思ってたけど、こんな近くに楽しいコトとかいろいろあったら自己主張するより遊びたくなるよなあって納得したもん。  だってステイツじゃ楽しいことは街の一角にしかないし、そこに行くのに車必要だし、下手したら車で二十分とか三十分の距離だったりなんだから。普段から主張しとかないと、いざという時なーんにもできないんだよ。  で、大きな刺激はないかもだけど、これはこれで楽しい日本での生活も悪くないんだけども、もちろんオールロード・クワトロ! これだよ!  いずれ手に入れたいと熱望してた車! だけど中古でもかなり高いし、手に入れるのはずっと先になるだろうと思ってた憧れ! 日本支社専務に就任したばかりの幸哉が用意したんだ、もしかしたら特別オプションつきとか、うわうわうわ、最高の一台なんだろうって期待するしかないよね! もう死ぬまで大切にするレベルの車じゃない?  これはありえないチャンス! 逃せるわけないでしょ!?  だからめっちゃ頑張ってるわけだけど、そこでマズイのが古典。なんとか象形文字には見えなくなったけど、読み解きのクセが凄くない? なんでみんなこんなのスラスラできるの?  でもまあ、あいつらレベルがスラスラできるってことは、僕にできないわけがないんだ。  絶対に、やりとげてやる!

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