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一部 忘れたこと2
その日もいつも通り、バイト終わりにそのマンションの前を通った。
家からはバイトなどするなと再三言われていたが、それを無視して半ば意地でバイトを続けていた幸哉にとって、その道を通るのはもう単なる習慣だった。彼女の懐妊を知って足が遠のいてから既に二年と数ヶ月が経過していたし、幸哉にも恋人ができて、彼女への思慕はさほど強く残っていなかったのだ。
にもかかわらず、幼い子供の手を引いてタクシーから降りる女性を見て、思わず走り寄って声をかけた。
久しぶりだったのに、帽子を被りコートも着ていたのに、一瞬で彼女だと分かった。彼女だと認識した瞬間に浮かんだのは、初恋の人への想いが募っていたためだったかもしれない。なにも偽らず語ることを許された懐かしいときへの懐かしさだったかも知れない。
声に振り返った彼女は、驚いた顔をしながらも、『久しぶりね』と笑いかけてくれた。
以前と変わらぬ笑顔で笑いかけてくれた彼女は、なにひとつ変わっていないように見え、なぜか胸にこみ上がる熱いものを、目を瞬 くことで誤魔化していると、困った弟を見るような苦笑で彼女は言った。
『部屋に上がる?』
『もちろん』
共にエレベーターに乗ってはじめて、彼女の連れている子供に意識が向いた。チラッと目をやると、子供が珍しそうに幸哉を見ていたので、しゃがんで話しかける。
「名前は?」
「……じゅんや」
「何歳?」
子供はしばらく苦戦して、ようやく指を二本立てた。
「二歳か。今日はお出かけしたの?」
しかし問いかけに子供は首を傾げ、黙って幸哉を見返すだけだ。
『この子、あまり日本語は分からないの』
彼女がそう言うとエレベーターが止まり、「Come on」と声をかけられ部屋へ向かう。その間も子供はちらちらと幸哉を見た。
人形のように可愛い子供だった。
ウェーブのかかった黒髪やつぶらな瞳、眉や鼻や口許などが、彼女にそっくりだ、と幸哉は思った。
『マミー!』
いち早く部屋に駆け入り、さっそく気に入りらしい絵本に手を伸ばした子供に『ジュン、手を洗いなさい』と言って、彼女は幸哉に椅子を勧めてくれた。子供は素直に洗面所へ向かい、幸哉が座る間に彼女は台を持って後を追った。
久しぶりの部屋は、随分雰囲気が変わっていた。
おもちゃや子供用の椅子、キャラクターのついたコップや絵本。そういったものが幅を利かせ、無機質なほど整っていた以前とはまるで違う、生活感のある部屋になっている。
洗面所からは、楽しそうな笑い声が聞こえ、すぐに戻ってきた二人は、楽しげにニコニコと笑顔だった。
『ジュンと呼んでるんですか』
『言いにくいのよ。ジュンニャ、ああもう』
眉を寄せて、彼女は「ジュン、ヤ」と言い、満足げに笑った。それは以前には見られなかった、明るい笑顔だった。
幸哉は、ああ彼女は変わったのだな、と思ったが、不思議と失望はなかった。安堵の様な暖かいものが胸に広がったのは、その親子が、現実感が無いほど美しく見えたからかも知れない。
『なぜ、言えない名前にしたんです?』
お茶を出してくれたので聞くと、彼女は『彼が決めたのよ』と言いながら子供にジュースのコップを持たせている。
『息子には「ヤ」を付けなければならないって言うの。私は最初からジュンと呼びたかったのだけど』
幸哉の兄は克哉、祖父は空哉という。姉崎家の男には代々名前に『哉』の一字を入れる、と決まっているのだ。
下らない決めごとだとは思うが、父、崇雄は入り婿なので『哉』がついていない。つまり正統ではないと言う親族は多い。
だがつまり父は、この子を姉崎の子供と認めたのだろうか。しかし認知したとは聞いていない。もし認知などしたら、母が激怒して幸哉の耳にもその怒りは届くはずだ。
『日本語でどういう字を書くか、知っている?』
『ああ、彼が書いたものがあるわ』
彼女が出してきたのは額装された半紙で、そこには明らかに父の手になる癖字で『命名 淳哉』と書かれていた。
家にも、兄の克哉と幸哉の名が記された半紙が、やはり同じように額装されて、ダイニングの壁にある。ほぼ同じそれを見れば、あの父がこの子の誕生を喜んだことは分かった。
しかし彼女はすぐにその額を持ち去ろうとした。目顔で問うと
『彼はここに飾れと言うけど、ぜんぜん可愛くないから普段は隠してるのよ』
そう言って彼女は少し舌を見せて笑った。以前より明らかに幸せそうな笑顔だった。
『今日は何か用事があったんですか』
『予防接種よ。日本ってこういう所が素晴らしいわね』
『……マミー』
淳哉が彼女のブラウスの裾を引きながら、幸哉の方を見た。
『やあ、淳哉』
声をかけたのに、淳哉は彼女の後ろに隠れてしまった。
『ヘイ、なによ、恥ずかしいの?』
彼女が髪を撫でながら笑いかける。
『ぼくも、おはなし、する』
声を聞いて彼女は屈み、淳哉を抱き締めて、頬にキスをした。
『仲間はずれじゃないのよ、ジュン。この人はユキヤよ。あなたの兄弟』
「The big brother!」
淳哉はパッと顔を明るくし、興味津々の目で幸哉を見た。
「Are you my brother?」
「Yeah , your older brother , 幸哉. Nice to meet you.」
しゃがんで握手を求めると、小さな手がキュッと幸哉の手を握った。
「ユキヤ?」
淳哉は嬉しそうに笑って、幸哉の首に抱きついた。
『すごい、おにいさんだ!』
幼い声が、興奮気味に言った言葉に、幸哉は胸を打たれた。
この子は二歳になるまで、おそらく彼女と二人きりで部屋に閉じこもっていた。たまに父が来ていたとしても、日本語を覚えられない程度なのだ。
淳哉は首から腕を放し、少し首を傾げて、不思議そうに幸哉を見た。
『……イラクサのシャツを着たの?』
意味が分からず、彼女を見ると、困ったように笑いながら言った。
『この子、絵本が大好きで、ずっと読んでるの。今は "白鳥の王子” がお気に入りなのよ』
『ああ、たしかアンデルセン……』
悪い魔法使いによって十二人の兄たちを白鳥にされてしまった主人公の少女は、イラクサでシャツを作り、それを着せることで兄たちを救うのだ。たしかそんな話だった。
幸哉はまたも胸にツキンとした痛みを覚えた。
この愛らしい子供は外の世界を知らないのだ。絵本の世界に入り込んで、そこと現実の違いなどにはまだ気づかず、疑問を感じる余地さえ与えられていない。絵本とこの部屋、夢のように美しい母親。それだけがこの子の世界だったのだ。
胸の痛みを隠し、幸哉は笑いかけた。
『違うよ、僕は白鳥になってないんだ。ラッキーなことに』
そう言うと、淳哉は目を丸くした。
『わお! よかった! ぼくイラクサのシャツ、作れない』
『それは大変だ、白鳥になってたら助けて貰えない』
そう言うと、淳哉は少し悔しそうに俯いた。
『マミーに聞いたの。イラクサどこって。でも分かんないの』
『そうか、じゃあ探しに行ってみる?』
幸哉がそう尋ねると、淳哉は眼をきらきらと輝かせた。
『いいの?』
幸哉は彼女に目を向け、問いかける。
『遊びに連れてっても良いかな? すぐ戻るから』
『遊んでやってくれるの? 嬉しいわ、とっても。でもどうして……』
幸哉は小さな子供の癖毛を乱暴に撫でながら、笑み満面で言った。
『僕はずっと、弟が欲しかったんだ』
そう言うと、彼女は本当に嬉しそうに笑った。
外出はしたが、もちろん二歳児と遠出などできるわけがない。
近所をぐるりと回っただけなのだが、淳哉はイラクサを探すどころではなかった。
唐突に道ばたで立ち止まったかと思うと、発見した草花に触れて声を上げる、しゃがみ込んでアリの行列を眺め、散歩中の犬に物怖じせず近寄って撫でる。人形のように愛らしい子供が犬に触れるのを、飼い主も笑みで受け入れていた。
散歩は二十分ほどで終え、たくさんの発見で興奮気味の上擦った声で、一つ一つがどんなに凄いことか幸哉に熱心に説明する淳哉の手を引きながらマンションへ帰った。
絵本のことなどすっかり忘れた子供は、『マミー!』と母親に飛びついて、興奮を隠さず話し出した。
『犬がいたよ! なでなでしたら、ぺろぺろって!』
『良かったわね』
『それからね、それからね』
今日の冒険が、どんなに素晴らしかったか、目を輝かせながら身振り手振りも交え、たどたどしい口調ながら熱心に報告する。
愛しくてたまらないと言わんばかりの細めた眼で子供を見つめる彼女は、何度も頷き、『ワオ』『すてきね!』と声を挟みながら嬉しそうに聞いている。
話止まない淳哉を抱き締め、頬ずりしながら、彼女は幸哉に目を向けて『ありがとう』と言った。
『こんなに楽しそうなのを、初めて見たわ』
目に感謝を浮かべる彼女と、興奮冷めやらぬ様子の淳哉を見て、幸哉は思わず言っていた。
『あの、ときどき来て、こうして遊んでもいいかな?』
彼女は瞬時、泣きそうに顔を歪めた。
慌てた幸哉が『いや! あなたが嫌なら別に……』言い添えると、彼女は緩く首を振って、もう一度『ありがとう』と言い、今度は泣き笑いの顔になった。
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