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四部 シニア・ハイ-12

 ポカンとしてしまった淳哉の表情の変化を見逃さず、ケイトはたたみかけてきた。 「お母さんが誰かに(かろ)んじられて、傷つくことを想像してみて」  淳哉は肩を竦め、「は」と鼻で笑うような声を出した。  ケイトの真剣な眼差しが、ちゃんちゃらおかしい。  想像するまでもなく、淳哉の母は軽く扱われた女だった。しかしそれは軽んじられる要因があったからだ。  愛すべき兄が酔っぱらって嘆く言葉の中から、今は淳哉も、かつて母と自分が置かれていた状況をおぼろげに理解している。つまり母はアメリカから日本へ連れていかれ、定職も無く与えられる金品だけを糧としていた。父の妻を恐れたのか、それ以外のなにかを恐れたのか、それは分からないが、ひたすら閉じこもっていたようだ。そしてそんな生活の中で淳哉を産んだ。  ともかく、淳哉はニッと笑って嘲るような声をケイトに返した。 「想像のしようがないな」 「そんな貧困な頭脳で、なにを成し遂げられると思うの? 想像しなさいよ」 「無理だよ」  苦笑と共に少し目を伏せ、肩をすくめる。 「母はずいぶん前に死んだんだ。僕が6歳の頃に。だからあまり覚えてないんだよね」  ケイトはハッとして口を噤み、善良なアメリカ人らしく、罪悪感を分かりやすく表情に上せ、すぐに目を伏せた。 「……ごめんなさい」  母は父の妻によって迅速に火葬されたと聞いている。淳哉は墓の有無すら知らない。いまさら知ったところで、どうしようとも思わないけれど。  しかし淳哉は、この“幼い頃に母を亡くした”という経歴を自分の武器だと考えていた。  同情から慰めたいと考える女性は少なからず存在して、慰めをセックスに置き換えることはわりと容易だ。女性のそういう所を、淳哉は素晴らしいと思っている。セックスさせてくれる女の子は、みんな大好きだ。  だから今回も、くすくすと笑いながら言った。 「なんで謝るの。君が母を殺したわけじゃないだろ」 「不用意な発言をしたわ。あなたの傷に触れてしまったなら、謝らなくては」  眉尻を下げ、目尻に朱を上せてこっちを窺う表情は、本当に申し訳ないと思っているようだ。まったく善良でまっすぐで正しい女の子ほど扱いやすいものは無い。  淳哉が手を伸ばし、向かいに座るケイトの頬を、指の背でそっと撫でると、ケイトはピクッと肩を揺らし、目が大きく見開かれた。 「ヘイ、ケイト」  淳哉は頬を撫でた指で唇をなぞる。するとそこが僅かに震えた。 「君は素敵な娘だね。でも君が気に病むことなんてなにも無いよ」  言いながら残る手で、オレンジジュースから手を離したケイトの手を軽く握る。彼女の指は少し冷たかった。 「僕は今の僕がここにあることを感謝してるし、それには今までのすべてのことが必要だったと知っている。なに一つが欠けても今の僕は存在しないからね」  ニッコリと語りかけると、彫像みたいに固まっていたケイトは、とってつけたように、ぎこちなく笑った。 「……それは、素敵な考え方ね」 「だろ? 僕は自分が好きなんだ」  ニッと笑ってそう言うと、淳哉は握っていたケイトの冷たい指を口元に寄せ、そこにキスをした。  ケイトがまた目を見開き、目の周りを少し赤くしながら、小さく笑った。さっきの挑戦的な笑顔もよかったけど、はにかんだようなこの笑顔もなかなか良い。そう考えつつ、淳哉は握る指に少し力を込めてから解放した。ケイトは大急ぎで胸の前まで手を引き、残る手でキスされた指を包んだ。  それを見て淳哉は、クスッと笑って肩を竦めた。 「ゴメン、今日はこれで失礼するよ」  そう言って腰を上げると、ケイトも「私も帰るわ」と言いながら慌てて立った。椅子が大きな音を立てて倒れ、彼女は飛び上がるほど驚いて、すぐに椅子を戻した。淳哉は思わずクスクスと笑い、徐々に耐えきれなくなって、しまいには肩を揺らして笑ってしまった。それをケイトが恨みがましい目で見る。 「ゴメンゴメン、じゃあ君の寮まで送るよ」  彼女の寮まで、徒歩で三分ほどだったが、いかにも離れがたいというそぶりを淳哉は見せ、しかし手もつながずに並んで歩いた。寮の前まで送ると、そこで初めて彼女の手を軽く握り、目を見つめながら言う。 「今日は君と話せてよかった。また時間が合ったら話し相手をしてくれる?」 「……いいけど」 「良かった。じゃあ、また明日」  ニッコリと笑いながら手をひらひらと振ると、彼女は唇を引き結んだまま、強張った顔で小さく頷き、小走りに寮へと飛び込んでいった。 (いっちょあがり)  今日の首尾に満足して、自然に笑ってしまいながら、自室へと足を向ける。  ケイトはおそらく、同じ寮のなんとかっていう娘に、もう心配の必要はないと言って、それから夜通し考えるだろう。  可哀想な男について。  意識させればもうこっちのもんだ。偉そうに女性を愛する意味について語ってたけれど、あの反応を見れば、実際の恋愛経験は多くないことなんて丸わかりだった。こっちは色んなタイプの女性とさまざまな駆け引きの経験を積んでる。チョロすぎて正直、相手にならない。  ケイトについての考察はあっさり終わり、淳哉の思考は久しぶりに思い出した母に移動した。頭の中が暇になったからだ。  母については、ほぼ兄からの情報しかない。それも酔っぱらって愚痴みたいにこぼす言葉からの推察を組み立てただけだから、本当におぼろげなイメージしか持っていない。  事実として分かっているのは、母が何者なのか分からないということだ。  アメリカ国籍が確認できなかった母の、本名も、本当の国籍も、本当の血筋も、全く分からない。東洋系だったことは間違いないが、そこにどんな血が混ざっていたのかも不明なままだ。  なにかを隠蔽(いんぺい)しようとしていたか、あるいはなにかから逃れようとしていたか。ともかく、なにか後ろ暗い事が母にはあって、タカオに全てを預けるしかなかった。  つまり母には絶対的な弱みがあったのだ。それでは軽んじられてしかるべきだし、むしろ母はタカオを利用したとも考えられる。アメリカから連れ出してくれる、金と力を持った男を捕まえた、これは使える、と考えたのかも知れない。  そこら辺、親子なのかもなあ、と思うとちょっと愉しい。なぜなら淳哉もタカオを利用しているからだ。  十歳くらいからタカオに対したとき、『僕の種まいたのアンタなんだから責任取れよ』という態度を貫いている。マウラを雇い、金を出し、淳哉が能力を高める為の環境を整えるのは、当然の事だと考えているから、淳哉はタカオに感謝などしたことが無い。  母が妊娠を喜び、淳哉を愛したことは、兄の話から伺えた。それはかなり嬉しいことだったし、母の意思には感謝している。母が産もうと思わなければ自分は存在しないからだ。  けれど淳哉のような子供を、生まれてきただけで不幸だというやつもいる。実際、六歳でマウラの施設にいた頃、『かわいそうに』なんて言われて、ハテナの気分になった。 『たまたま父親が金持ちで、マウラという協力者がいたから、君はこうして育った。ラッキーだったね』  いかにも善人面したやつの、クソ忌々しい祝福の笑顔が目に浮かぶようだ。クソ喰らえ!  今の状態がただの僥倖だなんて言わせない。  この自分を得る為に、淳哉は努力をしたのだ。勉強だけではない。ちゃんとしたマナーや振る舞いを覚えたし、身体を鍛えることも怠らなかった。幼い頃はひとりでやっていたトレーニングだが、この学校に来てから仲間ができた。互いに有効なやり方を提案しながらするのは愉しかったし、負けるもんかと励んで互いに向上できた。  自分を高めたい、というのは、もはや強迫観念を通り越して、淳哉の習性となっているが、なぜそんな気持ちになってしまうのかなど考えていない。ただ常に意識していることはある。  自分はなにかにとって必要だから、こうして生きている。  まだそれがなにかは分からないけれど、何であっても対応できるように、自分を高めておく必要がある。だから努力はむしろ愉しい。これからどんなことが自分に待ち受けているか想像するとワクワクしてくる。  寮への帰り道、上機嫌な淳哉は、そんな風に若者らしい盲信と言えるような自意識には無自覚だった。

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