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五部 高校二年-11

 思わず読み込んでいた古い本。それはシェイクスピアの『リア王』だった。  最後まで読み終え、パタンと本を閉じると同時に目も閉じる。最後のシーンが目の裏に浮かぶように思い、熱のこもった息を吐きだして目を開く。ふと本棚に目をやると、他にもシェイクスピアの著作があった。少し迷ったが『リア王』をもとの場所に収め、次の一冊を手にとる。  『真夏の夜の夢』  やはり愚かな、しかし陽気な妖精たち。くちもとには知らず笑みが浮かんでいた。厳かな王が登場し、空気が変わる。深い森の、水分量の多い濃密な空気に包まれたような感覚に、ハッとして周囲を見回した。  そこはすっかり暗くなった図書館で、少し埃っぽい乾いた空気の中にいる現実に戻っている。  目を瞬いた。  今のはいったいなんだ? 何が起こった?  恐ろしいような気がした。自覚ないまま異世界へ連れ込まれたような―――しかしまた入り込みたいような。  少し迷いながら、それでも誘惑に打ち勝てず、またページに目を落とすと、すぐに先ほどの感覚に包まれる。しかしあらがわず、そのまま本の世界に没頭して、今度は読み返すことなく、いつも通りのスピードで読み進める。このスピード感を損なうのが嫌だったのだ。読み終えて、最初からもう一度読む。一回目では気づかなかった発見。そうか、ここでこんなことを言っていた。コイツのこの行動があそこに繋がるのか。  シェイクスピアについて、もちろん一通りの知識はあった。キースが演劇にのめりこんで、読めと強要されたこともあった。なのにその時は相手にせず「そのうち読むよ」なんて言っていたことを思い出し、激しい後悔の念が沸き起こる。 (僕はなんて馬鹿だったんだ! こんな美しい英語表現があったなんて! これに今まで気付かなかったなんて! これは罪と言っていいほどの過失だ!)  棚にはもう一冊『十二夜』があったが、シェイクスピアはその三冊しか見つけられなかった。図書館がすっかり暗くなっているからかも、と考え時間を忘れていたことに気づきフフっと笑ってしまう。バカみたい、そう思うのにそこから動きたくなくて、携帯の灯りで『十二夜』を読んだ。読み終えると、また『リア王』を手に取る。  最初気付かなかった発見があり、また夢中になった。淳哉の脳内で、愚かさゆえに苦悩し狂っていく年老いた王の姿がくっきりと浮かび上がる。石造りの城の冷え切った空気の中にいるような感覚。  トムとして登場したエドガー、道化、グロスター卿。彼らも空気感と一体になり、その世界に取り込まれていく。  自己の利益のみを考え愚行を犯すやつら。コーデリアやオクシモロンだって、自己の欲望を優先させたのだ。真実を貫こうとする欲望は他面から見れば欺瞞(ぎまん)だ。結果として悲劇を呼ぶのなら、それは他が見えていない愚かさだ。  ―――分かる、分かる。僕には分かる。そうだ、こんな風に人間は醜くて愚かだ。なのに……  ―――なんて魅力的なんだ。  読書に夢中になって夕食を抜いたことにも気づかず、夢中になっていた。我に返ったのは携帯の充電が切れて読めなくなったからだ。  図書館は真っ暗で、本棚にぶつかったりしながら廊下に戻ると、窓から入る光でほんのり明るくて、妙な現実感というか違和感があった。さっきまで浸っていた世界から、すっかり切り離されたような気分。  指が震えていることに気づく。心の震えが身体に伝播したかのようだ、と思ったところで、いきなり腹が鳴った。 「……おなかすいた」  空腹も喉の渇きも忘れていた。  もう食堂は終わってるよなと思い、フフッと笑ってしまう。  集中すると、こんなふうに食事を忘れることはある。マンチェスターでは仲間が強引に食堂まで引きずって行ってくれた。だがここに彼らはいない。  かつてリックが言っていた。「これこそが歓喜だ」それが脳の片隅で(こだま)していた。  あれはつまり、こういうことなのだ。確かにこれは他のなににも代え難い感覚だ。  首を振りつつ、点呼は終わっただろうか、と思う。同室の旭は、自分が部屋にいないことで叱責されたかも。食事するために塀を越えるしかないなら、旭にも何か買ってこなくちゃ。  無理やり冷静になろうとしても、心の奥底から湧き上がってくるような衝動を消せない。  脳幹から心臓へと音無く伝わるそれは身の裡を興奮で満たしていき、冷静であろうとする自分を凌駕していく。  初めての感覚に包まれながら、どこかぼうっとしたまま校舎を出る。寮に戻ると、やはり点呼は過ぎていて、待ち構えていた寮監に睨まれた。 『姉崎、どこにいたんだ』 『図書館に』 『図書館だと?』 『……夢中になって、時間忘れちゃって。おなかすいたよ』 『飯食ってないのか』  寮監室に呼ばれ、秘蔵のカップ麺を提供されつつ問いただされたので、素直に話す。  『リア王』を読んで変な感覚に陥ったこと。続いて『真夏の世の夢』を読んで、また変な感じになったこと。暗くなってきたので携帯の灯りで『十二夜』も読んだこと。携帯の充電が切れたので戻ってきたこと。  カップ麺にがっつく淳哉と充電の切れた携帯を見て、寮監はニヤリと笑った。 『そうか。姉崎でもそんなことがあったか』  カップ麺を食べ終えると、『もうすぐ風呂が終わるぞ』と寮監室を追い出された。なぜ叱られなかったのか不思議に思いつつ部屋に戻ると、旭には文句を言われた。風呂が終わる前に行かないと、と言い訳しつつ入浴し、浴室前の自販機で買ったジュースを渡して、旭に詫びる。 『珍しいな、素直に謝るなんて。ていうかどこにいたんだよ』  問われて、寮監に話したことをまた説明する。しかし今度は、読んでいた時の感覚や感じ取ったいろいろも交えたので、さっきまで感じていたものが呼び起こされ、自然に声に熱がこもっていた。 『分かった、もういい。めっちゃ感動して時間忘れたってことかよ。おまえでもそんななることあるんだな』  なにを言われようと、なぜか気分が良い。なんとなく体も軽い。シェークスピアには、このところ胸の裡に堆積していた重く硬い汚泥を吹き飛ばす威力があったようだ。  その威力あるなにかが、いったいなんなのか。言葉にできずにいたのだが、旭が『感動』と言ったので、そうかこれが感動という感情なのかと腑に落ちた気分になった。すると旭がゲラゲラ笑いだす。 『おまえ、そんなガキみたいな顔もするんだな!』 『ヘイ、なぜ笑う?』 『ん~? ホッとしたんじゃねえの?』 『ホッとしただって?』 『おまえ、人間なんだな』 『あたりまえじゃないか』  釈然としない気持ちになりつつ、自分のデスクを見て今日のノルマから敵前逃亡していたことを思い出した。 「やんなきゃ」  おもむろにデスクについて勉強を始めた淳哉に、『……いきなり変わるな』と呟いた旭は呆れたような半笑いで、それ以上声をかけようとはしなかった。こういう状態になった淳哉に声をかけても無駄だと、思い知っているのだ。  ため息まじりに旭もデスクに向き直り、勉強に戻った。    * * *  あまり眠れないまま朝になった。  いつも通り筋トレとジョギングをしてシャワーを浴び、誰より早く朝食を終えると校舎へ向かう。まっすぐ図書館へ行ったが、7時過ぎたばかりだったのでまだ司書は来ておらず、シェイクスピアの著作が他にもあるか確認するのは無理だ。できれば本を借りたいが、それも今はできない。しかし司書が来るのは9時過ぎると分かっていて来たのだ。我慢できなかった。  おそらくシェイクスピアは全作あるだろう。だが問題は原書があるかどうかだ。日本語訳も読んでみたいとは思うが、まず英語で読みたい。そう考えつつ一番奥の棚へ行き、昨夜夢中になって読んだ『リア王』を手に取った。  今読んだらまた時間を忘れそうで、授業に間に合わなくなるかもと怖れ、もう一度読みたいという衝動と戦いつつ、本は開かず表紙を睨む。  湧き上がるのは、悔恨。 「なんで今まで読もうとしなかった? これこそが僕の求めていたものだよ、本当に学ぶべきものはこれだよ!」  もっと多くを読み解きたい。ここにあるのがコレだけだとしたら、どこへ行けばすべてを読めるのだろう。 「やっぱりUK(イギリス)だろうな」  オックスフォード、ケンブリッジ、そんな大学名が浮かぶ。本場で本物のシェイクスピアに触れることができたなら、きっともっと素晴らしい感覚を知ることができる。きっとそうに違いない。  ―――もっと知りたい。もっと読みたい。この世界に浸っていたい  「‛Speak what we feel, not what we ought to say.’」(我々は感じるままを語ろう。するべき事ではなく)  エドガーのセリフを口の中で呟いていた。 「そうだ。やらねばならない義務じゃなく、感じたことを口に出すべきだ」  心の(うち)に強烈な想いが湧き上がる。  それは、これを思う存分学びたいという、熱狂的なほどの衝動だった。また指が震えていることに気づかぬままそれを自覚し、淳哉は経験したことのないほど深い懊悩に陥った。 「これを読み込みたい。深く学びたい、けど·····憧れの車を手に入れるためには七星大学法学部を目指さないと、なんだよ。そうだよ、·····けど! ―――法律!? 僕にとってそれは重要か? いやそうじゃない、全く違う! だけど車は重要だ。オールロード・クワトロ! ああ、なんてことだ! いったい、この歓喜をあっさり捨て去り法律を学ぶなんてことができるのか?」  淳哉は奥歯を噛んだ。 「僕にはできる。それは分かってる」  強い欲望があっても、いつだって望みと義務をしっかり判別して、果たすべき義務はきっちりと果たし、権利や希望を主張するのは義務を果たした後で良いと考えてきた。  結果を出し、何も言わせない状況を作る。そこをおろそかにしたことはないし、そのとき自分の希望や欲望については考えない。やるべき事の前で、そんなものは無意味だからだ。  つまり問題は、できるかできないか、ではない。 「たとえ車を手に入れても、きっと僕は後悔する。無駄に過ごした四年間を悔いるに決まってる。たとえ義務を果たすべく法律を学んだとして、きっと僕はそれを捨て去って、ここに、この本に舞い戻る。だってこんな素晴らしい物に触れて見過ごすなんて、それはもう罪悪だろう? けど、……賭けたんだ、僕は」  七星大学法学部に合格し、幸哉に勝ち誇ってみせる自分の姿。ほんの昨日まで、それしか頭に無かった。なのに。 「だって、これをもっと深く学びたいんだ」  その衝動は今までになく強く激しく、淳哉の心を震わせていた。 「なら本場、UK(イギリス)で学ぶべきだろ? 日本で法律なんてやってる場合か?」  湧いて出た考えはみるみる大きくなる。  酷く寒い日に川面を覆う、真っ白で冷たくて湿った濃い霧のように、想いが脳内に満ちる。 「けど車は欲しい。憧れのオーバーロード・クワトロ。あれが手に入るんだ。しかもディーラーの日本支社専務が、これならと選んだものが。どんな新車より価値のある一台。そんな好機を掴まなくてどうする? だけどこんな歓喜を知った後で法律なんてやってる場合か? 車のために無駄な四年間を過ごすのか? 自分の貴重な時間を浪費するのか? そんな馬鹿な!」  ほんの五分を無駄にすることさえ嫌う淳哉にとって、四年間というのは長すぎて想像を超えた。 「……なら、条件を変えるしか無いってことだ」  そう呟いて、表紙を睨み据える、そのくちもとには不敵な笑みが浮かび、視線には強い光が宿っていた。

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