89 / 97

五部 高校二年-12

 思いを固めた淳哉は、どのような行動が最適か考えた。  UKの大学に進み、思う存分シェイクスピアを学ぶ環境を手に入れる。そのうえでオールロードクワトロも手に入れる。  どんな方法なら兄に認めさせることができるか。受験のための勉強そっちのけで考え、必要と思えることを調べあげる。  過保護で心配性なところを含めて兄を愛しているけれど、今回は一度受けた賭けを覆す行為だ。甘い見通しを出しても、必ず突っ込まれてしまうだろう。  そうして1週間ほど経過したある休日。淳哉は満を持して、兄の家へ電話した。  電話に出た美沙緒は、幸哉へ取り次ぐよう言った淳哉の声に『あら』少し笑った。 『ずいぶん切羽詰まってるのね』  そう言って電話を代わる。  そんなに声に出ていただろうか。唇を噛んで、しっかりしろと自分を叱咤する。これから交渉なのだ、冷静になれ。自分に言い聞かせながら、電話の向こうに伝わらぬよう気を付けて深呼吸した。 『どうした』  ドイツ生活で休日をしっかり楽しむすべを身に着けたからか、幸哉の声はお気楽で、のほほんとしいる。そして日本語だった。美紗緒は基本日本語だが、幸哉はたいてい英語で話してくれるのに。  日本語で説得できるだろうか、いや無理そうだと考え、英語で通すことにした。 「幸哉、どうしても法学部じゃなきゃダメ?」 「なに? ……ああ、大学か? 進学先のことか」 「そうだよ!」  英語で返してくれたのでホッとしたが、思わず出た声はいらだちの籠ったものになっていた。 「他のなんだっていうの! ちゃんとしてよ!」  このことばかり1週間考えていた淳哉は、間の抜けた答えにイラっとした。だが、ただ休日を楽しんでいた幸哉にいきなり言っても分かるわけがない。まして賭けの話をしてから、ひと月以上経過しているのだ。  だが今回に限らず、淳哉にはこういう所があった。  たとえば相手の投げかけた言葉に対して、脳内では思考が恐るべき早さで展開されるのだが、淳哉は結論だけを返答する。しかし相手は途中経過なしに結論だけ告げられても話がつながらず、いきなり話が飛んだと感じる。話を聞いているのかと反感持たれることも多いのだが、淳哉はそのように思われるなど考えつきもしない。自分の中で筋道が立っているので、むしろ分からない方が悪いとでも言いたげな態度をとる。  さらに記憶力が人並外れているので、ひと月以上前の話もついさっきのことのように覚えている。今も、この間の続きを話している感覚だ。  だが幸哉はもちろん、年の離れた弟のそういう性質を知っている。 「ずいぶん必死じゃないか」  そう笑った兄に、淳哉は苛立ちを隠さない声を叩きつけた。 「なに言ってるの! 幸哉があんなこと言うから僕だって必死になったんだよ!」 「おいおい、落ち着けよ」 「落ち着いていられるわけないよ!」  これから話す内容は、淳哉にとってベストとは思えない提案であり、かなり妥協したものなのだが、あくまで淳哉の内部での葛藤であり結論でしか無い。休日の朝、いきなり責められた幸哉が瞬時戸惑うのも当然だった。  しかし淳哉とその母に振り回されていた若かりし頃とは違い、今の幸哉は逞しく、したたかな男なのだ。  姉崎家に生まれ、そのくびきから逃れようと行動したが、それでも日本の経済界にいれば姉崎の名前はついて回る。そんな中で働いて出世を果たし、ドイツで揉まれて四十前に相応の立場を掴んだうえ、現地法人とはいえ専務の地位を手に入れたのだ。つまり善良で優しいだけの人物ではないのである。  そのうえこの兄は、情緒が未発達なのに頭の回転だけは早い弟との会話に慣れていた。 「幸哉、オールロード・クワトロはすっごく欲しい。そのために頑張ろうって真剣に思ってる。だけど……」  なるほど、と幸哉は声を出さずに笑い、すぐに低めた声を受話器へ吹き入れた。 『……そうだな、オールロードは法学部じゃなきゃ出せないな』  あえて日本語に戻った兄の、意地悪くニヤリと笑う顔が目に浮かぶようだった。善良で優しい兄の、自分にはあまり見せない顔を思い知ったような気分になりつつ、ここで負けてはならぬと淳哉は声を励ました。 「でもさ、大学って学ぶための場所だよね! そこで本来の道と違うことを自覚しつつ我慢するなんて、学問てものに対する冒涜だと思わない?」 『………大げさだな』  英語で説得を試みる淳哉をあざ笑うかのように、幸哉は日本語で返す。 「幸哉は大学で何を学んだの? 目標や動機があって、そのために学んだんじゃないの? なりたい自分を達成するために頑張ったんじゃないの? 僕も同じってことだよ」 『車を手に入れる、というのは動機にならないのか』 「それはなるけど!」   あくまで冷静な声に、搦め手からの説得を諦め、淳哉は声を高めた。 「でも僕は、学びたいものができたんだ!」  すると兄は低く笑い、静かに問うてきた。 『何を学びたい、淳哉』 「英文学。古典を」 「英文学?」  間髪入れずに言うと、意外そうな声が返る。 「そうだよ。とても美しい物を見つけちゃったんだ。僕はもっと多くの、旋律のように美しい文章を知りたい。だからUK(イギリス)で学びたい。学校の先生たちもオックスフォードとかケンブリッジとか行けって言うし」 「なるほどな。だが淳哉、お前が再び日本を離れることを、お父さんは望んでいないと思うぞ』  それは想定できた。クリスマスに会食へ出席するよう要求されて以来、考えてきたことだ。  崇雄が何を考えているか、小間の言葉の裏になにがあるかを読み、会食では崇雄や克哉兄の言動を見定め、親族と呼ばれる人々を観察した。そして淳哉なりの結論は出ていた。幼い頃に聞いた言葉を、改めて思い出しもした。  『おまえにその価値があれば迎え入れてやろう』  崇雄にとって、自分が価値ある者に数えられているようだ、という感触。ならこっちにも強みがある。 「じゃあUK(イギリス)じゃなくてもいい。七星大学でいい、そこに行くよ」  これが淳哉の見出した妥協点だった。イギリスの大学で学びたいという第一の希望。それを七星大学でいいと妥協する。その代わり――― 「けど法学部じゃ嫌だ。日本の法律なんて少しも知りたいと思わないよ!」 『ふむ。しかし七星の英米文学部は、そう馬鹿にしたものでは無いぞ、淳哉。ちゃんと調べて、根拠と利点を明確にしてから、もう一度連絡してこい』  唐突に切れた電話を睨みつつ、淳哉は先走って作戦を間違えたことに気づいた。善良で優しい愛すべき兄は、実のところ甘く見てよい相手ではなかったのだ。それをこのときはじめて思い知った。

ともだちにシェアしよう!